事故物件は永遠に

ハル

第1話

 逃げても逃げても、あいつは追ってくる。

 どんな小さな物音にもおびえ、ぐっすり眠ることもできず、何をしても楽しめない陰鬱な日々。

 ほんの少し関わりを持っただけなのに、私は何も悪くないのに、私の心も、生活も、人生も、あいつに破壊されてしまった――。


     ***


 四月から、俺も社会人だ。


 社会になんて出たくないというやつも多いだろうが、俺はそこそこ名の知れた第一志望の商社の内定をもらっていたこともあり、新生活に結構わくわくしていた。


 問題は、いまの部屋からは職場まで二時間近くかかるということだ。通えないこともないが、就職後はいまよりもずっと忙しくなることを考えると、二月か三月のうちに引っ越すほうが賢明だろう。


 だが、引っ越しシーズン真っ只中のことだ。


 いい物件はなかなか見つからず、見つかっても、ほんのちょっと迷っている隙に他のやつに取られてしまう。


 焦りはじめたとき、ようやく俺にも幸運の女神が微笑みかけてくれた。


 ネットで見つけた、職場の最寄り駅から電車で十分の駅にある、六畳間に二畳のキッチンがついた1K。駅から徒歩五分、築十八年、鉄骨造り、スーパーもコンビニも徒歩五分以内、家賃四万三千円。


 これ以上の物件はきっと――いや、絶対にもう見つからない!


 ネット契約可の物件だったので、俺は内見もせずに契約をして、三週間後には引っ越していた。


 初めて足を踏み入れた新居は写真のとおり綺麗で、日当たりも良く水回りにも問題がない。俺はしみじみ自分の幸運を噛みしめた。


 持ち物は少ないほうだと思うが、それでも荷ほどきをして家具にものを入れ、ゴミ袋にゴミを詰めこみ、ダンボールをたたんで縛ると、もう七時を回っていた。


 夕飯にカップ焼きそばを食べ、シャワーを浴びて、引っ越し祝いのビールを飲みながら動画やSNSを見る。やがてまぶたが重くなってきたので、早めに布団に入った。三分も経たないうちに、俺は眠りの世界に引きこまれていた。


     ***


 ふと寒気を覚え、俺は目を覚ました。スマホを見ると、時刻はもうすぐ十二時半になろうというところだ。


 まだ夜は冷えるとはいえ、部屋の中でこの寒さはおかしい。風邪でもひいたのだろうか。


 暖房をつけて熱を測ろうと起き上がったとき、俺は見た。


 掃き出し窓にもたれて座っている、髪の長い若い女を。――いや、座っているといえるのかどうか。


 いっぱいに見開かれた目は恐怖と無念に満ち、半開きになった口からは血が滴り落ちていて、胸と腹のあたりも血に染まっている。夜だから血は黒く見え、まるで体に大きな穴があいているようだ。無限の闇へと続いているような穴が。


「う……うわああああああああああっ!!!」


 俺は絶叫して頭から布団をかぶった。


 消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ――!


 歯の根も合わないほど震えながら、心の中でその言葉だけを繰り返す。


 三十分くらい経ったとき――布団の中にいるあいだは時間の感覚がおかしくなっていたから、あとでスマホを見て知ったことなのだが――ふいにあの異様な寒気が消えた。


 恐る恐る布団から顔を出して窓際を見ると、女は影も形もなかった。


 俺はすぐに電気をつけ、もげそうなくらい首を横に振って髪を掻きむしった。そうでもしないと正気ではいられないような気がしたのだ。振り払っても振り払っても脳裏によみがえる女の姿に苛まれながら、明け方まですがるようにスマホをいじりつづけた。

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