Dedicatio
椿谷零
第一章:Silentium
もう何度、この純白の、しかしどこまでも無機質な天井を見上げただろうか。蛍光灯の冷たい光が、まるで意志を持っているかのように、僕、欅田蒼空(けやきだ そら)の疲弊しきった網膜を執拗に、じりじりと焼灼する。時間感覚はとうに麻痺し、昼と夜の境界さえ曖昧になって久しい。この四角く切り取られた空間だけが、僕の世界の全てだった。清潔ではあるが、生きた温もりの欠片もない壁。規則正しく時を刻む壁掛け時計の秒針の音だけが、やけに大きく耳につく。カチリ、カチリ、と。それはまるで、僕の残り少ない正気を少しずつ削り取っていく音のようにも聞こえた。
隣の小児用ベッドで眠る息子、蒼斗(あおと)のか細く、しかし懸命な寝息。それが、この殺風景極まりない病室に漂う、唯一の生命の証だった。スゥ…スゥ…と繰り返される、微かな空気の振動。規則正しい、だが、いつ消えてしまうかもしれないという不安を孕んだその音を聞いていると、僕自身の心臓も、まるで共鳴するかのように、同じゆっくりとした、頼りないリズムで脈打つ錯覚に陥る。僕という存在そのものが、この小さな寝息と同期し、それに寄生しているかのようだ。
一体、いつからだっただろう。僕の世界が、この小さな、儚い存在を中心に公転し始めたのは。いや、より正確に言うならば、この子の「弱さ」、その一点に、僕という空虚な存在がようやく根を下ろす場所を見つけたのは。蒼斗が苦しむことで、僕は「父親」という役割を与えられ、その役を演じている間だけ、かろうじて自己の輪郭を保っていられる。
窓の外からは、僕たちが置き去りにしてきたはずの日常世界の音が、遠い残響のように届いていた。ひっきりなしに通り過ぎる車の走行音、救急車かパトカーか、判別のつかないサイレンの悲鳴、そして時折、まるでこの病室の静寂を嘲笑うかのように、子供たちの甲高い、無邪気な笑い声が風に乗って聞こえてくる。それらは全て、ガラス一枚隔てた向こう側の、僕たちとは無関係な、遠い惑星の出来事のように感じられた。僕と蒼斗だけ。他の誰にも侵されない、閉ざされ、歪んだ時間が、ここには濃密に、そして淀むように流れている。僕たちが世界から切り離され、世界が僕たちから切り離されているのだ。
「お父さん、いつも本当にありがとうございます。蒼斗くんのために…本当に、頭が下がります」
昨日、夕方の回診に来た若い看護師が放った言葉が、耳の奥で何度も反響する。声には、純粋な心配と、隠しきれない称賛の色が滲んでいた。彼女だけではない。ベテランの看護師たちも、担当医も、僕の「献身」ぶりを目にするたび、その眼差しには、労いと、同情と、そして微かな尊敬の色が溶け合っていた。
その視線、その言葉を受けるたび、僕の胸の奥には、奇妙な、しかし抗いがたい熱がじわりと広がる。そうだ、僕は蒼斗のために、文字通り全てを捧げている。睡眠も、食事も、仕事も、友人との時間も、何もかも。この子の痛みは僕自身の痛みであり、この子の苦しみは僕自身の苦しみだ。僕は、この広い世界のどこを探しても、これ以上ないほど蒼斗を理解し、深く、深く愛している父親なのだ。周囲の誰もが、そう認めてくれている。その事実が、僕の疲弊した心を甘く満たしていく。
そう、僕は、蒼斗を愛している。心の底から。この一点において、僕の感情に嘘はないはずだ。ガラス越しに初めて見た、あの小さく皺くちゃだった赤ん坊。初めて「パパ」と呼んでくれた時の、舌足らずな声。公園で、おぼつかない足取りで僕に駆け寄ってきた時の、あの太陽のような笑顔。それらを思い出すと、胸が締め付けられるような愛おしさが込み上げてくる。
なのに、なぜだろう。時折、ふとした瞬間に、胸の奥底に、冷たくて暗い、ヘドロのような澱がずしりと溜まっているのを感じる。特に、蒼斗がほんの少しだけ元気を取り戻し、子供らしい、屈託のない笑顔を見せた瞬間。僕の心臓は、純粋な喜びとは明らかに違う、もっと複雑で、名状しがたい感情によって、ぎりりと締め付けられるのだ。安堵しているはずなのに、それと同時に、形容しがたいほどの寂寥感と、そして微かな焦燥感が、冷たい波のように押し寄せてくる。まるで、僕の存在理由を根こそぎ奪い去られるような、足元が崩れ落ちるような、根源的な恐怖。蒼斗の健康は、僕の存在意義の消失を意味するのではないか、と。
「僕が…僕自身がおかしいのだろうか?」
この自問自答は、もう何度、この白い天井に向かって繰り返したか分からない。答えは出ない。出るはずもない。だって、僕はただ、父親として、人間として、当然のことをしているだけなのだから。病に苦しむ我が子を、必死で、献身的に看病しているだけなのだから。そうだ、それだけのはずなんだ。僕がいま感じているこの奇妙な感情の揺らぎは、きっと極度の疲労のせいだ。何週間、いや何ヶ月にもわたる、昼夜を問わない看病生活で、僕の神経が極限まですり減り、過敏になっているだけなのだ。そうに違いない。そうでなければ、僕は…。
いや、駄目だ。このままでは、これを読んでいる君に、きっと僕の本当の気持ちは分からないだろう。僕が、どれほど蒼斗の存在を、その「弱さ」を、無意識のうちに渇望してしまっていたのか。そして、その父親としての純粋な愛情から始まったはずの渇望が、いつの間にか、どこで道を誤り、こんなにも醜く歪んでしまったのか。それを、少しでも知っておいてほしいんだ。僕という人間の、救いようのない弱さと、その弱さが生み出した罪の深さを。
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