遥か彼方のあの島へ
夏草枯々ナツクサカルル
遥か彼方のあの島へ
夜の海が静かな事、それが唯一この街の良い所だ。
リゾート地からも観光地からも遠い田舎の海岸に電灯なんか無い。だから僕らは星明かりだけを頼りに
ふいに暖かく湿った海風が僕の頬を舐めるように顔の横を通り過ぎていった。それと同時に磯の匂いが強く香る。生き物の腐った匂いと塩の香りだ。
「あの部屋にいたら危ないよ」
僕の後ろを歩くお節介さんが突然、部屋に合鍵を使って入ってきて、あっという間に連れ出された僕は何故だかいつの間にか夜の海を歩く事になっていた。彼女は虫の知らせでやってきた、と言っていたが、こんな事をしている暇は僕にはない。明日も朝が早いのだ。実家を追い出され、一人暮らしをする事になって住む場所が学校から遠くなってしまったせいだ。学校なんて行きたくないけれど、将来の事を考えたら行かなくちゃいけない。
ため息をついた僕の足元へと波が伸びてきて泡立ちながら去っていく。波に巻き込まれた貝殻が踊るように海の方へと転がっていった。
それからしばらく歩いて僕は立ち止まる。聳え立つような黒いコンクリートの防波堤。この海岸の端が砂浜の先に見えたからだ。
僕は仕方なく寂しい海の方を眺める事にする。
水平線の彼方に見える白い点は漁船だろうか。これから登る星にしては明るすぎるので違うと思うけど、船のシルエットも辺りが暗すぎて見えない。
(ここから遥か彼方、あの白い点のさらに先には何があるんだろう)
暗闇の先、星空の下、太平洋に続く海の入り口。
この砂浜から海を渡った先にはきっと年中暖かい南国の島がある。大らかな人たちが昔ながらの生活をしてのんびりと暮らす。大きな企業も大学も、もはや学校すら無くて、釣りと畑仕事で日々を暮らす。
どんな生活をしていようと決して後ろ指を刺したりしないし、噂話で人を娯楽として消費するような事もない。あっという間に噂でみんなに広がる狭いコミニュティと当たり前以外を絶対に許さない閉鎖的な考え方から真逆のような広くて自由な島。
そんな島にきっと着く……なんて、無意味な妄想をしている時だけ、この体の、この頭の重さから僕は逃げ出せる。
まるで海面を揺蕩う藻のように、この重力から逃れて、あぁこのまま目を瞑ったら、遙か彼方の島についてないかなって……思う。
(……そうだ)
僕はローファーと一緒に靴下を脱いで砂浜に並べてから海へと進む。
少し砂に沈んだ足の指の隙間を海水が通り抜けていって、こそばゆい。さらに一歩進むと、足の裏に貝殻を踏んだ感覚がある。固くて鋭く、でも足裏が切れるほど頑丈じゃない。
くるぶしの辺りまで波が来て、冷たくゾワリと鳥肌が立った。
「二人でさ、このままどこか遠くへ行っちゃおうか」
ふいに背後から声をかけられる。えっと振り返る僕を丸い大粒の宝石みたいな黒い瞳が見ていた。彼女は艶やかに光る薄い桃色の唇に微笑を浮かべ、後ろで手を組みこちらに首を傾げている。前屈みになって
「二人、腕も足も絡ませ抱き合いながら沖まで出よう」
彼女は僕の手を取り引っ張り海のさらに深い所まで進んでいく。海面は膝のあたりまで来ていた。制服のズボンは重たく濡れてふくらはぎに張り付いている。
「それでやがて私たちを知らない島にたどり着く」
波が太ももの真ん中くらいまで来た。海底から足が離れそうになりながら僕らユラユラと手を取り合って波に揺られている。
ふいに僕は先程までいた部屋を思い出す。つま先立ちで椅子の上に立っていた、あの状況と今はよく似ている。
「私たちの罪を許してくれる、そんな島に」
やがて、ゆっくりと彼女が僕の方へと振り返り目を細めて柔らかく微笑んだ。星に照らされた長いまつ毛が煌めいて見える。
僕は彼女の腕を引いて自分の胸の方へ寄せる。体と体の間に挟まってくる冷たい海が鬱陶しくて彼女の細くて柔らかい体をいつも以上に強く抱きしめる。僕の腕の中で彼女はくすぐったそうに笑って「苦しいよ」と言った。
僕は彼女の茶色の長い髪に頬を擦りつけながら目を瞑る。髪の一本一本が僕の頬を撫でてくる。海の匂いを押し退けて彼女の甘い香りが僕の頭蓋の中を満たす。
「君がもし遥か彼方の島へ行くなら、お姉ちゃんも一緒に行くからね」
僕に一番効く脅しをしてから彼女は僕の背中に腕を回して胸に鼻先を擦り付けた。彼女は今、その瞑った目の縁から海へと続く線を描いている事に気がついているのだろうか。
僕は彼女の頭部から目を逸らし黒い海面を覗く。揺れる波の狭間に自分の顔を見つけた。
このまま後ろへ体を倒し海の底へ二人で沈めたら、あぁどれほど、この罪の重さから逃れられる事だろう。
僕は目を閉じて絶対に行くことが出来なくなった遥か彼方のあの島の事を思った。
遥か彼方のあの島へ 夏草枯々ナツクサカルル @nonnbiri
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