まだ、恋ははじめられない

水野 七緒

まだ、恋ははじめられない

 私なんかの、どこがいいんだろう。

 菜穂は、ぼんやりと春の中庭に目を向ける。

 卒業式前日、久しぶりに顔をあわせたクラスメイトのひとりから「ちょっと来てほしい」と声をかけられた。

 連れ出された先は、旧体育館に続く人気のない渡り廊下だ。


「ずっと好きだった。俺と付き合ってほしい」


 返事は明日でいいから。そう言い残して、彼は走り去った。

 明日ってことは、卒業式当日に? 果たしてそんな時間はあるのだろうか。

 とはいえ、告白してくれた彼の印象は、決して悪くはない。清掃当番で同じ班になったときはきちんと掃除に参加してくれたし、自分と同じく読書が好きなようで図書室で何度か後ろ姿を見かけたことがあった。


(もし、付き合うことになったら、好きな本の話とかできるのかな)


 それは楽しいかもしれない──そう考えた矢先、聞き覚えのある声が菜穂の耳に飛び込んできた。


「いや、無理だって。その日はバイトだし」

「いいじゃん、サボれば。ね、行こうよ。緒形がいないとつまんないよ」


 どくん、と心臓が大きく跳ねる。間違いない──扉の向こうに「元カレ」がいる。

 菜穂は扉の陰に隠れると、逸る心臓をなんとか落ち着かせようとした。

 元恋人である緒形と付き合っていたのは、今から1年以上も前のこと。しかも、交際期間はほんの数ヶ月にすぎない。

 それなのに、なぜこの耳はいともたやすく彼の声を拾いあげてしまうのか。


(でも、こんなのは明日までだ)


 卒業してしまえば、二度と緒形と顔を合わせることはない。

 菜穂は、小さくうずくまって息を潜めた。ああ、早く──早く、明日がきてほしい。



 そんな出来事があったせいか、卒業式当日、菜穂は腫れぼったい目で登校するはめになった。友人たちからは「もう泣いたの?」と驚かれたが、まさか「1年以上前に別れた元カレのことを考えていたら眠れなくなりました」などと言えるはずがない。

 卒業証書は代表者1名が受け取るため、卒業式そのものはあっけないほどすぐに終わった。むしろ、そのあとの最後のホームルームこそが本番で、担任教師からの丁寧な挨拶に、教室のあちらこちらからすすり泣く声が聞こえてきた。

 けれど、菜穂はそれどころではなかった。なにせ、このあと、昨日の男子生徒に告白の返事をしなければいけないのだ。

 さて、どうするべきか。彼に対して、現時点で恋愛感情はまったくない。ただ、悪いひとではなさそうだし、なにより気があいそうだ。少なくとも、たった数ヶ月で別れた「元カレ」よりは、ずっと──

 そこまで考えたところで、菜穂は慌てて頭を振った。冗談じゃない。こんなときまで、元カレのことを思い出してたまるか。

 ため息を飲み込んだところで、椅子を引く音が響いた。いつのまにか最後のホームルームが終わっていたようだ。

 件の男子生徒は、菜穂に目配せするとひとり静かに教室を出て行く。

 追いかけなければ──返事をしなければ。

 でも、なんて? 自分は、彼と新しい恋をはじめられるのだろうか。


(はじめてみたい、かも)


 そうすれば、ひとつ前の恋もようやく「過去」になるはずだ。

 菜穂は、顔をあげると、そのための一歩を踏み出した。

 そうだ、過去だ。すべてを過去にしてしまおう。菜穂を手ひどく傷つけた「元カレ」のことなど、さっさと忘れて、今度こそ幸せな恋をするのだ。

 混雑していた3階の廊下を抜けると、校舎中央にある階段を駆け下りる。あとは、賑わっている正面玄関さえ通り過ぎてしまえば、昨日の渡り廊下まではあっという間だ。

 菜穂は、逸る気持ちのまま、歩くスピードを速めようとした──そのときだった。


「またね、バイバイ!」


 よくある、ありふれた挨拶。手を振っているのは隣のクラスの女子生徒で、おそらく親しい友人たちに向けたものだろう。それこそ、卒業式を終えてもなお「またね」と言い合えるような間柄の。

 けれど、そのありふれた「別れの言葉」が、菜穂の足を強く引っ張った。


 ──「またな。バイバイ」


 付き合っていたほんの数ヶ月間、何度も耳にしたその言葉。時には軽く顎をあげ、時にはくすぐったそうな笑顔を添え、また時にはキュッと目を細めて──いろんな「元カレ」の「またな」が菜穂の脳裏を駆け巡る。

 菜穂は、呆然とした。認めたくない事実を、突きつけられたような気がした。

 そのまま立ち尽くしてしまった彼女の前方から、控え目な「なべ?」と呼ぶ声が届いた。件の男子生徒だ。おそらく、いつまでたってもやってこない菜穂を、探しに来てくれたのだろう。

 菜穂は、目を伏せた。どうして、ここから先の一歩をうまく踏み出せないのだろう。

 わからない。答えは見つからない。

 ただ、はっきりしているのは「新しい恋は、まだはじめられない」ということだけだった。

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