K.10「在宅勤務」
「……か……」
思わず名前を呼びそうになり、慌てて口を閉じる。
朝からこんな所で弾いてるなんて、何か事情があるのかもしれない。
(と、とにかく帰ろう。気付かれないように)
音を立てないよう静かにその場から離れ、僕は急ぎ足で河川敷を上がりコーポへ戻った。
エアコンを切って外出したので部屋の熱気がすごかったが、預かり物である楽譜がある以上、窓を開けたまま外出はしたくないので仕方ない。
ひとまず楽譜が置いてない寝室の窓だけ開けると、ピンクの手すりにもう雀達はいなかった。
汗がしみ込んだTシャツを脱ぎながら風呂場へと向かい、脱いだ服は洗濯機に投げ入れ、シャワーの蛇口をひねる。
シャワーヘッドから体に当たった水は相変わらず温かったが、まだ朝だからか少しずつ冷たくなり、それが心地よく体の熱を冷ましてくれて全身の力が抜けていく。
シャワーを出た後、ドライヤーで簡単に髪を乾かしたが、それでもまだ時間は9時を過ぎたところで、かなり時間が経ったように思えたのは気のせいだった。
冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出して、キッチンで立ち飲みする。
食卓がある部屋は楽譜があるので、飲食禁止にしている。
ふぅぅぅ。
冷えた麦茶が内臓に染みわたり、やっと落ち着いた気分になる。
(やっぱりあれは見間違いではなく
改めて思った。
趣味で弾いているとしても、相当練習をしないとあんな音色は出せない。
思わずこの指がつられてしまったほどの、とびきり美しいムーンライトセレナーデだった。
「もったいないな。あんな所で誰にも聞かせずに弾くなんて。まぁでも人の事だ、今朝見た事は忘れよう。在宅になって顔を合わせることも減るんだし」
そして冷蔵庫を開けてペットボトルをしまおうとして、4本あるはずのペットボトルが手元の分を合わせても3本しかないことに気が付く。
「え? あれ?」
毎日寝る前、ヤカンで作っておいたパックの水出し麦茶を500mlのペットボトルに詰め替えていて、今朝散歩の時に1本持ち出したから冷蔵庫には3本あるはずなのに1本足りない。
「あ!」
思い出した。遊歩道に座った時だ。
あの時地面にペットボトルを置いて、そのまま置き忘れてしまった。
「しまったなぁ。ゴミを増やしちゃったか。それも飲みかけのを……」
拾って処分してくれる人のことを考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「今度から気を付けよう……」
僕は冷蔵庫の扉を閉めると、食卓に座ってスマホを出した。
10時までまだ30分以上時間がある。
いつのもように動画サイトを開き、検索画面に並ぶ楽譜の曲のタイトルを眺めた。
「わが祖国かな。まずはこれを終わらせたいし」
そしてサイトを押そうとした指が、寸前で止まる。
頭にふと、違う曲名が思い浮かんだからだった。
ームーンライトセレナーデー
「だから違うだろ」
僕は自分に呆れながら、わが祖国のサイトを指先で押した。
※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※
「さてと」
まもなく10時になる。
僕は床に並ぶ楽譜の前に立った。
「他に置くとこって言ってもなぁ」
事務局では、整理されていた楽譜は曲毎に大きな封筒に入れて立ててあり、それがラックに並んでいた。
だがこの部屋にはそんな物は一切なく、丁度いい棚や台もない。
「しまったなぁ。あの時は湿布の事しか考えてなかったから置場所まで気が回ってなかった」
そこに真琴さんからスマホに着信が入る。
「もしもし。おはようございます」
『おはよー航青君。今日もよろしくね』
相変わらず真琴さんの声は明るかった。
「僕に電話なんて大丈夫ですか? 麻里ちゃんは」
『平気平気。麻里は事務所。久しぶりに
「そうですか」
今朝遊歩道で見かけたのは8時頃だから、あの後出社したのか。
『でね、昨日の夜父から電話があって楽譜だけ運んだって伝えたら、それだと置場に困るだろうからちゃんとするように言われちゃったんだけど、今どんな状況?』
真琴さんのお父さんはお見通しだった。
さすがオーケストラの事務局だ。
「実はその通りで、僕もどうしようかと思っていたところでした」
『やっぱりそうなんだ。ごめんね、気が付かなくて。じゃぁちょっと待ってて。少ししたらそっちに色々運び込むから』
「運び込む?」
『1部屋を作業部屋にしちゃいましょ。じゃぁね』
「え? 真琴さん? 真琴さん!?」
電話は切れた。
「しちゃいましょって、……え、どういう事?」
すると1時間もしない間にピンポーンとチャイムが鳴り、玄関モニターには真琴さんと20歳前後に見える若い男性が2人立っている。
「3人?」
訝しみながら扉を開ける。
「お疲れ様。ごめんね、お待たせ」
「いえ、お待たせではないんですけど、あの、これは一体」
「この人達もオケメンバーで夏休み満喫中の大学生。連絡したら時間あるって言ってくれたから連れて来ちゃった」
2人が「ども」と小さく頭を下げたので、僕も「こんにちは」と頭を下げる。
「じゃぁちょっと入るわね。お邪魔しまぁす」
その言葉を合図に男性2人も入って来ると、床に置かれた楽譜を両手で抱えて寝室に運び入れる。
そして次に食卓を寝室へ、食器棚は外へ運び出すと、長机1本と4段本棚を2つ、さらに楽譜が入る紙の封筒と縦型のトレーなど、どれも見覚えある物がどんどん運び入れてくる。
途中、手伝おうと思い声を掛けたが、真琴さんから「怪我が悪化するといけないから」と止められ、ただ見ているだけだったのが心苦しかった。
2人の動きは無駄が無く、現場監督をしている真琴さんも見守るだけで済んでいる。
「すごいですね、この2人」
「でしょ。事務局の引っ越しの時もこの2人が中心でやってくれたんだけど、ステマネさんだからこういうの得意みたい」
「ステマネさん? あぁなるほど」
ステマネとはステージマネージャーのことで、オーケストラの要とも言えるようなポジションの人だ。
指揮台から楽器の配置を考えて椅子や譜面台を並べたり、舞台袖の扉の開閉もステマネの仕事だ。
「事務局に来てもらってアパートの間取りを伝えたら、パパパと計算して持って行く家具を選んで積み込んでさぁ出発って感じで、ほんとすごかったのよ」
事務局?
