女子大生発明家は、ミニクーパーをラメのマニキュアで塗りたい
さちゃちゅむ
第1話 ばーばが死んだ
会社をやめたら、あれをして、これをして……仕事していたらできないようなことをたくさんするんだ、と、散々そう言っていたパパは今年やっと定年になった。それまで会社をやめたあとのこと、あんなに楽しそうにゆかこに話してくれていたと言うのに、あの日からパパはずっと、落ち込んだままだ。
パパのお母さん、ばーばが、天国へ行った。九十一歳だった。年をとってもキュートでいられるって、素敵なこと。ばーばを見て、そう思わない人はきっとゼロだと思う。
どんなときもファッショナブルで、ピンクのまぁるいおしゃれな帽子をかぶっていた。背は低いけれど、いつも背筋がしゃんとのびていて上品ないい香りがした。
ゆかこが普段つける清潔感のためですと言わんばかりの無難な石鹸のコロンではなくて、色んな複雑な香りがした。Jo Maloneの香水の数種類を重ねてつけていたそうだ。
オババっぽい色のお洋服なんて着なくて、いつも明るいカラーのワンピースだとかセットアップ、マトラッセの小ぶりのチェーンバッグに、それに合わせた攻めたブーツだとか……ばーばは自身を素敵に見せる色合いと形を知り尽くしていて、ゆかこは会う度、ドキドキさせられた。
青森に住むばーばにはお正月とお盆のときしか基本的に会えなくて、だけど会えないときもいつも自慢のばーばだった。
だって素敵なのはお洋服だけじゃない。色白の垂れたほっぺたには、ぽっとDiorのブルーピンクのチークがのり、その上のふたつの目がいっつも、黒豆みたいにきらきらしていた。
そんなきらきらした目をしたばーばみたいな人を、東京ではゆかこ、なかなか見ることができなかったから。
そしてそのきらきらした目を受け継いだパパに、ゆかこは育てられた。
ばーばは、ゆかこが小学校に上がる記念に一つ、ラメの入ったマニキュアをくれた。
今年大学を卒業するゆかこだけれど、今でもそのマニキュアは大切にとってある。
当時、入学祝いだって筆箱だとか可愛いノートだとか、文房具の類いをおじさんやおばさんから貰いすぎていたものだから、みんなとちがうプレゼントをくれたばーばを、ただ漠然と、「すごい」と尊敬した。
その頃はわからなかったけれど、確かどこかのブランドのもので、それを見た母が「ゆかこにはちょっと早いんじゃない」なんて言っていたのを覚えている。
ママは、どこでも浮きがちなゆかこにちょっと厳しい。いつも冷静で、きちんとしている。でも、悪い人じゃない。ママがそのプレゼントをとりあげることもせずゆかこにそのまま持たせてくれていたことは、嬉しかった。
ばーばの家のある青森から、東京に帰ってすぐ、「これはスペシャルな儀式だ」と、ひとり興奮、緊張して、お風呂場にこもった。
息をひそめて、艶のあるマニキュアの黒いキャップをくるくると回し開けると、小さな、上品なはけに、もったりと透けた液が絡んでいた。
ママはいつも金曜日の夜にマニキュアをコットンで落として、新しく塗り直す。それをいつも見ていたから、やり方は知っていた。ママのマニキュアを借りて、塗ったこともある。
でも、これがゆかこにとって初めての自分だけのマニキュアだった。ゆかこは息をとめて、爪にそおっとはけを落とし押し当て、丁寧にマニキュアを塗り上げた。あまり上手くは塗れなかったけれど、もうじゅうぶんに満足だった。なんとも言えない、うっとりとするツンとした独特の香りと、手首を揺らすたびキラキラと反射するラメで飾られた自分の指の先に、とてつもなくドキドキした。
入学式で、緊張していても、自分の指先を見たらばーばに励まされている気がして心強かったこと、ネイルを落とさなきゃ怒られるのかなと思って少し心配だったものの、先生にも「きれいね」と褒められたこと、それでも同じクラスになった女の子に「だめなんだよ」と言われてしまったこと。
パパにもママにも言わなかったけれど、葬儀では亡くなったばーばの写真を見つめながら、そんなことを思い出していた。
それから次に思い出したのは、ばーばと一緒に台所に立ったときのこと。
