あしたをはる

古栗修

あしたをはる

 宵々山


 わたしの名前は『あしたをはる』。実体はない。

 もう少しわかりやすく言うと、わたしは電脳の中で生きている人工生命体である。もっとわかりやすく言うなら、わたしは零と壱で構成された情報の流れである。

 虚体としてわたしは猫の姿をしている。猫種はノルウェイの森の猫。特徴は毛皮が二層になっており外層は粗く、内層は密度が高いために基本的に水を通さない構造になっている。後脚が前脚より長く跳躍力に優れている。性格は知的で気高くお茶目である。ということらしい。毛色は茶のキジトラと白。体重は四キロという初期設定である。

 わたしの住処は、也阿弥ホテルの本館最上階の部屋である。ここは、明治時代に京都東山の麓、円山公園の北東に建てられた京都における最初のホテルである。かって、円山安養寺内の坊舎は料亭や貸し座敷を営み、六阿弥と称される六つの阿弥坊が存在した。その一つ、也阿弥を井上万吉なる人物が買収し、也阿弥ホテルと名付けて開業したものの明治三十二年に焼失。同三十五年に再建されるも三十九年には再び焼失し歴史の幕を閉じた。建物の外観は、日本風の瓦で和風の印象が強いが、高層建築の三階建てで窓ガラスがはめられており採光が十分に考慮された明るい構造で、さらに周囲をベランダが取り巻いており、そこには椅子が置かれているといういわゆるコロニアルスタイルとなっている。

 わたしは猫らしく、朝は飯櫃の上、夜は炬燵の上、天気のよい昼は椽側へ寝る事が多い。というのは嘘で、ベランダで日がな一日、日向ぼっこをして過ごすことが最も多い。ような気がする。このベランダからは電脳第七階層世界に位置するネオ京都の町並みを一望できる。也阿弥ホテルの麓には円山公園が開け、八坂神社へと続き、そこから西に向かって一直線に四条通りが延びている。四条大橋のたもとには歌舞伎が催される南座が見え、四条通りを取り囲むように黒瓦の京町屋がうなぎの寝床よろしく蠢いている。この町並みは、幕末から明治初期の京都を模倣して構築されたものである。西北には大内裏が広がっている。大内裏の位置は、平安時代のそれに正確に一致しており、その南面中央の朱雀門からは幅員が二十八丈にも及ぶ広大な朱雀大路が南に向かって延び、終点には羅城門がその威容を誇っている。北東には平安遷都千百年を記念して明治時代に建立された平安神宮とその大鳥居が聳え立っているが、それらを圧倒する勢いで、平安時代に白川天皇により創建された法勝寺の八角九重塔が屹立し、その周辺には尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺という六勝寺が並んで建っている。このように平安時代と明治時代が混じり合って併存している景色が、この町がネオ京都といわれる所以でもある。ちょっと違うような気もするが。ネオ京都の東西南北には四神相応の地であることの証明であるようにそれぞれ大文字山(青龍)、嵐山(白虎)、巨椋池(朱雀)、船岡山(玄武)が位置し、その外方には天空に向かって火壁が聳え立っている。火壁は見た目は名前のごとく炎の柱が天空に向かって燃え立ち壁を形成しており、これが四方で連なってこのネオ京都をすっぽり囲い、外敵からこの世界を守ってくれている。


  コンコンチキチキコンチキチン

  コンコンチキチキコンチキチン


 今日は七月十五日、祇園祭の宵々山である。四条通りには山と鉾が立ち並び、多くの虚体がそぞろ歩きをしている。ヒト型もいれば戦争機械型もおり、抽象型や文字型も徘徊している。町全体に祇園囃子の鉦音が慎ましく流れ、祭りの雰囲気をそれとなく醸し出している。そのようだ。


「おい、田中よ、あの計画のすすみ具合はどうなんだ」

常連客の大沢さんが主人に問いかける。

「あの計画って?」

「あの計画だよ」

「えーーと、三位一体?」

「ああ、それそれ」と言いつつ、大沢さんは「王手」と大袈裟な声をあげる。大沢さんと将棋を指している主人はしばし沈黙の後、「参りました」と小さな声で呟く。そして、すぐに「もう一局」と有無を言わせない勢いで棋盤の駒をかき混ぜ始める。

「順調にいってる」

「順調って、三人の受容者に連絡は取れたのかよ」

「もちろん」

「ほう、で、いつ会うの?」

「明後日」

「って、早いねえ」

「って、時間をかければいいというもんでもないでしょう。気になることはなんでも早くする方が精神衛生上いいからね」

 主人と大沢さんはぼそぼそと話しながら棋盤の上に駒を並べていく。

 三位一体計画は最近の主人にとって第一の関心事である。と思う。具体的な内容を紹介すると、まず主人の実肉体には心臓と肝臓の小葉それに右側の腎臓がない。後二者がなくなっても生命維持には問題がないが、心臓がなくなってしまうと生きてはいけない。元の心臓を取り出した代わりに人工心臓が移植されている。そして、取り出された主人の健全な臓器は他者に移植された。他者とは、それぞれの臓器の致命的疾患に罹患した患者である。

 なぜ主人はそのようなことをしたのか。それはわたしが知り得ることではない。経済的な理由からかもしれないし、人生哲学によるものからかもしれないし、単なる気まぐれからかもしれない。わからない。

 主人のあちらの世界での職業は医師である。医師とはいっても、医師過剰のため就職先の病院は見つからず、また、大学の医局講座制が崩壊してしまったため就職先を求めて医局をたよりにすることもできず、一方、開業となると多大の借金を負って倒産するのが一般的という状況で、主人が切羽詰まって探し出した就職先が人工臓器開発企業の研究員であった。しかしどこも競争は厳しく、正社員としての三年契約の更新はなく、転職を余儀なくされたが、捨てる神あれば拾う神ありということなのか、非常勤嘱託という身分で己の肉体を人工臓器のモニターとして提供するという仕事にあぶりつき、なんとか生活が可能な収入を得られるようになっている。幸いなことに、人工心臓は現在もなお問題なく稼働し続けているが、人工肝臓と人工腎臓は、初期型の実験的なものであったこともあり現在も主人の実肉体のなかに在るのではあるが、機能は果たしていない。つまり無用の長物となっている。

 わたしの主人は、機械に憧れているようだ。確かにそうだ。主人の理想の姿は、脳だけ自分の元のものであとの肉体はすべて機械に置き換わった機械人間である。そういう思考の持ち主ゆえに、このような実肉体の改変も躊躇いなく実行できたのかもしれない。そんな気がする。そんな主人であるが、最近になってある論文を読んだことでこの三位一体計画を実行に移そうと考えるようになった。その論文とは、次のようなものである。


  臓器移植後の供与者と受容者の共鳴現象 <要約>


 目的:臓器移植後に供与者と受容者の間に認められる精神的共鳴現象を客観的に評価すること。

 対象:臓器移植後、供与者・受容者ともに健康に生存しており意思伝達が可能な二十一症例。心臓移植三例、肺移植二例、肝移植七例、腎移植九例。

 方法:臓器移植を受けた受容者とその臓器の供与者をお互いが臓器提供の相手だという事実は伏せた上で同一の検査室におき、共鳴認知解析教本の吉村法に基づいて双方向意思伝達を試み、同時に脳磁波と陽電動脳断層撮影装置にて脳内波動の変位を測定する。

 結果:全二十一例中九例(心臓移植二例、肺移植一例、肝移植五例、腎移植一例)で、供与者および受容者の両者に脳波動の有意な共鳴現象を認めた。残りの十二例中八例では共鳴現象は認めるものの統計的解析では有意と認められず(危険率一%)、四例ではまったく共鳴現象は認められなかった。

 結論:臓器移植後の受容者とその供与者の間に約四十三%の割合で脳内波動測定にて共鳴現象を認めた。特に心臓移植と肝移植でその割合は高く、逆に腎移植では低かった。今後さらなる症例の検討が必要と考える。


 つまり、この共鳴現象を自己体験すべく、この三位一体計画を発案した。ということらしい。

 まず自分の臓器を与えた三人の受容者に連絡する必要があった。通常の臓器移植では受容者と供与者の間でそれぞれの個人情報が披露されることなどあり得ない。しかし、わたしの主人の臓器移植の場合は、自分自身の勤める人工臓器開発会社の研究の一環としてあったため、受容者の選別については主人の意思が第一優先され、かつ受容者の個人情報は主人に委ねられた。つまり、主人は受容者がどこの誰であるのかを知った上で自ら選んだということになる。となると三人の受容者と連絡を取ることは主人にとってはさほど難しいことではなかった。

