代償のための恋

のーと

血縁というのは残酷なもので

はやく、海にかえらなきゃ。ああでもいやだな。どっちみち、しみる。

無意識に思考を打ち切って、他にできることもないので目でも閉じようかなという時、影がおれに覆いかぶさった。目を細めていたのをやめ呼吸を思い出した。視界は、日向が遠くなり、砂の輝きを知覚する。疲労を忘れ、徒労に思い至らず、慌てて振りみればこの暑い中を黒い夫人が佇んでいた。


「お前、どうされたい?」


おれは声が出なかった。夫人は依然として凪のように居る。


「名前は?」


おれは声が出ないのだ。夫人は膝を折っておれを覗き込んだ。


「きっと海の底から来たんだね。」


夫人はおれが自身の意志の上で寡黙という訳ではないのだと知ってか知らずか何かを受け取ったことにして、対話は続けたまま、水平線を見据え少々目を細め、会話を終わらせた。

そんな彼女に何か音くらいは出せないかと上顎を持ち上げてみれば、くっついていた唇が裂けピリと痛みが走った。しかも海風によって乾いた砂が口内に叩き込まれ、いっそう苦しくなるばかりであった。


「嗚呼、いいんだよ、話さなくたって良い。」


「……私はね、何を信じることも出来ない。話して貰ったって私は必ずそれを疑う。そういうモノなんだ、私は。」


その頃のおれは、いや、今のおれにもそこら辺は曖昧だが、とにかく彼女の「許し」が分からなかった。おれには神が無かったからである。

しかし、彼女の自分に向き合う姿勢は、どの生物と比べても一番マシだった。心地良さとは、程遠いが。

彼女には、是非ともおれを気に入ってもらいたかった。そういう心境だった。


「……お前、そんなに甲斐甲斐しいといつかとって食われてしまうよ。私の良心も痛む。」


おれが差し出した鱗を夫人は苦虫を噛み潰したような顔で断った。


「せっかく連れ帰ってしまおうかと思っていたのに。その気が削がれてしまった。」


「うん、魔女は気まぐれだからな。お前を助けてやろう。」


「さあ、立って。鰭なんて忘れてしまえよ。」


彼女の呪文のような口先にのせられて、俺は気づいたら砂浜に立っていた。あし、がズブズブ沈んで怖かった。


「ハハ!お前、不器用だな。美丈夫だから何したって許されるんだろうけどさ。」


おれは彼女をとにかく真似しようと努めた。右を前へ、両方同時には動かせない。身体は、海中より重い。転んで、立ち上がって、やっとおれは砂浜を出た。


「アロハシャツって言うんだよ。アハハ!似合わない。」

「さっきも同じところを通ったって?コンクリートジャングルってのは言い得て妙だな。箒は目立ちすぎるし……うーん。」

「木々の間は涼しいだろう!お前が望むのならずっとここに居るのも良い。」

彼女はおれの手を握って沢山歩いた。海水のにおいのない日常におれは楽しいような落ち着かないような気持ちでいた。


「もう3年になるな。」

ほとんど彼女の言葉が理解できるようになった頃、おれたちは波打ち際に居た。

「もう十分だろう!お前は私のことが好きか?」

おれはまっすぐ頷くと彼女は寂しそうに笑った。潮の匂いみたいな、爽やかで、透き通っていて、しかしどこかにベタつきがあるようなはにかみ。

「……うん。じゃあ声を与える代わりにその記憶をもらおう。」


「またね、私だけは、ずっと大好きだ。」


2年前にもおれは彼女から「だいすき」という響きを賜ったことをふと思い出した。その頃は、意味がわからなかった。おれは育ってくる過程でその言葉を一度も受け取ってこなかっから。

それから長く時間をかけて彼女はそれを教えてくれた。俺は今やっとわかった。


そして、もう次の瞬間には何も知らなかった。


「なんだい。そんなにじっと見つめられたら顔に穴が空いてしまうよ。」


黒い夫人がそう言った。おれはどうしてそこに視線を向けていたのかが分からなかった。熱心に探し物をしていたはずなのに、全て忘れてしまったような感じだった。


その日の帰り、おれは水面にあぶくをみた。しばらく見つめていると、それは弾けるように消えた。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

代償のための恋 のーと @rakutya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る