「もしかしてですけど、これ全部事務局にあったやつじゃありませんか? ほとんど見覚えがあるような」
「あ、分っちゃった? そうよ」
……やっぱりか。
でもこの本棚には、確か雑誌や楽譜が立ててあったはずだ。
「あの、中に入っていた楽譜達はどうしたんですか?」
「もちろん事務局にあるわよ。一旦全部出してきたの」
嫌な予感がする。
「出したってどこに?」
「長机と床」
やっぱり。
思わず眉間に皺が寄る。
するとその会話が聞こえていたのか、一人の男性が話に加わってきた。
「大丈夫です。前みたいに蹴っ飛ばしてひっくり返らないように、椅子でバリケード作ってガードしてきましたから」
「そうそう、だから今回は安全よ」
さすがステマネ。
ぬかりない。
とは言ってもこの2人には暑い中、急な呼び出して引っ越し作業みたいなことをやらせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
そしてその後10分もかからず作業は終わり、あっという間に洋室は作業部屋に変わった。
(すごい。オーケストラは何でも出来るんだな)
「あとはお好きに微調整して下さい。寝室にある楽譜だけ、お願いします」
「すご。30分もかかってないんじゃないですか」
「オーケストラはスピード命なんですよ。時間にシビアなんで」
帰り際、駐車場まで見送るためにコーポの階段を降りながら男性2人に「お礼に今度ランチでも」と声を掛けると、2人は首から下げたタオルで顔の汗をぬぐいながら、嬉しそうに「ありがとうございます」と言ってくれた。
そして駐車場にふと視線を送ると、ナンバープレート17-56の軽トラックと、真琴さんの1-27の車が並んで駐まっている。
「え!?」
思わず声が出た。
モーツァルトの生年月日は1756年1月27日。
真琴さんの車は分かっていたが、もう1台もそうなのか?
真琴さんが「すごいでしょ」と苦笑いする。
すると、運転席に乗り込んだ男性も笑いながら追い打ちをかけてきた。
「ちなみにもう1台あるんですけど、それのナンバーは626です」
626。
この数字は、モーツァルトが作曲した曲の数だ。
「徹底してますね。没年数ではなく曲数にするところが、……前向きで素晴らしいです」
「ほんとにね。でも分かりやすい数字並べられて目立つよりは全然いいかなって。この数字見てモーツァルトを連想する人なんて、まずいないから」
「……確かに」
生年月日の2台の車が走り去るのを見送ってから部屋に戻ると、本棚から2段分の縦型トレーを長机の下に移動させ、寝室にあった楽譜を空いたスペースに置く。
これでひとまず楽譜は落ち着き、時間の丁度昼時だ。
朝食が早かった分腹もかなり空いていて、今なら大盛りラーメンでも軽く食べられるように思える。
麻里ちゃんは会館にいるのが分かっているので、スーパーへ行っても大丈夫だろう。
僕は買い出しに行くと、5食パックのインスタントの袋めんと生卵を買い、部屋に戻って2袋分のラーメンと作り、寝室に運ばれた食卓で食べた。
ひと部屋に家具がキュッとした感じが大学の寮を思い出させ、これはこれでリラックス出来る空間になっていて、2部屋ある洋室が仕事部屋とプライベート空間にキチンと分けられた感じが何だか嬉しく思えた。
そして寝室でしばらく休憩を取ってから仕事部屋へ向かうと、本棚からわが祖国の楽譜を数枚手に取る。
この楽譜には楽器名が書かれていて、最初のページにはフルネーム、2枚目からは略称がある。
まずはこの楽譜でどれくらい時間がかかるか、だ。
その結果から今後の進捗が図れる。
ーオーケストラはスピード命なんですよ。時間にシビアなんでー
さっき彼が言った言葉を思い出す。
「よし、気合い入れてやるか!」
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