「噂によるとみんな若くてかわいい女の子なんだって?」

「そりゃまあ、当然でしょ。自分の健康な臓器をあげるんだから、それくらい好きなように選ばしてくださいよ。もし同じ立場だったら大沢だってそうするでしょう」

「まあ、そうかもな」

 大沢さんは神妙な顔つきで駒を並べながら呟いた。

「いやいや、そりゃないよ。大沢はおばさん好きだからな」

 部屋の入り口から陽気な声が響く。井上さんだ。その後ろには岡本さんもいる。

「おばさんはいいですよね。大沢さん」

 からかうように岡本さんが突っ込む。

「おまえら・・・・」

 大沢さんは敢えて言い返しはしない。主人は無関心を装って、大沢さんに将棋の第一手を打つよう催促する。


 大沢さんは、あちらの世界では屋台で拉麺屋をやっている。らしい。自前の凝った拉麺を出しているのではなく、すべて即席拉麺である。店の売りは、この即席拉麺に組み合わせて出されるカレーである。といってもこのカレーも即席である。数ある即席既製品の拉麺とレトルトパックのカレーをうまく組み合わせて様々なカレー拉麺を食べられるというのが大沢さんの拉麺屋台の特徴である。趣味は将棋。岡本さんは、あちらの世界では人形制作者である。主にビスクドール(十九世紀に欧州のブルジョワ階級の貴婦人・令嬢たちの間で流行した人形)のレプリカモデルを制作しているらしい。趣味は、本職からの流れで少女機械の製作。少女機械は人形と違って、自家発電によって自動能を有する電脳機械である。井上さんはあちらでは法科の大学院生である。弁護士志望であるが、弁護士余りの現実を目の当たりにして、将来どうしたいのかは未だ不明らしい。趣味はアニメのセル画蒐集。この部屋を訪れる人たちのなかで唯一あちらの世界で結婚しており奥さんがいるらしい。ちなみにわたしの主人の趣味は将棋。ではない。釣りである。あちらの世界では、へら鮒釣りを専門としているらしい。こちらでの釣りは専ら『発言釣り』である。つまりそれは、嘘の情報を流したり、わざと叩かれるような発言をして、それに踊らされる人を見下して楽しむ悪戯だ。最近主人が仕掛けた釣りを紹介する。                    


 昨年、ネオ京都の祇園祭行ったんです。祇園祭の山鉾巡行。そしたらなんか虚体がめちゃくちゃいっぱいで山鉾巡行が見れないんです。で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、自爆花火半額、とか書いてあるんです。もうね、アホかと。馬鹿かと。お前らな、自爆花火半額如きで、普段来てない山鉾巡行に来てんじゃねーよ、ボケが。半額だよ、半額。なんか親子連れとかもいるし。一家4人で山鉾巡行見学か。おめでてーな。よーしパパ自爆祭りに参加しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。お前らな、残りの半額やるからその自爆花火譲れよと。山鉾巡行ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。山鉾を運行している奴らや他の見物客と、いつ喧嘩が始まってもおかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。で、やっと自爆の順番が回ってきたと思ったら、隣の奴が、菊先紅でパーッと、とか言ってるんです。そこでまたぶち切れですよ。あのな、菊先紅なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。得意げな顔して何が、菊先紅でパーッとで、だ。お前は本当に菊先紅の花火を観賞したいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。お前、菊先紅って言いたいだけちゃうんかと。祇園祭通の俺から言わせてもらえば今、祇園祭通の間での最新流行花火はやっぱり、錦冠、これだね。錦冠三尺玉八重芯。これが通の自爆花火の選び方。錦冠とは花弁が垂れ下がる様な息の長い金色の花火。そん代わり火の温度があまり高くないので明るくない。これ。で、それに三尺玉の八重芯。これ最強。しかしこれを選ぶと次から囃子方にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。素人にはお薦め出来ない。まあお前らド素人は、ねずみ花火でも選んでなさいってこった。


 この釣りの餌に引っかかった雑魚は三百匹以上に及んだ。主人はもちろん満足気ではあったが、目標は千超えだそうだ。

 こちらの世界での皆の虚体は様々である。わたしの主人は、普通の若者といった出で立ちで、特徴的なのは髪型がアフロヘアーであることくらいである。大沢さんはチビで小太りで無精髭を生やした冴えない感じの中年男性の姿であり、岡本さんは黒色の学生帽と詰襟の学生服を着た中学生(こちらでは厨房と呼ばれることもある)の姿をしており、井上さんは頭は禿げているが長さが五十センチはあろうかという立派な顎髭を蓄えた仙人のような隠居老人の虚体をしている。皆があちらの世界でどのような実体をしているのかは、わたしの関知し得るところではない。

「田中はどんな戦法で大沢師匠に立ち向かおうとしてるんだ」

 井上さんが達観した老人の顔つきで話しかける。

「振り飛車に美濃囲い。で、大沢は居飛車に穴熊囲い。どう、参った?」

 から元気な声で主人が答える。大沢さんは黙々と駒を指していく。

 途中で岡本さんは、将棋を観ることに飽きてしまい、部屋の隅にある本棚から電子広辞苑を取り出してきて、なぜか四字熟語を唱え始める。


  諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽


「おいおい、誰かさんがお経を唱えだしたよ」

 井上さんがびっくりした顔で主人と大沢さんに話しかけるが、二人とも将棋に集中しているようで反応を返さない。おそらく井上さんは岡本さんにいつもの発作がでる前ぶれではないかと心配しているのだろう。岡本さんの変なお経もどきの呪文のような声が部屋の中に静かに響き渡る。


  悪鬼羅刹 暗澹冥濛 異端邪説 婬虐暴戻

  運否天賦 怨徹骨髄 厭離穢土 鬼哭啾啾

  孤立無援 欣求浄土 猜忌邪曲 屍山血河

  酔生夢死 造反有理 湛然無極 魑魅魍魎

  天壌無窮 怒髪衝天 佞悪醜穢 破邪顕正

  咆哮搏撃 泡沫夢幻 磨穿鉄硯 無慙無愧

  銘肌鏤骨 幽寂閑雅 妖姿媚態 六道輪廻


 部屋の隅で四字熟語の呪文を唱える岡本さんをまったく無視するように部屋の中央では将棋が打ち続けられていく。

「負けました」

 主人が俯いて、ボソッと呟いた。

「七十五手で先手大沢の勝ち」

 井上さんの大きな声が響きわたる。

「むうう、くやしいのう、くやしいのう、くやしいのう」

 主人がアフロヘアーを掻きむしりながら呻き呟く。

「うへへ、くやしいだろ、くやしいだろ、くやしいだろ」

 呼応するように大沢さんが嘲り笑いながら声をあげる。

「田中が大沢師匠に勝とうなんて十年早いわ」

 井上さんが主人を咎めるように言葉を放つ。主人はそんな辛辣な言葉に反応することもなくひたすら呟き続ける。

「くやしいのう、くやしいのう、くやしいのう、くやしいのう」

 するとその文句がなぜか岡本さんに伝染し、岡本さんが主人と同じように別の呪文を唱え始める。


  くやしいのう くやしいのう くやしいのう くやしいのう

  かなしいのう かなしいのう かなしいのう かなしいのう

  はがゆいのう はがゆいのう はがゆいのう はがゆいのう

  むねんやのう むねんやのう むねんやのう むねんやのう


 ドドドッドドドッという大音響が也阿弥ホテルのすべての窓を震わせる。主人はすぐに視線を窓の外に向ける。続いて、大沢さん、井上さん、岡本さんの順に反応し、最後にわたしも視線を部屋の中から外へと移す。半径十メートルはあろうと思われる大きな火球が北の空からネオ京都の町中へ向かって流れ落ちていく。いつの間にか皆が窓を開けバルコニーへ出て身を乗り出し、火球を注視している。

「きたーーーー!」

「きたきたきたきたーーーー遊星爆弾きたああああああ」

「おいおい、やばいよやばいよ、やられちゃうよ」

「がくがくぶるぶる」

「もう遅いよ」

「大宮あたりに落ちるとみた」

「火壁を簡単に突破しちゃったんですね」

「南無阿弥陀仏」

 ズドーンという轟音を響かせて、火球が町中に落下する。同時に火柱が舞い上がる。「おおっ」と皆が感嘆の声をあげる。

「『あしたをはる』、どこに着弾したか調査してこい」

 主人から命令が下りる。わたしは「ニャー」と声をあげ、ベランダから空へと飛び立つ。空飛ぶ猫。ネオ京都の町を見下ろしながら火柱が上がった場所へと向かう。

 被害にあったのは壬生寺です。ほぼ全壊しています。ここに常駐している新撰組の隊士たちも全員死亡したものと考えられます。つまり現時点においてこのネオ京都を守ってくれる隊は存在しないということになり、この町は非常に脆弱な状態にあると言えます。

 わたしの伝言がすぐに主人に伝えられる。

「どこのどいつが何のために」

 興味なさそうに主人が呟く。

「って、興味あるわけ?」

 つまらなさそうに大沢さんが訊く。

「まあ、少しはね」

 取って付けたように主人が返す。

「おそらく、あの潔癖団の仕業でしょう」

 岡本さんが会話を継続する。

「ああ、そういえばあいつらここの祇園祭にえらく反対してたそうだね」

 主人が岡本さんに訊く。

「自殺を推奨するような祭りは許せないそうですよ」

 岡本さんがきっぱりと答える。

「自爆祭は駄目なのか」

 大沢さんが疑問を投げる。

「自爆と自殺は違います」

 岡本さんが毅然と答える。

「いっしょだよ」

 無責任な風に主人が返す。

「違うよ」

 大沢さんが反応する。

「どっちでもいいよ」

 欠伸をしながら主人が呟く。

「で、その祇園祭を妨害するために火球を撃ったと」

 大沢さんが結論を導き出す。

「まあ、そんなところでしょう」

 岡本さんが同意する。

「まあ、どうでもいいだろう」

 主人が話を元に戻してしまう。ちなみに『潔癖団』とはあくまで主人たちが使う呼称であり、正式名称は『正しい社会を求める市民の会』である。この会とは、この世に存在する正と負の価値観をもつもののうち徹底的に負のものを排除するという原則に従って行動する集団であり、それはかれらに言わせると「世の中の当たり前で普通で真っ当なことを当たり前によいと言えることができる真っ当な社会を望む」ということになる。わたしの解釈では、この世には零と壱が存在しておりそのうち一方のみを選択するということになるのであるが、わたしも含めてこの世、つまり情報の流れというのは、零と壱のどちらかひとつでは成立し得ない。そんな成立し得ない世の成立を希求するという極めて革新的な集団である。