朝の光が差し込む台所だった。
「ゆかこ、ほら、こうやって粉をふるうんだよ」
ばーばの声は、いつも少し掠れていて、低くて、でもあたたかかった。その声を聞くと、胸の奥がほっとするような、そんな感じ。
ゆかこは七歳。まだ小さな手で、ばーばの真似をして粉をふるう。上手くいかなくて、粉が台の上にこぼれる。でも、ばーばは怒らない。
不安になって見上げると、窓辺に立つばーばの横顔は、柔らかな光に縁取られている。
「いいのよ。人間、失敗しながら覚えていくものなんだから。人はね、はやく失敗した者勝ちなの」
そう言って、ばーばはにっこり笑う。しわくちゃの顔が、朝の光を浴びて、まるで黄金色に輝いているみたいだった。
台所の窓は西向きで、夕方には太陽の光がまっすぐに差し込んでくる。春だったと思う。窓辺に置いてあるイタリアンパセリの鉢植えの葉っぱが、風で揺れるたびに影が揺らめいて、オレンジ色の古い床に小さな波紋を作っていた。
ばーばは、サラサラ、サラサラ。粉をふるい続ける。小麦粉が舞い上がって、光の中で踊る。まるで小さな星が無数に浮かんでいるみたいだった。ゆかこはその光景に見とれて、手を止めてしまう。
「きれいだね、ばーば」
「そうね。光があると、何でもきれいに見えるものよ」
ばーばは作業の手を止めて、窓の外を見た。朝日で目が細くなっている。
「ゆかこ、覚えておきなさい。人生は光を見つける旅なんだよ」
当時のゆかこには、その言葉の意味がよくわからなかった。ただ、ばーばの言葉は何となく特別なものに聞こえて、大切にしなければならないような気がした。だから、しっかり覚えておこうと思った。
「光を見つける旅?」
「そう。暗いところにいると、人は悲しくなるでしょう。でも、どんなに暗いところにも、必ず光はあるの。その光を見つけられる人が、幸せになれるんだよ」
ばーばは小麦粉の入ったボウルを持ち上げて、窓際に立った。光が粉の表面を照らして、まるで雪のように見える。
「ほら、見てごらん! 普通の粉だけど、光が当たると、こんなにきれいでしょう」
ゆかこは目を丸くして見つめた。確かに、ただの白い粉なのに、光の中では違って見える。キラキラと輝いて、特別なものに見えた。
「人も同じ。光の当て方で、みーんな輝くの」
ばーばはそう言って、ゆかこの頭を撫でた。その手は小麦粉で白くなっていて、ひんやりとして少し冷たかったけど、とても優しかった。
「さあ、続きをしましょう。今日はゆかこの好きなクッキーを作るんだからね」
ゆかこたちは再び作業に戻った。ばーばはゆかこの手を取って、生地をこねる方法を教えてくれる。その手は小さなしわで覆われていて、所々に赤茶色のシミがあった。でも、その手が世界で一番安心できる場所だった。
台所には、バニラの甘い香りが漂い始めていた。窓から差し込む光の筋の中を、その香りが目に見えるように漂っているような気がした。
「ゆかこ、ティッシュを持ってきてごらん」
そう言ってリビングからティッシュを一枚を引き抜いて持って行くと、ばーばはティッシュを一度四つ折りにして跡をつけてから開き、その真ん中の十字にバニラエッセンスをぽたり、ぽたりと垂らした。
「ティッシュにちょっとつけておこうね。しあわせの香り。お父さんに怒られたら、これをかぎな」
そう言って、安心する香りのプレゼントを作ってくれた。
その日、怒られるようなことをしたから、ばーばはゆかこにそうしてくれたのかもしれない。でも、だれかに怒られたかなんて覚えていない。
ただ、あの日の光、あの日の香り、あの日のばーばの笑顔。その全ては今でも鮮明に思い出せる。
“人生は光を見つける旅“
ばーばの言葉は、今になって少しずつ理解できるようになってきた気がする。あの日の台所の光景は、ゆかこの中の大切な光の一つだ。暗いときに思い出す、心の中の明かり。
パパはあの日から、それなりには元気に見えるけれど、明らかにおかしい。
からっぽの元気で、なにより前はあった目の光が、なくなってしまっているのだ。
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