ひとりの時間を満喫したい桜子さん
成田紘(皐月あやめ)
第1話 四月一日
「
いつものカフェで向かい合って座った
咀嚼していた海老とアボカドのトーストサンドをブレンドコーヒーで流し込むと、桜子はどうしてこんな話題になったのかを反芻する。
桜子と仁美は会社の同僚だ。ふたりとも税理士事務所の総務部で働いている。
とは言え桜子は派遣社員、仁美は桜子よりも年齢は下だが正社員で、対等の立場とは言えない。
社歴も、短大を卒業して就職した仁美に対して、やっと一年目の更新を終えたばかりの桜子から見れば、日々の業務を教えてくれる仁美は立派な先輩であり、所詮は期間限定の間柄にしか過ぎない相手だ。それでも関係は良好で、お昼休憩もほぼ毎日一緒に取る仲だった。
本日も、会社が入っているオフィスビルの一階にあるチェーンのカフェの一席をなんとか確保して、無事ランチにありつけた。
この時間は自分たちのようなお昼休憩のOLやサラリーマンで、あちこちの飲食店が大賑わいになる。カフェなんてもっての外、店内はほぼ満席だと言うのにレジカウンターの前には注文待ちの列ができている。
それほど混雑しているのに、店内は比較的静かだ。もちろん客の話し声はチラホラ聞こえてはくる。けれども、どちらかと言えばスマートフォンを見ていたり、ノートPCやタブレットを操作している者が殆どで、店内をゆったりと流れるBGMが判別できる程度には居心地が良かった。
桜子はテーブルに目をやる。
自分の前にはランチセットのトーストサンドとブレンドコーヒー。仁美は同じくランチのパスタにサラダをつけてアイスティー。いつも通りだ。
それから目の前の仁美に視線を向け、何気ない風を装って訊ねた。
「どうしたんですか、なにかあったんですか?」
仁美は年下の先輩。だから桜子は普段から敬語を使っている。これもいつも通り。
「だからコレなの。見てよ桜子さん、コレ」
声を潜めて仁美が左腕を差し出すと、シフォンブラウスの袖をするりと目繰りあげる。すると、仁美のもちもちした腕の内側の柔らかそうな部分に、赤い痣が点々と浮いていた。
痣は四か所、まるで指の痕あとのように並んでいる。
人目を気にしてか仁美が速やかにブラウスの袖を戻し、視界から赤が消えると、桜子は小さく息をついて水が注がれたグラスを手に取り、ゆっくりと唇を濡らした。
これは、いつも通りじゃない。
「なんかね、今朝起きたらこんなことになってたの。なんなのコレ、全然消えないし、変な夢は見るし、マジ怖い」
声を震わせながら、けれども仁美は茄子たっぷりのボロネーゼをくるくるとフォークに巻きつけ口に運んでいく。
淡いピンクのブラウスの日によくそんなパスタ食べるよな、などと感心して見ている場合ではない。腕に変な痣があって、それでどうして泊めてくれとなるのか、桜子は状況を整理することにした。
まず気になった変な夢について、自分もトーストサンドの残りを齧りながら訊いてみる。
「夢ってどんな?」
「えっと子供?たぶん小さい男の子だと思うんだけど、その子にどっかに誘われて、でも断ったところで目が覚めた」
わあ。それじゃね?
アボカドとレタスを落とさないように注意しながら桜子はもぐもぐと口を動かし、ふんふんと頷き返す。
「なんかその子にダメダメ言われてた気がする。ダメって言われてもって感じ。起きてからもさ、なんかずっと誰かに見られてる気がして気持ち悪いし」
言いながら仁美はリズミカルにパスタとサラダを口に運ぶ。見る見るうちに綺麗に空になった食器を確認して、これは本人が言うほど深刻な状況ではなさそうだと桜子はひとり得心した。
最後のパンの欠片を飲み込みコーヒーでひと息ついた桜子は更に訊ねた。
「そんな夢を見るような心当たりは?てか今までも見たことあるんですか?それ系の夢」
「ないよ、全然ない。でも辛うじてコレかなって思うこともないではない」
紙ナフキンで口元を押さえながら仁美が神妙な面持ちを見せる。
「先月あたし引っ越したじゃん?」
初耳だった。
「ちょっと色々あって急遽引っ越さなきゃいけなくなってさ。したら築浅でまだ綺麗でかつちょい安のいい部屋が見つかってさ」
「へえ、三月だと引っ越しシーズンなのに、よく見つかりましたね」
「そうそう、ポンとね。職場からはちょい離れちゃうけどまあ電車一本だし、綺麗だし安いし。住み始めて十日目くらいかな」
よほど新しい部屋がお気に入りなのだろう、仁美は終始ニコニコ笑顔だ。
代わりに桜子の顔色が曇る。
これは、アレじゃないのか。
最近よく聞く事故物件とか、心理的瑕疵物件とか。
そうは思っても桜子から言い出すのは躊躇われた。もしも入居に際してそんな注意事項があったのなら、仁美も話題に出すのではないか。
そもそも、いくらなんでもそんな部屋になんか住まないだろう。