 わたしが也阿弥ホテルに戻ってくると大沢さんと井上さんが将棋の対局を始めていた。主人は傍らでその対局を眺めている。岡本さんの姿はなくなっていた。わたしは窓際の定位置に座り、いつものように漫然と外の景色に目をやる。先ほどの火球着弾による町の喧噪は一瞬のうちに消退してしまい、夕闇が迫ったネオ京都の町には、何事もなかったように祇園祭のお囃子の音が鳴り響いている。


  コンコンチキチキコンチキチン

  コンコンチキチキコンチキチン


「こんばんは」と暗い低音の声が響き、村田さんが入ってくる。村田さんはあちらの世界では無職で生活保護だけで優雅な生活をしているという強者である。こちらの世界での虚体は、ねずみ男という妖怪漫画のキャラクターの姿をしている。一般に、電脳世界での虚体に関しては、漫画のキャラクターやあちらの世界での有名な俳優などの姿を借りる場合が多いが、どちらかというとそれは電脳世界の初心者であり、こちらの世界に馴染んでくるとそういう借り物の姿はあちらの価値観を引きずっているように感じられるのか、だんだんとこちらでのオリジナルな姿を身につけるようになっていくようだ。確かにそうだ。

 村田さんが主人に自分の方に来いと手招きする。主人は重そうに腰を上げ、いそいそと村田さんの方へ向かう。村田さんは主人の耳元でこそこそと話し始める。

「最近、何かいいブツは手に入ったかい?」

 主人は両手を広げて、「まったく」と答える。

「この前もらった『滑空機』はなかなかよかったんだけどね、だけどこれも回数依存が出てきて二十回負荷したあたりでほとんど効かなくなっちゃった。どうにかなんないかねえ」

 村田さんが困った顔で主人に訴えかける。

「つまり『滑空機』でもとべなくなったってことだ」

 涼しい顔で主人が言葉を返す。

「とべない、とべない。いや最初は滅茶苦茶とべたんだけどね。すげー気持ち良かったすよ」

 村田さんの顔がほころぶ。

「脈楽の回数依存性ってのは未だに現代医学では解明されていないからねえ。大体、脈楽自体がどうして脳に多幸感をもたらすのかも解ってはいないし。いろいろと論文はあるんだけどね」

 主人が難しい顔を返す。わたしの脳内に代表的な論文が明滅する。


  人工心臓における心拍動のリズムと脳内波動の変化について <要約>


 目的:人工心臓移植受容者において特定心拍動リズムにより特異的脳内波動が惹起されることを確認すること。

 対象:人工心臓移植後、一年以上経過している健常受容者十例。

 方法:対象例の人工心臓の拍動調節電脳中枢部における記憶装置にさまざまな拍動リズムを記録した素子媒体を負荷し、生体の反応を記録する。具体的には、血圧測定、血液検査にて種々の活性物質の定量、脳磁波と陽電子脳断層撮影装置による脳内波動の測定および近赤外光脳機能計測装置にて高次脳機能を描画する。

 結果:全例で血圧に定型的な変動は認められず、血液中に何らかの活性物質の有意な上昇も認められなかった。また、七例で脳磁波および脳内波動ではテトラヒドロカンナビノール吸引時と同様な変化を示した。これらの症例では高次脳機能計測においても視床下部から前頭葉にかけてテトラヒドロカンナビノールによるものと同様の変化が描出された。

 結論:人工心臓移植受容者の人工心臓にある特定の心拍リズムを負荷するとその受容者にテトラヒドロカンナビノールによって惹起されるものと同様の脳内変化が認められることがわかった。今後は特定拍動リズムの特異性および脳内変動の多様性についてさらなる検討が必要である。


  人工心臓における特定心拍動リズムによる脳内波動変化の

  負荷依存性について <要約>


 目的:特定心拍リズムによって人工心臓移植受容者の脳内に惹起されるテトラヒドロカンナビノール様変化の負荷依存について評価すること。

 対象:人工心臓移植後一年以上経過している健常受容者で、特定心拍リズムにて脳内にテトラヒドロカンナビノール類似変動が生じる八例。

 方法:対象例の人工心臓に特定心拍リズム(人間解体第三楽章)を負荷し、脳磁波・陽電子脳断層撮影装置・近赤外光脳機能計測装置等にて脳内波動変化を測定し、その反応の心拍リズム負荷に対する時間依存性(八時間まで)および回数依存性(毎日一回五十日間まで)について検討する。

 結果:全例において八時間までの時間であれば脳内惹起波動に変化はなく、依存性は認められなかった。一方、回数については、二十日経過した時点で、脳内惹起波動の変動割合を示すε定数が徐々に減弱していく現象が五例で観察され、残り三例では三十日を経過した段階で同様の現象が認められた。

 結論:人工心臓における特定心拍動リズムによる脳内波動変化は回数依存性を示し、三十回以上負荷した場合はその反応が徐々に減衰していくことがわかった。さらなる症例の積み重ねが必要と考える。


 ちなみに主人の話によると「さらなる症例の積み重ねが必要である」というのはつまり「これ以上症例を積み重ねるつもりはありません。もしこれ以上症例が増えたら否定的結果になる可能性がありますから。この仕事はこれで完結です。そのあたりの空気を読んで下さい」という意味であるそうだ。てかありえないような。学術論文でそのようなことがあっていいのだろうか。それはそれとして、簡単に解説しておくと、特定心拍リズムというのが脈楽のことであり、これまで様々な脈楽が創作され闇ルートで流通している。代表的なものとしては、第一世代のものとして「対自核」「電子瞑想」などがあり、第二世代として「人間解体」「平行喪失世界」、そして最新の第三世代として「滑空機」「先端論理」などがある。基本的には様々な波長の電子波の集合体であるため、音楽のリズムと同じようなもので脈楽そのものを音楽と考えていいのかもしれないが、重要な点は脈楽は決して耳で聴こえるものではないということである。つまり人間の可聴域にある周波数ではない。人工心臓の拍動調節中枢に作用し、心拍動にあるリズムを創り出すことによりその効果を発揮するというものである。またテトラヒドロカンナビノールとは大麻の主成分であり、テトラヒドロカンナビノール様の脳内変化とは、多幸感や聴覚鋭敏化、幻覚症状等の精神症状を指す。通常の大麻吸引では頻脈や徐脈、血圧上昇などの循環器変化も認められるが、人工心臓ゆえにそういう変化は認められない。ちなみに拍動のない人工心臓(これだと人工弁が必要とならないためより簡単な構造となる)というのも過去に開発されたが、動物実験で拍動がない状態では約三ヶ月しか生存できないということがわかっている。また、常に一定の血流しか生み出さない人工心臓では、その移植受容者の感情そのものが消失してしまうということも報告されている。


「その、原理はどうでもいいから、とにかく新しいブツって入手できる見込みはないのかい」

「それは『ナカタくんとコシジマさん』次第だな」

 闇ルートで主人にブツつまり脈楽を運んで来てくれるのは、『ナカタくんとコシジマさん』という三毛猫だ。二匹ではなく一匹で、天鵞毛を欺くほどの滑らかな毛を満身に纏った不思議系猫だ。わたしのように空を飛ぶことはなく、軒下や屋根の上をすばやく走って、いつの間にかこの部屋の隅に来ていることが多い。そしてその口に新たな脈楽が記憶された媒体が入ったカプセルを咥えている。

「あの猫のことだな。『あしたをはる』と違って、なんか狡猾そうな猫だろ」

 村田さんはわたしを褒めているつもりだろうか。

「ああ、でもあの猫のおかげでぼくたちはとぶことができるわけだからね」

 主人は『ナカタくんとコシジマさん』に肩入れする。といってもわたしのことが嫌いなわけではない。それはない。

「あの猫と連絡をとる方法は?」

 村田さんが少し苛ついたように話す。

「さあねえ、知らない。こちらから連絡はとれないんだ。一応、脈楽って違法だからね。向こうも気をつけてるんじゃない」

 主人は素気なく返答する。脈楽は確かに違法である。もう少し詳しく説明すると人工心臓を移植された人が脈楽を所持することが違法である。健常者が脈楽を所持していても何ら罪はない。また、脈楽を制作すること自体も違法ではない。ただし、脈楽を人工心臓移植受容者に売ることは違法である。第二世代の脈楽までは違法うんぬんは問題とはならなかった。それは人工心臓移植患者そのものが少なかったからである。しかし、全置換型第五世代の新阿久津型が登場してからその性能の向上と相まって人工心臓を移植する症例が格段に増加した。そしてそれに伴い、脈楽で大麻と同じような感覚が経験できるということも広まり、それが闇社会の収入源になっていき、社会問題化することになったのである。人工心臓の性能が向上したといっても生の心臓に敵うわけはない。真っ当な心臓疾患患者は自分に移植される心臓にはやはり人間の生の心臓を希望する。しかし、その数は少ない。脳死患者からの心臓移植はやはり少ないのである。ではどうするか。それは闇社会の人間ならすぐに思いつく類のものである。つまり、生の心臓を供給する。経済的に困窮している人に話を持ちかけるのである。あなたの心臓を高価な値段で買ってあげると。その代わり、あなたの体内には人工心臓が移植されると。生の心臓と人工心臓の差し引きでもあなたにはかなりの儲けがあると。人工心臓の性能がもうひとつであった頃は、自分の心臓を人工のものに差し替えることは通常生活にも不利益をもたらすことになり、志願者は限られていたが、新阿久津型の登場と脈楽の周知により、逆に人工心臓により快楽的な生活ができると知れわたり、その上、人工心臓移植そのもので儲けることができるとなると移植志願者は経済的困窮者の間で瞬く間に増加した。また、脈楽もいよいよ第四世代のものが開発され闇市場に出回り始めたという噂もある。この第四世代のものは、テトラヒドロカンナビノール様の刺激を超え、メタンフェタミン級の刺激が得られるという黒い噂が広がっている。こうなると脈楽もいよいよ覚醒剤と同じような扱いを受けかねなく、そうなるとその取り締まりも一層厳しいものになると思われる。

