第5話 名もなき灯火
旅が終わったのなら、自分に何が残っているのか。
そう問うたはずの心には、まだぽっかりと穴が空いていた。
森を抜け、野を越え、誰とも言葉を交わさない日々が続く。
夜の冷たさに身を縮め、パンの欠片をかじる度、思った。
──俺は、これから何を糧に、生きていく?
クラウスの言葉は、今でも胸に残っていた。
「運命とは、選ばれた者にだけ与えられる道だ」
あれは断罪だった。けれど、どこかで──違うと、思いたかった。
◆
山を越え、谷を渡り、見知らぬ村にたどり着いたのは、空が鈍色に染まり始めた夕暮れだった。
村は静かだった。大きな街のような活気はない。けれど、そこには人が日々を営む匂いがあった。
草の香り、煙の匂い、窓から漏れる灯り。旅を続けていたエイルの心に、それらは妙に沁みた。
村の外れ、石垣の向こうから、ひときわ力強い音が響いていた。
カン、カン、と鋼を打つ音。
火花の弾ける音に誘われるように、エイルは音の方へと歩いた。
小さな鍛冶場だった。木の看板には文字すらなく、ただ鈍く光る斧の意匠だけが焼き付けられている。
覗き込んだ鍛冶場では、屈強な老人がひとり、真っ赤に染まった鉄塊に槌を振り下ろしていた。
その姿は、まるで儀式のようだった。
鉄と火と、自らの魂と向き合う孤独な時間。
それを見た瞬間、エイルの足が止まった。
──戦ってはいない。だが、この人は“闘って”いる。
その時、自分の中の何かが、小さく動いた気がした。
「……弟子にしてください」
気づけば、扉を叩いてそう言っていた。
◆
老人は、エイルをまっすぐに見た。
鋼のように無駄のない眼差し。
その視線に、一瞬、胸がすくむ。
「俺はお前の親でも師でもない。教える義理もねぇ」
低く唸るような声。
けれど、完全な拒絶ではなかった。
「……やらせてください」
言葉は短く、強く。どんなに泥を被っても、後ろには戻らないという覚悟を込めた。
そしてその一言のあと、老人は目を伏せ、火床に目を戻した。
「なら明日の朝、薪を割って炉を焚け。話はそれからだ」
それが、鍛冶場での日々の始まりだった。
◆
初日は、火の管理だった。
次は道具の掃除。
次は炉の灰をかき出し、次は水桶を満たし、次は木槌の柄を削り直した。
“鍛冶”という仕事にたどり着くまでに、学ぶべきことが多すぎた。
老鍛冶師は何も教えなかった。
だが、彼の行動そのものが教科書だった。
槌の握り方、焼き入れの温度、鋼に注がれる沈黙の眼差し。
それらを食い入るように見つめ、真似し、失敗し、手を切り、また繰り返した。
火の加減を間違えて火傷したこともあった。
刃の形を写そうとして鋼を割ったこともある。
だが、そのたびにエイルは悔しさを堪え、静かに灰をかぶったまま作業を続けた。
いつしか、村の子どもたちが彼の姿を遠巻きに眺めるようになった。
小さな手が扉の隙間から差し入れてくれた干し肉を、エイルは礼も言えずに受け取った。
その目の奥には、いつか誰かの役に立てるという、淡い灯があった。
◆
ある夜のこと。
作業が終わり、火床の熱が徐々に冷めていく中、老人がふと呟いた。
「剣は斬るためにあるんじゃねぇ。命を返さずに済ませるためにある」
火花の名残が、エイルの胸で小さく灯った。
それは、かつての仲間の誰からも聞けなかった言葉だった。
剣とは、命を奪う道具ではなく、守るための祈り。
その在り方に、自分の居場所を重ねることができる気がした。
──俺は、戦うためにここに来たんじゃない。
──誰かが、生きて戻れるように。
それこそが、自分に課された運命なのかもしれない。
誰に選ばれなくてもいい。
誰の名にも残らなくていい。
だが、自分で選んだこの道は、きっと何かを変えられる。
そう思えた夜だった。
エイルは鍛冶場の片隅に腰を下ろし、煤けた天井を見上げた。
そこには星はなかった。
けれど、炎の余熱が、まだこの胸の奥で、赤く灯っていた。
──運命は、与えられるものじゃない。
──選び取るものだ。
そんな確信にも似た囁きが、心の奥底で、静かに息づいていた。
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