新居に移って十日。引っ越しでマックスになっていたテンションも、荷物が片付いていくにつれ落ち着きを取り戻し、日常生活が始まった頃だろう。
つまり、心身共に部屋に馴染んできた頃合いだ。
部屋側も新しい住人に慣れてきた、とか。
いやいやいや、と桜子は内心で
変な空気に呑まれてはいけない。桜子は殊更なんでもないと言う風にビジネススマイルを浮かべる。
「環境の変化にちょっと過敏になってるんじゃないですか?」
「そうかな、そうだよね」
答えながらも仁美が眉根を寄せ、「でも」と呟いた。
「別に部屋に何かあるとかって訳じゃないとは思うんだよね。でもなんか今朝から変な感じなの。ひとりになりたくないって言うか」
仁美がアイスティーの氷をストローで弄びながら、上目遣いで桜子を見つめる。
「桜子さん
桜子は喉の奥で小さく唸ると、「ちょっと」と言って左手の指で裏ピースを作る。
「いってら~」
それを見た仁美が軽く答えバッグからスマートフォンを取り出したのを確認して、桜子は自身のミニトートを掴み、これ以上厄介な方向に話が広がらないように喫煙ブースに一時避難を決め込んだ。
喫煙ブースには先客がひとり、五十代くらいのサラリーマンが加熱式煙草を口に運び、独特の甘い香りを漂わせていた。
いつもこの場で顔を合わせるイツメンだ。桜子は軽く礼をして隅に寄り、ミニトートに忍ばせていた紙巻き煙草を一本取り出すとライターで火を点け、深く吸い込み、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
おかしい。いつもと違う。
桜子は食後の一服を堪能しながら、なぜこんな日に限って突然オカルト系の相談事を持ち掛けられなければならないのかを考えた。
仁美とお昼を共にするようになって早一年、これまで仁美の口からこんな風に怖い話が出たのはこれが初めてのことだった。
桜子の知る仁美は明るく溌溂とした性格で、小柄で肉感系の、コスメやオシャレが大好きな大人女子だ。なのでお昼の話題は新作コスメのレビューや、どこの通販サイトがセール中とか、そんな女子っぽいモノが主だった。
そんな仁美だったから、オカルトや心霊と言ったスピリチュアルな存在の対極にいると思っていたのに。
いつぞやも桜子の肌は色白を通り越して青白いから、ピンクの下地で血色感アップした方がいいとアドバイスしてくれた。
自他共に認める地味子とは言え桜子もそこは女性なので、もちろんメイクにも興味はある。なので勧められた下地を試してみた。それからと言うもの、顔色が悪いと指摘される回数が減った。
なので仁美には感謝しているし、なんだかんだいつもの話を心待ちにしているのも本心なのである。
喫煙ブースのガラス越しにチラリと視線を仁美に向ける。スマホを眺める横顔にかかる明るいショートボブの毛先。小さく光るピアス。光沢のある淡いピンクのシフォンブラウスに紺のフレアスカートがよく似合っている。
いつも通りだ。
いつも通りの光景がそこにはある。
対する桜子は真っ直ぐな黒髪をローポニーに結び、薄い身体にシンプルなブラウスを着て紺のUVカーデを羽織り、下はグレーのパンツという、誰が見ても量産型事務員スタイルだ。
これもいつも通り。なのになぜ。
なんなの変な夢って。
引っ越し先の影響モロ受けじゃないか。
安くて綺麗な部屋がポンと見つかってる時点でヤバいだろと言ってやりたい。
桜子は短くなった吸殻を灰皿に捨て、すかさずもう一本を口に咥えて火を点ける。ちょうど煙草が空になって、箱をくしゃりと潰しライターごとミニトートに放り込んだ。
そのタイミングでイツメンおじさんが出て行きひとりになった桜子は、大きく煙草を吸い込むと、ため息と一緒に長く紫煙を吐き出した。
いやいや、短慮は良くない。落ち着いて考えて危機回避するんだ。
でなければ、望まないお泊り会が開催されてしまうことに桜子は戦慄した。
仁美のことは嫌いではない。できれば相談に乗ってあげたい。それが無難な内容ならの条件付きで。
だいたい友人でもなければ親兄弟でもない期間限定の同僚とひとつ屋根の下で平気で寝泊まりできるほど、桜子は人付き合いが得意ではなかったし、はっきり言って大の苦手だった。
オンとオフをきっちりと分け隔てるのが信条の桜子は、言い逃れの妙案を捻り出すため、紫煙を
そもそもおかしい。
仁美は子供だなんだと言ってはいるが、あの痣の大きさから言って子供の指とは思えない。
もしもアレが本当に人間の指の痕なのだとしたら、桜子の目には大人の指にしか見えなかったし、しかも位置が妙だった。
どう掴んだら腕の内側に四か所並んだ痕がつくのだろう。
桜子は思いを巡らせた。