「あっー、より深い刺激が欲しいよおー」

 村田さんが叫ぶ。

「いらねえよ」

「あー、いらねえ」

 大沢さんと井上さんが呟く。

「おまえら、将棋ごときで満足してんじゃねーよ」

 村田さんが、大沢さんと井上さんに苛立ちの直球を投げる。

「将棋は奥が深いぞ」

「ああ、奥が深い」

「厨房にはわからんだろうな」

「わからん、わからん」

 二人は冷たく村田さんをあしらう。

「まあ人工心臓でない奴らにはわからんか、なあ田中」

 村田さんは主人に同意を求める。主人は村田さんの話を聞いていない素振りで大沢さんと井上さんの方へ戻っていく。そして再び、二人の対局を観戦する。ひとり取り残された村田さんは、部屋の隅にある主人の机の上から二段目の抽斗を開け、そこから脈楽の記録された音盤を取り出す。

「今日は『先端論理』を借りるよ」

 どうやら『先端論理』は未だ回数依存症を示していないようだ。そうなんだ。主人は村田さんの方を振り向くこともなく、左手を挙げて手首を直角に曲げて了解の合図を示す。村田さんは音盤をデッキに填め込み、ヘッドフォンを頭に付けて畳の上に仰向けに寝転ぶ。デッキのスイッチを押すと脈楽があちらの村田さんの人工心臓に組み込まれた電脳中枢の記憶端末に転送されていく。そして、人工心臓のポンプが独特のリズムで拍動し始め、こちらの村田さんの表情が徐々に陶酔のそれに変化していく。


  だーんだーん浸みてくーる、軽くなーる、浸みてくーる。

  だーんだーん浸みてくーる、軽くなーる、浸みてくーる。


「あーー、これこれ、これいいわあーー。新世界が見えるわ」

 村田さんが快楽の渦にのみ込まれていく。主人も大沢さんも井上さんも皆将棋の方に意識は集中し、村田さんの変化にはまったく関心を示さない。それはそうなんだ。村田さんは、とびながら何ごとかをぶつぶつと呟き始める。


  より強く より速く より良く より気高く よりしなやかに

  より鋭く より軽く より高く より久しく より遙か彼方へ

  より熱く より凄く より硬く より激しく より鮮烈な力で

  より深く より清く より惨く より虚しく より劇的な時を

  より甘く より円く より潔く より美しく より透明な世界


 宵山


 昼前から也阿弥ホテルには主人と大沢さん、岡本さんが集まっている。

わたしは也阿弥ホテルのいつものベランダに到着する。主人は岡本さんを無視するように大沢さんの元へと向かっている。二人は将棋の対局を始めるようだ。いつものことだ。

「そういや、三位一体計画は明日だったよな」

 大沢さんが主人に訊く。

「ああ、そうだけど」

 主人が答える。

「もうちょっと詳しく説明してよ。どこでどうしてどうするんだよ。勿論、実況してくれるんだろ」

 大沢さんが懇願するように主人に話しかける。

「うーーん、そうだなあ・・・・」

 主人は勿体ぶったように少しずつ話し始める。

「明日ね、午前十時過ぎに四条河原町の旧阪急百貨店最上階の喫茶『天井桟敷』で会う予定」

「午前十時って、山鉾巡行の真っ最中じゃないか。それも四条河原町って」

 驚いた顔で大沢さんが主人に訊く。

「そうなんだよ。でもね、仕方ないんだ。受容者の一人が広島から来るんだけど、どうせなら祇園祭の山鉾巡行を観たいっていうんだ」

 淡々と主人が答える。

「午前十時にその喫茶って開いてるんですか?」

 訝しげに岡本さんが訊く。

「そう、そんな日でも通常営業らしいんだ。開店が十時ちょうど。だから早めにいって開店まで並んでおかなくちゃあね」

「山鉾巡行は午前九時始まりですから十時というのはある意味中途半端な時間で案外空いているかもしれませんね」

 岡本さんがいつものように冷静に分析する。

「そうだといいんだけど。場所的には辻回しを真上から俯瞰できるっていう絶好の場所だからね」

 主人が不安げに答える。

「いえいえ、おそらくそんな絶好地に限って皆に知られてないってことが多いんですよ」

 岡本さんが慰めるように答える。

「で、その受容者の三人ってのはどんなメンツなんだい」

 大沢さんが興味津々といった顔つきで主人の顔を伺う。主人はそんな大沢さんに答えるのが面倒くさいようで、「『あしたをはる』、皆にデータを見せてあげて」とわたしに命令する。


 『実験体3超こ5り786ね』の臓器移植における受容者のプロフィール


 心臓移植

受容者氏名 脇野綾香  

移植時年齢 十七歳  

身長 一六〇㎝ 体重 五〇㎏ 血液型 A型(+)

住所 広島  

疾患 拡張型心筋症 


 肝臓移植

受容者氏名 大西有香 

移植時年齢 十七歳 

身長 一六一㎝ 体重 四七㎏ 血液型 A型(+)

住所 大阪

疾患 肝内胆汁鬱滞症 


 腎臓移植

受容者氏名 樫本彩乃  

移植時年齢 十六歳  

身長 一六三㎝ 体重 四八㎏ 血液型 A型(+)

住所 奈良  

疾患 ネフローゼ症候群 


 ちなみに『実験体3超こ5り786ね』というのは主人のことであり、詳細は見事に閲覧不可となっている。

「なんか三人とも似通ったプロフィールだな」

 大沢さんが不満げに呟く。

「つまりこれが田中さんの嗜好であるということでしょう」

 からかうように岡本さんが主人に話しかける。

「まあ、そういうこと」

 主人は悪びれることもなく、あっさりと答える。

「で、連絡とった時の反応って、どうだった?」

 大沢さんがなおも突っ込む。

「うーーん、そうねえ、心臓の綾香は素直な感じだったかなあ、今は広島で美容師の見習いやってるらしくて、三位一体計画についてはよくわからないらしくて理解しようともしなかったけどまあ面白そうだし、京都までの旅費を出してくれるなら祇園祭見学も兼ねて会ってもいいと言ってくれた。肝臓の有香はちょっと変わった感じでなかなか話も進まなかったんだけど、大阪でバイトしてるって言ってたな。何のバイトかは知らない。こっちが熱心に説得して何とか山鉾巡行を見れるという条件で来てくれることを約束してくれたけど、けどこいつが一番不安。腎臓の彩乃はおとなしい感じの話し方で一番好感が持てたな。奈良から京都の大学に通ってるってことで、会うことには何も問題ないみたいだった。三位一体計画にもそれなりに興味を示してくれたしね」

 主人はわたしが呈示した各人のデータを見ながら思い出すようにゆっくりと話した。

「おいおい、もうみんな名前で呼んでるわけ?」

 大沢さんが参ったといった感じで主人に問いかける。

「いや、まあ、自分の中で呼ぶ時はね、それくらいいいじゃん」

 照れ臭そうに主人が答える。

「そうですよ、それくらいいいですよ」

 岡本さんが主人に同意する。

「まあ、そうだな。ともかく、みんな来てくれたらいいのにな。絶対実況中継頼むよ」

 大沢さんが優しく主人に問いかける。

「ああ、みんな来てくれるかどうかは知らないけど、どちらにしても実況中継だけはするから、任しといて」

 主人が自分を励ますようにやや大きな声で答える。すると主人と大沢さんの視線は将棋盤の上に注がれ、二人の関心は将棋に向かう。岡本さんは所在なさげにわたしの元へと来て、わたしの体毛を優しく撫でてくれる。駒を打つ音が静かに部屋に響きわたる。緩やかに穏やかな時間が流れていく。

「ワンツースリーフォ いちにのさんはい、か・・・・」

 将棋に集中しながらも主人が漫然と呟く。

「なに、それ?」

 大沢さんが興味なさそうに尋ねる。

「いや、肝臓の有香が呟いてた言葉。三位一体計画について話したらそれは結局、『ワンツースリーフォ いちにのさんはい』ってことですよねって言うんだよ。なんじゃそりゃ?ってこっちは思っちゃうよね。でも、その後、ずーっとこの『ワンツースリーフォ いちにのさんはい』が頭に残ってるんだ。で、なるほど確かに三位一体計画は『ワンツースリーフォ いちにのさんはい』だって納得してしまったわけ」

 主人がしみじみと話す。

「なるほど、小娘に教えてもらったわけだな。確かに『ワンツースリーフォ いちにのさんはい』ってのは言い得て妙だな。前から訊こうと思ってたんだけど三人の臓器と田中が合体するなら四位一体じゃないのか?」

 大沢さんが手際よく将棋の駒を打ちながら主人に訊く。

「いやいや、三人の臓器が三位一体になってぼくと合体して昇天するってことだからやっぱ三位一体でいいわけ。わかります?」

 薄笑いを浮かべて主人が答える。

「まあ、都合のいい解釈だわな」

 大沢さんが呆れた風に言葉を返す。

「『この世に事実など存在しない。存在するのは解釈のみである』って、あのニーチェも言ってることだし」

そう言うと主人は、またあの言葉を何度も呟き始める。


  ワンツースリーフォ いちにのさんはい

  ワンツースリーフォ いちにのさんはい

  

