第2話 空気のしこり
― 誰も言わないけれど、みんな気づいている“違和感”
翌朝、佳織は少し緊張しながら出社した。
二宮汐莉からの「感覚の共有」という言葉が、昨日からずっと頭の中に残っている。
言葉にしにくいことを、言葉にしようとする。それは、思っているよりも勇気が要ることだ。
「おはようございます」
先に出勤していた二宮が、佳織にだけふわりと笑った。
それは他の人には見せていない、少しだけ素のような表情だった。
午前中のミーティング。
営業支援課の会議室には、いつものように、適度な緊張感と遠慮が漂っていた。
報告、確認、スケジュールのすり合わせ――必要な会話は交わされるが、誰も核心に触れようとはしない。
「先月のデータですが、クライアントの反応が少し鈍いようで…」
若手の井坂くんがそう言いかけた瞬間、上司の岡部課長が小さくため息をついた。
「その話、前にも出たよね。再発防止の提案は?」
井坂くんは言葉に詰まり、周囲は一斉に沈黙する。
その沈黙が「空気の正解」だと誰もが分かっているようだった。
波風を立てず、早く終わらせる。それがこの課の“平和”だった。
会議が終わると、空気が一気に解けたようにみんなが席に戻っていった。
だが、佳織は胸の奥に、何か冷たいものが残っているのを感じていた。
昼休み、二宮と向かい合ってベンチに座る。
社内の中庭は、控えめな春の光に包まれていて、ほんのりと暖かかった。
「空気のしこり、って言葉、知ってますか?」
二宮が突然そう言った。
「…しこり?」
「うん、体にできるのと同じ。はじめは小さくて、誰も気づかない。でも、だんだん広がって、動きを鈍くして、息苦しくなる」
「…あの会議のこと、見てたんですね」
「見てたというか、感じた、って言う方が近いかも。ああいう“流れ”って、いつの間にかできるんですよね。誰かのため息ひとつで、全体が方向を決めてしまう」
二宮の声には怒りも批判もなかった。ただ、静かに観察した人の声だった。
その静けさが、佳織の心にすっと入り込んだ。
「じゃあ、そのしこり、どうすればいいんでしょう」
「揉んで、温めて、流す。身体と同じですよ」
そう言って微笑む彼女の言葉に、佳織は思わず笑ってしまった。
でも、それは冗談のようでいて、本質を突いているように感じた。
午後、佳織はふと思い立って井坂くんに声をかけた。
「さっきの会議の続き、少し聞かせてもらってもいい?」
彼は驚いたような顔をしたが、少し考えてから資料を持ってきた。
「実は、反応が鈍いっていうより、最初から興味を持ってもらえてない感じがあって…でも、それをうまく言えなくて」
「言ってみてよ。うまくなくても大丈夫」
佳織は、自分でも驚くほど自然にそう言っていた。
彼の話す言葉は、まだ不器用だったが、その中に本当に必要な“気づき”が混じっていた。
「…ありがとうございます、先輩。なんか、ちょっと楽になりました」
彼の笑顔を見たとき、佳織の胸にふっと風が吹いたような気がした。
その日の帰り際、二宮がそっと声をかけてきた。
「今日、少しだけ空気がやわらかくなりましたね」
「…わかるんですか?」
「はい。そういう“温度”には、ちょっと敏感なんです」
彼女はそう言って、霧の中の光のように静かに笑った。
誰も言わないけれど、みんな気づいている。
でも、誰かがそっと触れてくれたら、それだけで、空気は変わるのかもしれない。
その夜、佳織は久しぶりに深く眠ることができた。
明日が少しだけ、楽しみになっていた。
霧の中のナビゲーター まさか からだ @panndamann74
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