ブラック企業で働いていたおじさんが転生したらゴキブリの勇者になっていました!!~今日も誰にも気づかれずに勇者してます~

你是谁

プロローグ 死んだら、虫だった。

気がついたとき、俺は下水のような場所で目を覚ました。湿った空気と腐臭が鼻をつく。体を起こそうとすると、視界に映るのは黒光りする腕。……いや、これは腕なのか? まるでゴキブリのような――


「は?」


戸惑いと共に、俺は自分の体を確認する。細長い触角、分厚い外殻、六本の脚。どこからどう見ても、俺は“ゴキブリ”だった。


……悪い夢だと思いたい。でも、どこをどう触ってもリアルすぎる。俺は目を閉じ、深呼吸した。……してしまった。腹側の気門がパカパカ開く。現実逃避は即終了した。


「はぁぁああ!? ゴキブリ!? なんで!?」


記憶を遡る。俺の名前はゴロー。ブラック企業で働いていた、35歳独身。家族とは疎遠、友達もいない。最後の記憶は、パソコンの前でカップ麺を食べながらデータを打っていて……そのまま意識が――


「死んだのか、俺……」


そうだ。心臓の痛みと冷たい汗、誰にも気づかれずに床に崩れ落ちたあの瞬間。机の下で横たわりながら、ふと思った。「ああ、これが終わりか」って。


その瞬間、上空に白い光が差した。そこに現れたのは、美しい女神のような存在。長い銀髪に微笑を浮かべた彼女は、淡々と言った。


「あなたの魂、再利用対象に選ばれました。虫型、ゴキブリ型。よろしくお願いします」


「ちょっと待て、話が早い! ってか何その選び方!?」


「人間としての性能は低めでしたが、精神耐性と生存性に優れていたので、虫としての再配属を決定しました」


「まるで人材評価みたいに言うな!!」


そう言い残して、彼女は光の中に消えた。質問も説明もない。お前、アプリの規約より説明短いな。


再利用? なんだそれは? 俺の人生、リサイクルってことかよ。


「ふざけんなああああああああ!!」


反響する声。いや、声じゃない。俺の体からは音が出ない。正確には、触角を使った摩擦音と、足音と振動でしか存在を主張できないらしい。


「しゃべれねぇのかよ……ッ!」


絶望と混乱の中で、俺は気づいた。この世界には俺以外にも“虫”がいる。いや、“虫の文明”が広がっていた。


華麗に飛び交う蝶族の住民、地面を律動的に行進するアリたち、木の上から監視してくる蜂。だが、どいつもこいつも俺を見た瞬間、顔をしかめる。


「……うわ、ゴキ……気持ち悪……」


俺は本当に、最下層の“虫以下”の存在になってしまったらしい。


街は意外にも整備されていた。小さな葉のベンチ、木の実で作られた建築物、花粉と水を売る露店。見上げれば、空を滑るように舞う蝶族が、まるで貴族のように振る舞っている。地上にはアリの兵士が列をなして巡回しており、蜂族の監視飛行体が警戒音を鳴らしている。


聞いた話では、この世界は『グラン=ベイバル樹海』と呼ばれ、虫たちが築いた高度な文明──ムシ・シビリゼーションが広がっているらしい。見た目の美しさや力、集団効率が尊ばれる社会だ。当然、見た目も不快で個体主義のゴキブリは、完全に“最底辺”とされている。


だが、誰も俺に視線を向けようとしない。まるで、視界に入れることすら穢れだとでも言うように。


俺は歩く。舗装された小石の道に、俺の足音は吸い込まれていく。誰も、気づかない。


ふと、水たまりに自分の姿が映る。そこには、全身真っ黒な外殻に包まれ、長い触角を揺らす“虫”がいた。光沢のある背中がやけに不快だ。


「……気持ち悪いな、俺」


人間だった頃、自宅の洗面所で見た自分の顔を思い出した。目の下にクマを作り、笑顔もなく、ただ時間だけが過ぎていく顔。


あの頃も、今とそう変わらない。誰にも気づかれず、誰にも求められない存在。ゴキブリになったところで、何が違うというんだ。


すれ違った蝶族の少女が、悲鳴をあげて飛び退いた。


「ゴ、ゴキブリ!? ちょっと! こっち来ないでよ!」


思わず立ち止まる。俺が近づくだけで、人が嫌な顔をする。俺の存在自体が、誰かの“迷惑”なんだ。そんな感覚が胸を締めつける。


でも、それでも──


もう一度、あの女神の声が脳裏に響いた。


「自分で這い上がってこれるタイプでしょ? 虫の姿でも生きてけるんじゃない? ……期待はしてませんが、生き延びるのは得意そうなので」


……虫の姿でも、か。


もし、あのとき誰かが手を差し伸べてくれていたら。ほんの一言でも「お疲れ」と言ってくれたら。俺の人生は違ったんだろうか?


でも今は、誰かがくれる言葉なんて待っていられない。誰にも気づかれなくても、誰にも望まれなくても――俺は、俺を生きる。


じゃあ、やってやるよ。這いつくばってでも、“生きてやる”。この世界でも。

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