 わたしを撫でる岡本さんの手の力が徐々に強くなっていく。そして、主人の呟く言葉が岡本さんに伝播し、岡本さんがいつものように変な呪文を唱え始める。


  ワンツースリーフォ いちにのさんはい

  ワンツースリーフォ いちにのさんはい

  いってきまーす。いってらっしゃい。

  ただいま。おかえり。

  いってきまーす。いってらっしゃい。

  ただいま。おかえり。


「いってきまーす」という岡本さんの声を聞き、わたしは暗澹とした気持ちになる。「いってきまーす」は岡本さんが狂い始める前兆なのだ。わたしは危険を察し、すぐに岡本さんから跳び離れる。岡本さんは、「いってきまーす。いってらっしゃい。ただいま。おかえり」を繰り返し呟きながらベランダへと出ていく。そして、いつもその隅に置いてある金属バットを手にして、思いっきり素振りを繰り返し始める。ブンブンと金属バットが空気を切り裂く尋常ではない音が響きわたる。


  いってきまーす。いってらっしゃい。

  ただいま。おかえり。

  岡本一樹です。元気です。

  吉田康子です。リュウマチです。


 ついに吉田康子の名前まで登場してきた。こうなるとこの発作がもうおさまることはない。吉田康子とは岡本さんの小学校の同級生である。当時、朝の授業開始の前にクラス全員が自分の健康状態を報告するのが習慣となっていたそうで、ひとり一人出席番号順に起立して、「赤木浩三です。元気です」とか「伊吹律子です・風邪気味です」というように報告したらしい。ほとんどの生徒が「○○です。元気です」というパターンであったが、出席番号が一番最後の吉田康子だけはいつも決まって、「吉田康子です。リュウマチです」だったそうだ。岡本さんにとっては、吉田康子そのものの記憶はそれほど明瞭ではないが、「吉田康子です。リュウマチです」という文句だけはしっかりと脳裏に刻まれて何かの拍子で意識上に表出してくるようだ。

 ますます岡本さんの声が大きくなっていく。素振りをしていた金属バットが木製ベランダの手摺りに振り落とされる。バキッと鈍い音を発して手摺りが砕け散る。


  岡本一樹です。元気です。

  吉田康子です。リュウマチです。

  岡本一樹です。元気です。

  吉田康子です。リュウマチです。


 岡本さんは同じ文句を繰り返し繰り返し呟きながら次々とベランダの手摺りを破壊していく。三ヶ月に一回は岡本さんに起こる発作である。見慣れた主人と大沢さんは慌てることもなく、将棋に興じている。主人がいつものようにわたしに命令を発する。

「あのなんたら少女機械ってやつに変身して岡本の発作を抑えろ」

 わたしは少女機械『ジュモー・ハダリ』に変化する。これは岡本さんが趣味で制作した少女機械の初号機である。『ジュモー・ハダリ』はジュモーのビスクドールを参考にして製作されたもので、豊かで繊細で流れるような金髪、蛾の触角のような美しい長い眉に僅かに微笑みを浮かべたクローズマウス、エメラルドグリーンのペーパーウェイトアイを持ち、球体関節構造でできた華奢な体躯(身長六十㎝)にはフォレストグリーンのシルクに綿リバーレースを使用したクラッシックなワンピースを纏っている。

 わたしは金属バットを振り回す岡本さんの前へ進み出る。岡本さんの双眸が見開き、金属バットがわたしに振り下ろされる。ガツンという金属と金属がぶち当たる鈍い音を発して、わたしの頭部が挫滅する。容赦なく次々と金属バットがわたしの体に打ち込まれていく。わたしは岡本さんに向かってか細い消え入りそうな少女の声色で言葉を発する。

「吉田康子です。リュウマチです」

 上空に振り上げられた岡本さんの金属バットがハタと止まる。岡本さんの荒い息遣いだけがベランダに響きわたる。いつもの予定調和。発作終了。岡本さんがわたしを抱き上げる。わたしはこの『ジュモー・ハダリ』のまま数時間はいなければいけないだろう。その間に、主人と大沢さんの対局は決着を向かえるだろう。そうなんだろう。


 夕暮れが迫り、主人と大沢さん、岡本さんの三人は井上さんと合流して祇園祭の宵山へと四条通りに繰り出している。わたしは主人の命令で、猫の姿から『明日終はる』という文字に化けて、ネオ京都の上空を徘徊している。この場合の『明日終はる』とは、「明日には祇園祭が終わりますよ」という意味である。

あちらの世界での実際の祇園祭の日程は七月一日の吉符入で始まり、三十一日の疫神社夏越祭で終わる。しかし、こちらの祇園祭は、十日のくじ取り式で始まり、十四日から十六日までに宵々々山、宵々山、宵山が開かれ、そして、十七日の山鉾巡行で祭を終えるという日程になっている。前祭と後祭りの区分けもない。よって、『明日終はる』で問題ないのである。ということです。

 わたしの視線は常に主人たちの姿を捕らえている。主人たちは四条通りを西へと向かっている。四条通りは幕末から明治の姿を再現しているため通りに沿って並ぶ建物は二階建ての京町屋である。その屋根の上には火の見櫓があり、多くの虚体が登っているのが見える。四条烏丸に立てられた長刀鉾の高さは周囲の建物から抜きん出ており鉾先に付けられた大長刀はネオ京都の天空に突き刺さらんばかりである。四条通りそのものもあまり広くなく、多くの見物虚体たちは町屋の軒下に群れ、あるいは町屋の二階から毛氈を垂らして祭り気分を盛り上げながら高みの見物をしている。群衆に揉まれて主人たちの歩む速度は非常に遅い。


  コンコンチキチキコンチキチン

  コンコンチキチキコンチキチン


 お囃子の鉦の音が心地よく、ネオ京都の路地から路地へ流れていく。主人たちは漸く四条東洞院西入ルに建てられた長刀鉾の傍まで来ている。鉾立ての作業も最終局面を向かえ、長刀鉾にも明日の山鉾巡行に備えた様々な電子機器が慌ただしく移植されている。

「でっかいなあ」

 大沢さんが長刀鉾を仰ぎ見ながら呟く。

「長刀の先端まで21・7メートル、棟まででも7・6メートルありますからね」

 岡本さんが解説する。

「いやね、おれが言いたいのは、あちらの京都での祇園祭で見る長刀鉾は高層ビルに囲まれてなんだか貧相に見えてしまうんだが、ここネオ京都じゃあ、周りは二階建ての町屋ばかりだからその大きさがより迫力を増すというかそんな感じで・・・・」

 大沢さんが返答する。

「そりゃそうだな。ネオ京都はいいよ。ここからもちゃんと五山が見えるもんね」

 井上さんが付け加える。ちなみにここネオ京都には五山の送り火という行事はない。今のところ。今後はわからない。

 ワナワナワナと大きな歓声の波が東の四条河原町を中心にして四方へ伝わっていく。何か事件でも起こったのだろうか。早速、主人が「原因調査」と言って、わたしに指令を出す。


  米国ロサンゼルスで核爆発。


 七月十六日未明、米国カリフォルニア州ロサンゼルス・ウェストウッドで核によると思われる大爆発が起こった。米国政府は連絡を受け、すぐに米国軍を現地に派遣し救助活動を開始したが、被害状況は不明。少なくとも十万人以上の市民が犠牲になったとみられている。爆発直後より各メディアに犯行声明が送られてきておりそれによると犯人は、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校で物理学を専攻するアジア系男子学生。犯行理由は、大学の同級生たちから受けた人種偏見によるものということ。なお、放射能汚染の危険性のため、ロサンゼルス周辺(爆心地より半径百キロ以内)は立ち入り禁止となっている。


 わたしは速報を主人たちに送る。

「来たねえ、来た来た来たでえ!これは紛れもない第伍使徒ラミエル襲来や」

 井上さんが喜色満面の顔で吼える。

「また出たよ、井上得意の使徒が」

 主人がしらけた表情で呟く。

「また自作の核爆弾みたいですねえ。爆縮式の原子爆弾ですかねえ。それとも水素爆弾かなあ。十万人殺傷というのはなかなかのできですねえ」

 岡本さんが考察する。

「最近、プルトニウムがあまりに簡単に手に入りすぎなんだよ。どこから流れてんだろう」

 大沢さんが不満気に呟く。

「おそらく旧共産圏か、中東からでしょ」

 岡本さんが即答する。

「日本でも数年前に原爆にいちゃんが現れたよな」

 主人が思い出すように話す。

「城戸誠ですよね。爆縮式の原子爆弾を自作して、政府に対して自衛隊解散と核兵器所持を要求したり、煙草違法化と大麻合法化を要求した中学の先生ですよね。結局、自作の原爆抱えて東京の武道館傍のビルから飛び降りたものの本人は電線に引っかかって地上に着地して軽傷を負っただけで、原爆も爆発せず。なんか身も蓋もない結末で終わったかわいそうな人でしたね」

 岡本さんが楽しそうに詳細を説明する。

「あいつは惨めだったよ。なんせ、肝心の原爆が爆発する能力がなかったんだっていうんだから、ありゃあ、お笑い種だね」

 主人が吐き捨てるように言う。

「まあ、原子爆弾の自作というのはそれだけ難しいんですよ。あのジョン・フォン・ノイマンでさえ漸く人工粘性の概念を取り入れることで上放物型偏微分方程式の差分近似に置き換えて計算することにより、曲がりなりにも衝撃波の数値計算ができるようになったんです。で、爆縮レンズが三十二面体であることがわかった。でもそれだけでプルトニウムを超臨界状態にもっていけるわけではないんです。単純な爆発の同期、圧力の均一化だけが問題なのではなく、入手したプルトニウムに最適化された圧力の問題もあり、個人で実用に耐えうる原子爆弾を製作するというのはかなりの知恵と労力と偶然が必要なんでしょう」

