oxygendes

第1話 傷

 矢島さんから電話が架かって来たのは彼が本社研究所に帰任した週の金曜の夜でした。


「夜分遅く申し訳ない。ちょっと確認したいことがあるんだ。今、電話は大丈夫かな?」


 スマホから聞こえる声は途惑い、少しいらついているよう。


「いいですけど、こんな時間に電話なんて何かあったんですか?」


 私は心のざわめきを抑え、落ち着いた声で応えます。


「篠田さんは誰かに怪我をさせられたりしていませんか?」

「そんなことありませんよ。どうして……」

「変な品物が届いてね。ビデオ通話に切り替えるから見てもらえないかな」


 スマホの画面が変わりました。映っているのはリビングのような部屋に置かれた白いテーブル。テーブルの上に広げられた包装紙と小さな紙箱が載っています。蓋が開けられた紙箱はピンクで、入っているのは一輪の薔薇の花冠、上向きに置かれた花冠は深紅の花弁を幾重にも纏い、中心にコーラルピンクの長円形の……。


「ブリザーブドフラワー、永遠加工された生花だ。そして……」


 画像は花首のアップになりました。中央の長円形のものは緩やかに湾曲し一端に赤黒いものがこびりついています。


「人間の生爪だよ」


 映し出された生爪は小指の先の大きさ、コーラルピンクでマニキュアされています。


「まあ、何てこと」


 画像が矢島さんの顔に変わります。その声は少し震えていました。


「時間指定の宅急便で送られて来たから、皆の見ている前で開けることになった。異変に気付いてすぐに閉じたけどね」

「そんな物いったい誰が……」

「差出人の名前は偽名だった。ホラーミステリーに登場する……」

「赤い薔薇だけだったら、あの恋人さんからのプレゼントなんでしょうけどね。それとも恋人さんに酷いことしたので……」

「いや、千絵子はそんなこと……、え?」

 スマホの画面がびくんと揺れました。


「彼女のことは分室の誰にも……」

「送別会の二次会の時に電話を架けて来た人でしょ。席を外して応答されてましたけど、遠目でも窓ガラスに映った表情でわかりました。とっても幸せそうなお顔でしたよ」

「そ、そうなんだ」


 矢島さんの声に怯えが混じっていました。私は口調をきつめにして尋ねます。


「でも、どうして私に電話を?」

「マニキュアの色が送別会の時に君がしていたのとそっくりだった。もしかしたらと思って」

「私のマニキュアなんてよく覚えてましたね」

「一年間、一緒に仕事して来たけど、君は一度もマニキュアをしなかった。研究に支障がでないようにだろうけど。あの日だけマニキュアしていたので印象に残ったんだ」


「それにしても」

 私は口調を少し穏やかなものに変える。

「私が自分の爪を剥がして矢島さんに送る理由が無いですよね。生爪を送るって昔の遊女の手管でしょ、また逢いに来てくれって言う。矢島さん、こっちにいた間にどなたかとお付き合いされていたのじゃないですか? 捨てられたその女性が……」

「い、いや、そんなこと……。ちょっと待って、千絵子と替わる」


 スマホの画面が揺れた。矢島さんの手から他の人の手に移ったみたい。画面に女の姿が映った。ショートボブに薄めの化粧、きりっとした目元が芯の強さをうかがわせる。


「初めまして、百瀬と申します。矢島さんとお付き合いさせていただいてます」

 女はスマホ越しに私をまっすぐ見つめ、話しかけてきた。


「こんばんは百瀬さん、気味の悪いことが起こって大変ですね」

「ええ、そうなんですよ」

 女はにこやかに答える。

「どう判断したらいいのか……。それで、矢島さんから聞いたんですけど、分室でのプロジェクトは再生治療にかかるものだそうですね。本人の細胞から爪とか皮膚とかを再生して移植するという」

 女はにこやかな口元のまま目つきを鋭くする。

「もしかして、篠田さんがちょっとした悪戯で培養したご自分の爪にマニキュアをして送って来たんじゃないかなって。あくまで悪戯で」

「でも、そんなことする理由なんてないですよ」

 女の傍にいるはずの矢島さんにも伝わるように声を高める。


「私と矢島さんは一緒に仕事をしてましたけど、そんな手の込んだ悪戯をするような特別な関係では無かったですよ」


 女が視線を横に向けた。矢島さんに確認を求めているのだろう。不安そうな様子を見て、私は微笑みを浮かべる。


「私に爪がちゃんと揃っていることを見せられれば、お疑いはすぐに晴らせるんですけど、生憎……」


 私はスマホのカメラを顔に向け、左手を顔の前にかざす。女の顔が凍り付いた。包帯が巻かれた私の小指が見えたに違いない。


「お料理をしていて怪我をしてしまったの。これを外せなんておっしゃいませんよね」


 押し黙ったままの女に最後の言葉を告げる。

「お休みなさい。お二人のお幸せをお祈りしていますわ」


 私はスマホを切り、深いため息をついた。包帯をした左手を見つめる。爪を剥がした傷だって一年もすれば直る。心の傷が治るのはもっと時間がかかるだろう。そして、解決されないまま残った疑念はずっとずっと心に残るだろうと考えながら。

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