死を視る僕は、誰の目も見ない
@akaiushi
死を視る子供
第1話「最初のまなざし」
その日、空はどこまでも高かった。
雲ひとつなく、焼けるような陽光が屋根瓦を照らし、草の葉の一枚一枚がぴくりとも動かない。
風はなく、音も少なく、まるで村全体が息を潜めていたかのようだった。
晩夏の午後。
井戸端では桶の水がぬるくなり、畑では蝉にも似た小さな虫の声が耳に残る。
日陰に逃げ込んだ子どもたちは口数も少なく、ただだらだらと時間を溶かしていた。
そんな中で、唯一人、元気に駆け回っていたのがリナだった。
「ほらっ、こっちだよー!」
彼女は小川に向かう道を、年上の兄の手を振りほどくように先に走っていった。
その細い背中に、日差しが反射して金色の輪郭が浮かんでいた。
木の葉の影がまだら模様を地面に描き、彼女の髪が跳ねるたびに光が踊った。
リナの声は不思議とよく響いた。小柄で、言葉もそれほど大きくなかったのに、いつも真っ直ぐ耳に届く。
俺はその日、村の外れにある大きなクルミの木の下で、草をむしりながらぼんやりとしていた。
誘われたんだ、小川へ。でも俺は断った。
なんとなく、体が重かったのもあるし、ただ単に人が多いのが苦手だったのもある。
「いっつも断るよね、あんた。ほんと、しゃべんないくせに意地は強いんだから」
そう言って笑うリナの顔が、やけにまぶしかったのを覚えてる。
リナは物語が好きだった。
村の語り部が夜に火を囲んで神話や昔話を語るとき、彼女は一番前の席を取って夢中になって聞いていた。
「この世界のどこかにはね、本当に“運命”ってのが見える人がいるんだって。おとぎ話だけど」
そう言って、リナは楽しそうに目を輝かせていた。
俺はそれを聞き流しながら、「そんなもん見えたら怖いだけだろ」と内心で呟いていた。
けれど、今思えば――彼女の目は、本当に何かを見ていたのかもしれない。
あの時の空の青さ、土の匂い、汗のにじんだ襟元の感触。
それら全部が、妙にくっきりと記憶に残っている。
いや、記憶というより、切り取られた一枚の未来として、俺の中に刻まれていたのかもしれない。
それは、ふとした瞬間だった。
木陰から顔を上げ、遠くの道を見たとき。
リナと、目が合った。
ほんの一瞬。
彼女は手を振っていた。目尻に笑い皺を浮かべて、無邪気に、なんの警戒もなく。
そして――その瞬間だった。
視えた。
水の中。
差し込む光。
空気の泡が昇り、少女の髪が広がる。
助けを求めるように動く口。
伸ばされた手。
沈む体。
誰の声も届かない。誰の目にも映らない。
ただ、静かに、確かに、死に向かって落ちていく。
その映像は、現実を押しのけて脳に叩きつけられた。
目は開いていたのに、世界がそこになかった。
視えたのは、“今”ではなく、“これから”だった。
「未来……?」
その時の俺に、そんな言葉は出てこなかった。
ただ、胸の奥が冷たくなった。背中がぞわりと泡立った。
震える指先。息苦しさ。
でも何より怖かったのは、その“死”が、あまりにも自然だったことだった。
誰にでも訪れる終わりが、まるで最初から決まっていたように流れ込んでくる。
俺はその場から動けなかった。
数時間後。
村にざわめきが走った。
「リナが帰ってこない」
「兄の話では、ちょっと目を離した隙にいなくなったと……」
男たちが集まり、松明と縄を手に、小川へ向かった。
俺も、その後ろを、言葉もなくついて行った。
歩きながら、頭の中ではずっと、あの映像がループしていた。
沈むリナの姿。揺れる髪。誰にも気づかれない最後の瞬間。
それは、“視えた”のではない。
もう一度思い出しているような感覚だった。
すでに起きた出来事を、何度もなぞっているかのように。
夜になって、彼女は見つかった。
小川の下流。浅瀬の岩に引っかかるようにして。
顔の表情はもう分からなかったが、俺には“視えた通り”に思えた。
泣いていた者もいた。取り乱す者もいた。
けれど俺は、声を上げなかった。ただ、静かに目を伏せていた。
「なんで一緒に行かなかったの?」
「どこで別れたのか、知ってる?」
そんなことを聞かれても、俺は黙って首を振った。
俺は、言えなかった。
視えただなんて。
目を合わせた、その瞬間に、死が流れ込んできたなどと。
翌日、母は俺を葬儀に連れて行こうとした。
「行かなきゃ、後悔するよ。リナちゃんはあなたの、大切な……」
俺は首を振った。布団にくるまって、顔を見せなかった。
母はそれ以上何も言わなかった。
それからというもの、俺は、人と目を合わせるのをやめた。
誰かの目を見るのが怖い。
もしまた視えてしまったら? もしそれがまた現実になったら?
そんな恐怖を、誰にも話せないまま、俺はただ、目を伏せる術だけを覚えていった。
人と話すときは、肩越しに目線をずらす。
道ですれ違う時は、地面を見る。
笑いかけられても、応えられない。
そうして日々は過ぎていった。
けれど、どれだけ視線を避けても――
俺の中には、あのとき視たものが、ずっと残っていた。
視てしまった未来。
見えてしまう、他人の“死に至る運命”。
それが、俺にとっての最初のまなざしだった。
もう、誰の目も見たくなかった。
誰の運命も、知りたくなかった。
けれど、たった一度視ただけで、すべてが変わってしまった。
俺と他人との間にあるものの距離も、境界も、信頼も。
あれから何年経っても、リナのことを思い出すたびに、俺はあの空の青さを、思い出す。
何も起こらないはずの、完璧に平和な一日。
だけど、世界は知っていたのだ。
あの美しい午後が、誰かの“最後”になるということを。
そして俺は、それを視てしまった。
それが、すべての始まりだった。
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