 岡本さんの解説はまるで自分も一度は原爆を制作したことがあるというようなリアルなものだ。

「第伍使徒が核となると第六はやっぱ生物兵器になるかなあ」

 井上さんがぶつぶつと呟く。使徒というのは井上さんの終末感の核となる単語である。


  人類はたったひとりの狂気によって滅びる。


 これが常々、井上さんが主人たちに説いている話の主題である。そのたったひとりの登場までには段階があるというのが井上さんの持論で、第壱の使徒は十の一乗つまり十人程度の殺人を犯し、これは昔から多くの存在が報告されている。次に第弐の使徒は十の二乗つまり百人の殺戮を犯すことになり古くは米国オクラホマ市連邦政府ビル爆破事件のティモシー・マクベイがあげられるが近年は戦争機械の進歩により百人程度の殺戮は頻繁になっており多くの第弐使徒がいる。第参使徒は、千人程度の殺戮になるが、基地外軍人の暴走によるものがこれまで米国中国中東で三例報告されている。軍人と精神疾患ということで各人の詳細は公表されていない。第四使徒は一万人の殺戮になるが、さすがにこれは一例だけで三年前に東欧で生物学者ヨアヒム・クラカウスキーによる殺人ウィルスAZによるものであった。今回は十万人規模であるから十の五乗つまり第伍使徒の登場となるわけである。そして、約百億の人類が滅びるのは、百億つまり十の十乗つまり第十の使徒によってということになるそうだ。

「アニメの世界と現実を混同しないでくれよな」

 主人が困った顔つきで井上さんに言う。

「アニメとは関係ないって。ぼくは現実を話しているだけだよ」

 井上さんが反論する。

「まあどちらにしてもあちらの世界はのっぴきならないものになりつつあるのは確かだ」

 大沢さんがうまく話の着地点を見つける。

「ああ、あちらは大変だ。それに比べてこっちは楽しいなあ」

 そういいながら主人が大きく伸びをする。ちなみにこちらの世界でも井上さん言うところの使徒は現れており、しかも既に第八使徒まで来ている。しかし、こちらの世界は虚体の数に限界がないためあちらの世界で第十使徒が最終使徒であるという終末がない。果てのない終末を目指して、こちらの世界では次々に使徒が現れてくるのだろう。おそらく。


  コンコンチキチキコンチキチン

  コンコンチキチキコンチキチン


 笛、鉦、太鼓の奏でる音色が夕闇のなかに浸透していく。主人たちは四条通りをさらに西に進み、室町通りを北に上がっていく。そこには菊水鉾や山伏山などの山鉾が建っておりそれぞれの場所で囃子方がその鉾独自の音色を奏でている。その音色に言葉を付与するように、手習い歌が詠まれている。これはこちらの世界の祇園祭の特色である。そうなんだ。


 いろはにほへと ちりぬるを 

 わかよたれそ つねならむ 

 うゐのおくやま けふこえて 

 あさきゆめみし ゑひもせすん

  

 別の山鉾ではまた別の手習い歌が詠まれている。


 あめつちほしそら やまかはみねたに

 くもきりむろこけ ひといぬうへすゑ

 ゆわさるおふせ えのえをなれゐて


 新町通りの放下鉾からも聞こえる。


 あめふれは ゐせきをこゆる

 みつわけて やすくもろひと

 おりたちうゑし むらなへ

 そのいねよ まほにさかえぬ


 さらに遠くの西洞院通りの蟷螂山からも流れてくる。


 ひふみ よいむなや こともちろらね

 しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか

 うおえ にさりへて のますあせゑほ


 四条通りを南に下がった仏光寺通りの白楽天山からも呪詛のような手習い歌が聞こえてくる。


 いしかねぬるに くちみほそ

 のせもたむるは をえれよら

 とますわこきや あんろゑめ

 おてなひけゆう さへつふり


 様々な手習い歌を詠む声がネオ京都の上空で重なり干渉し合う。わたしはその安らかな音の波にのって心地よく舞う。『明日終はる』となってわたしは軽やかに舞う。そんな感じだ。


  山鉾巡行


 こちらの山鉾巡行はあちらの世界の山鉾巡行と同期して催される。あちらは快晴とのことだが、こちらは真っ暗な夜空となっている。陰陽という対比からか、こちらの山鉾巡行はいつも日中に開催されるも空は真っ暗闇に設定されている。そのため、山鉾には様々な電飾が施され極彩色の光に包まれている。

 わたしは主人の命を受け『猫が餅つきをしている月』となってネオ京都の天空にぶら下がり、これから始まらんとする山鉾巡行を俯瞰している。

 午前9時、「エーンヤーラヤー」と音頭取りの掛け声を合図に、長刀鉾が四条烏丸から車輪を軋ませて動きだす。鉾全面を電飾で彩られた長刀鉾からは眩いまでの光線が四方にまき散らされており、光り輝く大長刀は鉾頭から漆黒の空に向けて光の直線を放っている。前懸と胴懸は大きな液晶画面になっておりそこには抽象的な動画が映っている。囃子舞台の先端には生稚児ではなく、『愚鈍な稚児』がいる。こちらの世界の山鉾巡行の特徴のひとつであり、『愚鈍な稚児』は顔に機械人面を被っているためその中身が誰であるかは不明である。というより『愚鈍な稚児』そのものが虚体であるからその中身を論じること自体が意味をなさない。あちらの世界の生稚児は京都市内に住む由緒正しい資産家の十歳前後の男子という条件があるらしいが、こちらの『愚鈍な稚児』は才能ある電子音楽家というのが唯一の条件だ。そうらしい。

 『愚鈍な稚児』が太刀で注連縄を両断、結界を解き放つ。囃子舞台にそろった囃子方たちが祇園囃子の音を奏でながら歌う。同時に、囃子舞台に整然と揃えられた数々の電子音楽合成装置を『愚鈍な稚児』が操作し始める。


  コンコンチキチキコンチキチン

  コンコンチキチキコンチキチン


 奏でられる音楽と同期して長刀鉾から光線の洪水が周囲に放射される。都大路に集まった見物虚体たちから歓声が湧き起こる。光と音の洪水を四方に撒き散らしながら長刀鉾がゆっくりと四条通りを東へと進んでいく。

 長刀鉾の屋根の上にひとつの虚体が現れる。いよいよネオ京都の山鉾巡行での最初の見せ物、自爆手古舞の始まりだ。自爆手古舞を舞うことができるのはヒト型虚体だけである。その虚体は、短く口上を語った後、自爆花火をのみ込み、鉾の屋根から空へと舞う。直後、自爆花火が爆発し、虚体は粉々となって美しい花火が漆黒の空を輝かすというのが自爆手古舞の伝統的形式だ。この自爆花火は既製品のものもあるが、多くの虚体は自分で制作し、その花火の華やかさを競っている。

「本日は皆様方のお尊顔を拝し奉りまして、恭悦至極に存じ上げます。一番籤の幸運を引きましたわたくし菖蒲池薫と申します。今晴れやかな心地で舞いたいと存じます。ごらあ、秀明!この馬鹿息子!お前のせいでお父さんどれだけ苦労してるかわかってんのか!死ね、糞息子が。皆様方、下品な口上で失礼しました。それでは逝ってきます。逝ってきまーーす」

 一番籤を引いた虚体が口上というより言いたいことを勝手に叫んで自爆花火を口にのみ込む。にやりと不気味な笑みを浮かべて長刀鉾の屋根を思いっきり蹴り、宙に舞う。頂点で四肢を大きく伸ばし爆発する。深紅の牡丹星だ。一番花火としては無難ではないかと思う。確かにそうだ。虚体の肉片が散り散りになって地面に飛び散る。これもなかなかの演出だ。血に染まった肉片を浴びた虚体たちから喜びの歓声が湧く。

 コンコンコンチキコンチキチン コンコンチキチキコンチキチン

 コンコンチキチキコンチクショウ コンコンチキチキコンチクショウ

 囃子方たちの歌う声に怒気のようなものが帯びていく。一番籤の虚体が舞った後は順番などは存在しない。皆が思い思いに好きな場所から好きな口上を述べて自爆していく。直ぐに三体の虚体が長刀鉾の屋根に上がり、各人勝手に口上を述べる。

「わたしは鴎。わたしは鴎。皆さん、楽しんでますか。わたしは鴎。では、逝ってきます」

「ぼくの名は、ジョン・シルバー。あの世に宝島なんてありません。嘘つき糞つき啄木鳥。それではぼくは逝ってきます。さようなら」

「石橋を叩いて渡る石橋と申します。あらかじめ失われた恋人たちよ、今、あなたはどこへ。わたしはあなたを追います。追って逝きます。追って逝きます」

 三体が同時に宙に舞って、爆発。銀蜂と葉落と虎の尾。それぞれはちょっと地味な感じだが、さすがに三つ一緒だと派手派手しい。と思う。

 コンコンチキチキコンチクショウ コンコンチキチキコンチクショウ

 コンチクコンチクコンチクショウ コンチクコンチクコンチクショウ

 囃子の音色も混沌とした狂気じみたものへと変容していく。長刀鉾の屋根から次々に虚体が夜空に舞っていく。後方の山鉾からもどんどんと虚体たちが舞い落ち自爆する。周りの町屋の火の見櫓からも虚体が四条通りに向かって飛び降り爆発する。あちこちで花火が煌めき、虚体が破裂する。四条通りは砕け散った虚体の肉片破片血餅鮮血で地獄絵図のようだ。「おーーい、あしたをはる」とわたしを呼ぶ声が聞こえる。長刀鉾の後方に位置した綾傘鉾の屋根に岡本さんの姿を認める。いつもの学生帽に詰襟学生服姿の中学生。しかし、顔は白粉で真っ白に塗りたくられ、口には真っ赤な紅が塗られている。正気なのか、それともあの発作のように狂気の真っ直中にいるのか。わたしにはわからない。