他人がどうやればあの位置に痣ができる掴み方ができるのかは分からないが、自分でやるなら簡単そうだ。
そう思い、桜子は自身の左腕をくるりと反してみる。紫煙が流れて腕時計の盤面が上に向く。
そう、ちょうど時計の下あたりに、こんな風に付いていた。
仁美の腕に残る赤い痣を思い出しながら、桜子はそっと右手の指先をカーデ越しに置いてみる。
脳内の位置とぴたりと重なった。
自分でできるとして、果たしてそれをやる理由はなんだろう。
仁美が柄にもなくオカルト的な相談事を持ち出した理由は――エイプリルフール。
本日四月一日は新年度開始日であり、エイプリルフールでもあった。
実際のところ、仁美がエイプリルフールにおちゃめな嘘を本当についたかどうかはさておき、心霊現象だなんだを持ち出されるよりはよっぽど現実的だと桜子は解釈した。
うん、嘘だ。嘘だと思おう。
本物の心霊現象だった場合、不可解な現象なんてどんなことでも起こりそうだから、痣の位置だとか子供か大人かなんて関係ないだろうけれど、それを見極める術を桜子は持ち合わせてはいないのだ。
危険なことにはかかわらないに限る。
だから嘘。今日は嘘をついても許される日なのだから、嘘には嘘で対抗することに桜子は決めた。
喫煙ブースから席に戻った桜子が椅子に腰かけると、仁美がスマホから目を上げ、たった今まで見ていた画面を見せてくる。
そこにはパワーストーンのブレスレットや数珠やらが、ずらりと表示されていた。
「どう思う?」
「いい、と思う。あ、この天然石のやつ、綺麗ですねー」
適当に相槌を打ちながら、桜子はカップに残ったコーヒーをぐっとひと息に飲み干した。冷めて苦味だけになった液体が、嫌な後味を残す。
そこで桜子は
「ごめんなさい、今日なんですけど、実はわたしの誕生日で、彼氏が家でお祝いしてくれる予定なんです」
すると仁美がスマホから顔を上げて、目を丸くして問いただす。
「彼氏いたの?!知らなかった、誕生日ってマジ?」
「マジです」
「そっかー、彼氏いたのかー。どうりで合コン誘っても来ないと思った。言ってよねぇ」
「すみません。他の人には内緒でお願いします」
仁美はどうやら勝手に誤解してくれたみたいだ。「じゃあ今夜は無理か」と諦めてくれた仁美に、桜子はホッと胸を撫で下ろした。
けれどこのままなのも申し訳ないと思い、桜子も一応は申し添えてみる。
「仁美さんこそ彼氏さんに来てもらったらいいんじゃないですか」
それこそ合コンでゲットした彼氏がいたはずだ。
けれどもどうしたことか、仁美が口の中でモゴモゴ言っている。
「や、まあいいや。今夜は実家に戻ろっかな」
そうだ、それがいい。こんな時は家族とか親友とか、心から信頼できる人の元に身を寄せるのがいいだろう。間違っても期間限定の同僚のところなんかではなく。
なにやら彼氏となにかあったっぽいが、そこまでは気にしていられない。
本人が口にするまでは踏み込まない。逆もまた然りで、それが礼儀だと桜子は思っている。
スマホをバッグにしまった仁美が、桜子に視線を向ける。目が合うと、「それにしても」と口を開いた。
「桜子さんてエイプリルフール生まれなんだね。ビックリ!お誕生日おめでと!」
にっこりと朗らかな笑顔を向ける仁美に、桜子も満面の笑みで応えた。
「ありがとうございます」
それからふたりはカフェを後にした。リップを直してから会社に戻ろうとする仁美に、桜子は切れた煙草を補充しにコンビニに寄ると言って別れた。
オフィスビルから一歩踏み出すと、少し肌寒いけれど確かな春の日差しがそこかしこに降りそそいでいる。
今日は桜子の誕生日。
彼氏云々は嘘だが、これは本当だ。
まさか誕生日に奇妙な相談をされるなんて、予定外の出来事だった。
今日は定時退社して大きな本屋さんに寄り、前から欲しかった小説を何冊か自分へのプレゼントとして購入する。そして普段は滅多に行かない小洒落たスイーツショップで、小さくてお高いケーキをたくさん買って帰る。
シャワーを浴びて熱いコーヒーを濃い目に淹れたら、誰に気兼ねすることなく甘い物と読書を楽しむのだ。
それが桜子の誕生日の予定。そのために今日と言う日を頑張っている。
だから誰にも邪魔されたくなかった。
それでも仁美の笑顔を思い浮かべると、チクリと胸が痛んだ。
うん、案外数珠はアリかもしれない。お守りとかお札とか、なんなら盛り塩も勧めてみよう。
そんなことを考えていると、少し強い春の風が吹き抜け、砂埃を巻き上げながら桜子の前髪を揺らした。どこからか漂ってきた甘い香りが鼻先をかすめる。
桜だろうか。
世間はもうすっかり春色に包まれている。
緑山桜子の二十代最後の一年は、こうして幕を開けた。
了
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