第5話 名もなき灯火

 旅が終わったのなら、自分に何が残っているのか。

 そう問うたはずの心には、まだぽっかりと穴が空いていた。


 森を抜け、野を越え、誰とも言葉を交わさない日々が続く。

 夜の冷たさに身を縮め、パンの欠片をかじる度、思った。


 ──俺は、これから何を糧に、生きていく?


 クラウスの言葉は、今でも胸に残っていた。

 「運命とは、選ばれた者にだけ与えられる道だ」


 あれは断罪だった。けれど、どこかで──違うと、思いたかった。



 山を越え、谷を渡り、見知らぬ村にたどり着いたのは、空が鈍色に染まり始めた夕暮れだった。


 村は静かだった。大きな街のような活気はない。けれど、そこには人が日々を営む匂いがあった。

 草の香り、煙の匂い、窓から漏れる灯り。旅を続けていたエイルの心に、それらは妙に沁みた。


 村の外れ、石垣の向こうから、ひときわ力強い音が響いていた。


 カン、カン、と鋼を打つ音。

 火花の弾ける音に誘われるように、エイルは音の方へと歩いた。


 小さな鍛冶場だった。木の看板には文字すらなく、ただ鈍く光る斧の意匠だけが焼き付けられている。

 覗き込んだ鍛冶場では、屈強な老人がひとり、真っ赤に染まった鉄塊に槌を振り下ろしていた。


 その姿は、まるで儀式のようだった。

 鉄と火と、自らの魂と向き合う孤独な時間。

 それを見た瞬間、エイルの足が止まった。


 ──戦ってはいない。だが、この人は“闘って”いる。


 その時、自分の中の何かが、小さく動いた気がした。


「……弟子にしてください」


 気づけば、扉を叩いてそう言っていた。



 老人は、エイルをまっすぐに見た。

 鋼のように無駄のない眼差し。

 その視線に、一瞬、胸がすくむ。


「俺はお前の親でも師でもない。教える義理もねぇ」


 低く唸るような声。

 けれど、完全な拒絶ではなかった。


「……やらせてください」


 言葉は短く、強く。どんなに泥を被っても、後ろには戻らないという覚悟を込めた。


 そしてその一言のあと、老人は目を伏せ、火床に目を戻した。


「なら明日の朝、薪を割って炉を焚け。話はそれからだ」


 それが、鍛冶場での日々の始まりだった。



 初日は、火の管理だった。

 次は道具の掃除。

 次は炉の灰をかき出し、次は水桶を満たし、次は木槌の柄を削り直した。


 “鍛冶”という仕事にたどり着くまでに、学ぶべきことが多すぎた。


 老鍛冶師は何も教えなかった。

 だが、彼の行動そのものが教科書だった。

 槌の握り方、焼き入れの温度、鋼に注がれる沈黙の眼差し。

 それらを食い入るように見つめ、真似し、失敗し、手を切り、また繰り返した。


 火の加減を間違えて火傷したこともあった。

 刃の形を写そうとして鋼を割ったこともある。

 だが、そのたびにエイルは悔しさを堪え、静かに灰をかぶったまま作業を続けた。


 いつしか、村の子どもたちが彼の姿を遠巻きに眺めるようになった。

 小さな手が扉の隙間から差し入れてくれた干し肉を、エイルは礼も言えずに受け取った。

 

 その目の奥には、いつか誰かの役に立てるという、淡い灯があった。



 ある夜のこと。

 作業が終わり、火床の熱が徐々に冷めていく中、老人がふと呟いた。


「剣は斬るためにあるんじゃねぇ。命を返さずに済ませるためにある」


 火花の名残が、エイルの胸で小さく灯った。


 それは、かつての仲間の誰からも聞けなかった言葉だった。


 剣とは、命を奪う道具ではなく、守るための祈り。

 その在り方に、自分の居場所を重ねることができる気がした。


 ──俺は、戦うためにここに来たんじゃない。

 ──誰かが、生きて戻れるように。


 それこそが、自分に課された運命なのかもしれない。


 誰に選ばれなくてもいい。

 誰の名にも残らなくていい。


 だが、自分で選んだこの道は、きっと何かを変えられる。

 そう思えた夜だった。


 エイルは鍛冶場の片隅に腰を下ろし、煤けた天井を見上げた。

 そこには星はなかった。

 けれど、炎の余熱が、まだこの胸の奥で、赤く灯っていた。


 ──運命は、与えられるものじゃない。

 ──選び取るものだ。


 そんな確信にも似た囁きが、心の奥底で、静かに息づいていた。

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