「大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ。死んでください、お母さん!逝ってきます、逝ってきます、逝って、きまーーーす」

 岡本さんが叫び、自爆花火を苦しげにのみ込んで屋根を蹴る。二回転半捻りという大技で宙を舞う。ゆっくりと宙を舞う。同時に爆発する。銀冠だ。銀色の光の線がしだれ柳のように垂れ下がるようにゆっくりと落ちてくる。その中に千々に裂けた詰襟学生服が花弁のように優雅に落花していく。学生帽だけが原型をとどめたままでくるくると回転しながら空中を飛行し彼方へと飛び去っていく。

「こちら田中です。今から実況始めます」

 あちらの世界にいる主人からの実況中継が繋がった。今現在、こちらに主人の虚体の姿は認められない。

「今どこにいるんだよ」

 大沢さんの声が聞こえる。確認すると大沢さんは四条河原町通西入るの織物問屋の火の見櫓にいる。隣には井上さんの姿も確認できる。

「もう『天井桟敷』の中に入って、今寛いでいるところ。こっちもそろそろ長刀鉾が近づいてきてる」

 主人が応答する。

「おまえのかわい子ちゃんたちはまだ来てないのかい」

 井上さんが訊く。

「今のところ、まだ」

 焦った風でもなく、落ち着いた感じで主人が答える。

「こっちは岡本がもう逝っちゃったよ」

 大沢さんが主人に報告する。主人からは返答はない。おそらく関心がなく、聞いてないのだろう。

 山鉾巡行はますます熱を帯び、狂宴は盛り上がっていく。ネオ京都を取り巻く火壁に登ってそこから山鉾に向かって飛行してくる虚体たちがいる。飛翼背広を着て、マッハの速度で一直線に四条河原町交差点へと向かってくる。そして、そのまま四条河原町交差点の地面へと衝突する。その瞬間、号砲が響きわたり衝突地点から八重芯の牡丹花火が円蓋状に爆発する。間を置かずに次々と飛翼背広虚体たちが四条河原町交差点へと飛行衝突していく。号音が轟き、極彩色の牡丹花火が次々とその花弁を拡げていく。

「おーーい、あしたをはる」今度は村田さんの声が聞こえる。確認すると四条通りを挟んで大沢さんと井上さんがいる場所の向かいの火の見櫓に村田さんを発見する。しかし、その虚体はいつものねずみ男ではなく、普通の人の姿である。が、その顔には黄色のダイナマイトのようなものがぐるりと巻き付かれ表情を窺い知ることはできない。

「気狂いピエロだよ。機具類じゃなくて基地害だからな」

 村田さんのやけに明るい昂揚した声が響く。それはなおも続く。

「田中に伝えてくれ。第四世代のやつ、手に入れたって。『理性』ってんだ。とにかくすげえーーって。すげえーーんだよ」

 どうやら村田さんは第四世代脈楽を手に入れ、現在負荷中みたいだ。だからあんなに躁状態にあるわけだ。なんだ。

「おまえら、みんなよく聞け!おれはこっちとあっちを同期させてやる。いいか、おれはあっちで自爆する。自爆祭の実体化だ、ぐははは、みてろよ!」

 村田さんが叫ぶ。山鉾巡行を楽しんでいる虚体たちから次々と反応が返ってくる。「いかがわしい天使が舞い降りてきましたよ」「基地害ひとり発見」「薬中毒の天使かよ、終了」「おーーい誰か警察呼べ」「『理性』って、おまえ」「神降臨か?」「神展開希望」「この祭りの際になんだよ」「祭りだ祭りだ。基地害参加迷惑千万」「おまえら、神に向かってその態度は何だ」「あちらの山鉾巡行見てるやつ、実況よろしく」「誰か実況しろよな」「虚言だよ、統合失調者の戯言だ」「気狂いピエロの監督はジャン=リュック・ゴダール。これ豆知識な」「ベルモンドよりアンナ・カリーナが自爆するのが見たい」「警察に通報しました」コンコンチキチキコンキチガイ コンコンチキチキコンキチガイ コンチキコンチキコンキチガイ コンチキコンチキコンキチガイ キチガイキチガイコンキチガイ 囃子方たちの歌い声がますます激しくなり狂気じみて来る。いしかねぬるにくちみほそ のせもたむるはをえれよら あめつちほしそらやまかはみねたに くもきりむろこけひといぬうへすゑ 統御を失った手習い歌が出鱈目に歌われていく。「村田を発見!」主人の甲高い声が響きわたる。「おいおい、ほんとかよ」大沢さんの反応が聞こえる。「向かいの旧高島屋百貨店の屋上にいる。こっちに手を振ってるよ」主人があちらの様子を実況する。「って、田中、おまえ、村田の実体を知ってるのかよ」井上さんが訝しむ。「ああ、脈楽関係で実際に会ったことがあるんだ」主人が答える。「で、どんな格好してるんだよ。そちらの村田は」大沢さんが訊く。「格好って、普通だよ。Tシャツにジーンズ。あっ、鞄から黄色い棒の束を取り出して顔に巻き付け始めた」こちらの様子がわからない主人は何も疑問を挟むことなく解説する。「おいおい、同期してるよ、同期してるよ」井上さんが困惑しているのか喜んでいるのかわからない感じで声をあげる。「うおーー、神降臨」「おまえら、神が降臨なされるぞ」「マジだよ、マジ。基地害がマジだよ」「通報しろ、早く通報しろ」「丸竹夷二押御池姉三六角蛸錦だ。まいったか」「山鉾巡行、今京都チャンネルで実況中だ。皆集中しろ」「有料だから見れねえ」「貧民、乙」「勝ち組、実況よろしく」周囲から怒濤のごとく様々な反応が返ってくる。悪鬼羅刹暗澹冥濛異端邪説婬虐暴戻怨徹骨髄鬼哭啾啾猜忌邪曲屍山血河酔生夢死魑魅魍魎佞悪醜穢咆哮搏撃無慙無愧妖姿媚態六道輪廻。岡本さんの呪文の声が耳元で聞こえる。逝ってしまった岡本さんはわたしの月の上に乗っかかって祭りを高みの見物と洒落ている。一度逝ってしまった虚体は二度と逝くことはできない。しかし、こうやって復活して見物するのは許されている。長刀鉾が四条河原町交差点へと近づいてくる。ここでは巡行最大の見せ物、辻回しが行われる。相変わらず空には多くの花火が舞い、山鉾からは『愚鈍な稚児』と囃子方が奏でる電子囃子の噪音が放たれている。コンコンチキチキコンキチガイコンコンチキチキコンキチガイコンチキコンチキコンキチガイコンチキコンチキコンキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイ。長刀鉾が四条河原町交差点の中に入り、立ち止まる。いよいよ辻回しが始まる。「おまえら、いよいよだ。辻回しはこっちもあっちもうまく同期してるぞ。それじゃあ、おれがこの同期を完成させてやる」村田さんの声が響く。「逝けえーー!」「うほっ、こりゃたまらん」「鳥肌」「さぶいぼ」「神展開来たああ」「ただの神が来ました」「おれも死ぬう」「基地害やで」「あっちの実況よろしく」「実況だ実況だ」「こっちもいよいよ辻回しが始まる。村田がなんか喚いている。聞こえない」主人の声だ。「口上。われは気狂いピエロ。今とても気持ちがいい。大気圏をとんでいるような感じ。おまえら、気持ちよすぎるぞ。だからおれは逝く。おまえらより先に逝く。あばよ、おまえら。じゃあ、逝ってきます。逝ってきまーーす」顔に黄色のダイナマイトを巻いた村田さんの虚体が火の見櫓から辻回し中の長刀鉾めがけて宙を舞う。「村田が顔に黄色の棒を巻き付け始めた。あっ、そんでそのまま走って屋上の囲いに登った」村田さんの虚体は宙で三回転して長刀鉾の屋根に舞い降りた。着地は見事に成功。そのまま長刀鉾の大長刀へと向かってよじ登り始める。「あっーー、村田が飛び降り、ちょっ、おま、おい」狼狽した主人の声が響く。大長刀を掴んだ村田さんの顔に巻き付けたダイナマイトが轟音をあげて爆発する。


  みつかった

  なにが

  真実が

  海にとけこむ

  太陽が


 一瞬の静寂が祭りを包む。自爆花火はのんでいないのか花火は咲かない。村田さんの白色の脳髄が周囲に飛散している。長刀鉾は微動だにしない。「そちらはどうなった」「神は舞い降りたか」「実況どうした」「神は降臨なされたのか」「天使は堕ちたか」「おーーい、エロい人、実況お願いします」「神は死んだ」「基地害どうなった」「警察に捕まったか」「おーーい、答えろ、馬鹿」「みんな死んでしまえばいいんだ」野次が主人に浴びせかけられる。主人から返答はない。。再び、『愚鈍な稚児』と囃子方たちの演奏が始まる。まるで何もなかったように辻回しが行われていく。曳子が音頭とりの扇子にあわせ、目一杯鉾を引っ張る。じりじりと軋む音を発しながら長刀鉾が四条河原町交差点を回転していく。「こちら、あちらの祇園祭実況しますよ」正体不明の声が聞こえる。「きたきたきたあーーー」「待ってました」「これぞ神展開」「神が再び舞い降りた」「誰でもいいから早くしろってんだ」「早漏野郎は黙ってろ」「おまえら、落ち着け」「で、あんた誰」「で、どうなった」「教えて、エロい人」いってきまーす。いってらっしゃい。ただいま。おかえり。岡本一樹です。元気です。吉田康子です。リュウマチです。こんな重大な時に限って岡本さんが狂い出す。いや、わたしの上で呟いているだけだ。なんとかこのままでいてほしい。「えーーと、わたし、今、四条河原町の東北角にいるんですけど、さっき顔になんか板みたいなものを巻き付けた人がビルの屋上から飛び降りてきました。で、そのまま長刀鉾の傍に落下してしまいました。足と腕が変に捻れて横たわってます。頭からは真っ赤な血が溢れ出しています。今、観客たちは大騒ぎです。辻回しも中断されてます。警官が落下した人の周りを取り囲んで、今、布を被せています。救急車のサイレンの音が聞こえてきました」あちらの正体不明の人が息を切らしながら実況する。「爆発は?」「おい自爆したんじゃないのか?」疑問の声があがる。「はあーー?爆発って、何言ってんですか」あちらから素っ頓狂な声が返ってくる。「ざまあ(笑)」「神は堕ちた(笑)」「ざまあざまあざまあねえ」「惨」「何やってんだか」「嗚呼」「これを無駄死にってんだ」「おいおいそもそもダイナマイトだったんかいね」「水泳の飛び込みの練習したんだろ」「せめて大長刀に突き刺されよ」「お悔やみ申し上げます(笑)」「最悪展開来たあ」「肩すかしは相撲の決まり手。これ豆知識な」「最悪、小百合ちびっちゃう」「おまえら、山鉾巡行途中中止だぞ。そんだけでも快挙だってんの」「偽神を敬え」「他人事ではない」「他人事だよ。たにんごとっていうなよ。ヒトごとだからな」様々な反応がこちらの山鉾巡行に渦巻く。いってきまーす。いってらっしゃい。ただいま。おかえり。岡本一樹です。元気です。吉田康子です。リュウマチです。吉田康子です。リュウマチです。吉田康子です。リュウマチです。岡本さんがその狂気を加速させていく。わたしの上から飛び降り、ネオ京都の町中へと降下していく。その姿が群衆の中に埋もれて消える。何かしでかすはずだけどわからない。狂った岡本さんを制御できるのはわたしだけだが、今そんな暇はない。岡本さんには狂っていてもらおう。それでいいはずだ。そんな気がする。確かにそうだ。ということらしい。話聞いていないでしょ。それはない。てかありえない。狂え狂え狂え狂え、この虚体どもよ。「見物客が皆、警官に誘導されて交差点から離れていきます。わたしもその人並みに押されてもう現場が見えなくなりました。どうやら山鉾巡行は中止のようですよ」正体不明が連絡する。「なんで、面白くないの」「意気消沈ですね」「そこで神がすっくと立ち上がり一言」「ないって」「ないよ」「あり得ん」「死ね」「即死だよ」「アスファルトさんが大活躍だ」こちらの山鉾巡行はさらに勢いを増していく。見物客と自爆古手舞の舞手の熱気が混じり合いそこに『愚鈍な稚児』と囃子方の混沌とした電子音楽が交錯しネオ京都は狂気を発汗していく。「田中はどうしたんだ?『あしたをはる』よ」大沢さんがわたしに訊いてくる。わたしに訊かれてもあちらの世界のことはわたしにはわからない。「あの、それより岡本さんが発作に襲われて町中へ行ってしまいましたが」わたしは申し訳なさそうに報告する。「岡本?いいからほっとけ」井上さんがあっさりと切り捨てる。何体の虚体が岡本さんの金属バットの犠牲になるのだろう。確かにどうでもいいといえばいい話だが。「田中からの実況もないし、退屈だからそろそろおれたちも逝くか」大沢さんが井上さんに話しかける。「ああっ、そろそろ逝っちゃおうか」井上さんが同意する。先頭の長刀鉾は河原町三条を通り過ぎ、平安神宮へと向かっている。あちらの山鉾巡行は河原町御池から御池通りを西へと新町まで巡行し終わるが、こちらの巡行は河原町三条から神宮道へと向かい平安神宮を通って岡崎の六勝寺を経由し丸太町通りを西へ大内裏まで巡行し朱雀大路を南下し羅城門で終わるという丸一日を要する長距離巡行である。大沢さんたちのいる織物問屋の前にはちょうど白楽天山が通り過ぎようとしている。まずは大沢さんが口上を述べる。「大沢幹生と申します。人生の師匠は升田幸三です。うんこは嫌いです。それはともかく逝ってきます。逝ってきまーーす」面倒くさそうに声をあげ、既製品の自爆花火をのみ込み火の見櫓から跳躍する。未確認飛行物体の型をした立体的な型物花火が爆発する。既製品にしてはなかなか凝っていると感心する。次に井上さんが続く。「われは第十使徒サハクィエル。百億の人類を殲滅せん。負けちゃだめだ、負けちゃだめだ。何度でも言います。人類はたったひとりの狂気によって滅びるのです。それでは逝ってきます。逝ってきまーーす」自作の自爆花火をのみ込み宙に舞う。爆音とともに絨毛突起を付けた単細胞生物のような橙色花火が開く。特異な形だが、これが井上さんのこだわりなのだと思う。絶対にそうだ。長刀鉾が平安神宮の大鳥居に到着する。大鳥居の上には二日前の火球襲来により壊滅してしまったがそこから復活した新撰組の隊士たちがいつものダンダラ模様を白く染め抜いた浅葱色の羽織を纏い、右手には赤地に白字で「誠」を染め抜いた隊旗を掲げて立っている。わたしの好きな佐々木愛次郎の姿も見える。長刀鉾がちょうど大鳥居の下を通過する際に、新撰組恒例の串刺し儀式が行われる。隊士がひとりひとり順番に長刀鉾の大長刀に向かって落下し串刺しになるのだ。先頭を切って、局長の土方歳三がお腹を露出して大長刀に向かって飛び降りる。音もなく出血もなく花火もなく静かに土方歳三が大長刀に串刺しになる。次から次へと新撰組の隊士たちが大鳥居から舞い落ち大長刀へと串刺しになっていく。佐々木愛次郎も飛び降りる。どうでもいいけど、少しは胸が締め付けられるような気がする。そんな感じだ。「おーーい、『あしたをはる』、こっちだこっちだ」主人がわたしを呼ぶ声が聞こえる。こちらに帰ってきたようだ。やけに浮かれた声色だ。見ると主人は法勝寺の八角九重塔の上にいる。へらへらと笑いながらわたしの方へ大きく両手を振っている。おそらく主人は脈楽を負荷しているに違いない。きっとそうだ。「おい、田中、いままで何してたんだよ」いつの間にか大沢さんと井上さんがわたしの月の上に乗っかかっている。わたしは座りがいいように満月から三日月へと形を変える。「実況中継はどうなったんだよ」井上さんが主人に文句を投げかける。「すまん、すまん」主人がへらへらのままで素直に謝る。「で、三位一体計画はどうなったんだよ」大沢さんが急かすように訊く。「ええっと、心臓の綾香は村田の騒ぎで待ち合わせ場所まで近づくことができなくて、またの機会ってことで、肝臓の有香はまったく連絡なしでおまえ殺すぞって。腎臓の彩乃は来てくれた」「来たあああああ」井上さんが大声をあげる。「来たってひとりだけだよ」大沢さんが冷静に反応し、主人に問いかける。「で、その腎臓の彩乃との間に共鳴現象は生じたのかよ」「あーー、よくわからない。状況が状況だろ。村田のこともあって」主人が相変わらずへらへらとしたままでそれでも少しは申し訳なさそうに答える。「まあそうだろうな」大沢さんがさも当然という風に返す。そりゃそうだ。長刀鉾が八角九重塔の前にさしかかる。主人が口上を述べる。「田中宏だあ。今、とんでるみたいだあ。かっぱえびせんが食べたい。結局ぼくらは生きてるみたいだあ。じゃあ逝ってきます。逝ってきます。逝ってきまーーーーーす、だあああ」既製品の自爆花火をのみ込み主人が八角九重塔から天空へと舞う。顔が締まりなく笑っている。なんて気持ちよさそうなんだ。アフロヘアーの頭から地面へと落ちていく。爆発しない。そのままぐしゃっという鈍い音を発して地面にぶつかる。虚体だから骨折するわけでもなく内臓破裂するわけでもない。「不発じゃん」不満げに呟きながら主人が起き上がる。「ざまあ」「ぷっ、田中」大沢さんと井上さんが苦笑する。不発の場合は爆発するまで再挑戦できるのがこちらの祇園祭の習わしだ。主人はそそくさとよれよれの足取りで再び八角九重塔の塔頂に登り始める。「おーーい、慌てんなよ」大沢さんが声をかける。主人は聞いてない風だ。おそらく聞いていない。大沢さんと井上さんはわたしの上で将棋を始める。岡本一樹です元気です吉田康子ですリュウマチです。幽かに岡本さんの声が聞こえる。姿は認識できない。相変わらず狂っているのだろうか。主人が八角九重塔の上に再び立つ。足下が覚束ない。大沢さんと井上さんはそんな主人にまったく関心を示さず将棋に熱中している。祭りは続く。仕事は終わらない。祭りは続く。コンコンチキチキコンチキチンコンコンチキチキコンチキショウコンコンチキチキコンキチガイコンコンチキチキコンキチガイコンチキコンチキコンキチガイコンチキコンチキコンキチガイキチガイキチガイコンチキコンチキチキチキマシンコンチキコンチキコンチキチン

                               (了)


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あしたをはる 古栗修 @mmmetaliccc

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