第七章 そして、未来へ

 記録庫の扉の前に立つ四人。何とも言えない重厚な空気が、四人の中に漂う。


 扉の前に立つアレンたちの心は、緊張に満ちていた。扉は古びているがしっかりとした金属製で、表面には無数の文様が刻まれている。かつての栄華を表しているようだ。長い年月、誰の手も触れなかったのだろう。厚く積もった埃が、物語っている。


「厳重だな」


 ザックが呟く。彼の表情は冗談めかしているようでいて、その目は鋭く扉を見据えていた。指先で扉に触れ、軽く叩いてみる。


「予想以上に分厚いな。こいつをこじ開けるには、相当な力がいるぞ」


「力業は最後の手段にしよう」


 アレンはそう言って扉に一歩近づいた。ふと、微かに鼻をつく金属と焼け焦げた紙の匂いを感じる。鼻腔をくすぐるその不吉な香りに、彼の胸の奥がざわついた。


「何か、おかしくないか?」


 リーナがすかさず問いかける。


「どうしたの?」


 アレンは扉の周囲を注意深く見回した。壁の一部には焦げたような跡がある。それだけではない。扉の表面の刻印が、一部不自然に剥がれていることに気がついた。


 「誰かが、ここを通ったのかもしれない。封印を解こうとしていた痕跡がある」


 その言葉に、仲間たちの緊張が一気に高まる。


 「未来を書き換えようとする者たちでしょうか?それとも時間の監視者たちですか?」


 エリアが疑問を口にするが、この時点では誰にも分からない。


 ザックの声には、警戒とともにわずかな怒りが滲んでいた。


「そのどちらかである可能性は高い。未来の記録に関与しているなら、まず間違いなくここを狙うはずだ」


 アレンは慎重に扉に手を触れた。ひんやりとした石の感触が指先を包むが、その奥には確かに魔力の脈動が感じられた。しかし、どこか歪だ。


「封印が、完全に機能していないのか?」


 リーナが目を見開く。


「それってつまり、誰かが封印を破りかけているってこと?」


「いや……」


 アレンは眉をひそめ、さらに集中して扉の魔力を探る。すると、微かにだが、内部から別の魔力の波動が漏れ出しているのを感じた。


「もう、誰かが中にいる!」


 その瞬間、全員が身構えた。


「ちっ、先を越されたか。早くしないと、やつらに記録を奪われるぞ」


 ザックが警戒を強める中、アレンは素早く判断を下した。


「封印はまだ完全には解かれていない。けれど、このまま放っておけば、やつらが中の記録を好きにできてしまう。まずは、この扉を開こう」


 アレンは高鳴る鼓動を抑えるため、大きく息を吐く。そっと扉に手をかざし魔力を流し込むと、魔法陣に黄色い光が灯った。


 次の瞬間、大きな軋み音を立てて、扉が開いた。重々しい音を響かせながら、扉がゆっくりと開いていく。


 中から吹き出したひんやりとした空気は、まるで時間が凍りついていたかのようだ。静けさと薄闇が支配する空間が広がっている。


「開いた、わね」


 リーナが小さく呟く。彼女の声が、扉の向こうの空間へと吸い込まれるようだ。


「油断するな。何があるか分からない。記録庫の構造や罠の可能性も考慮しながら進む。無闇に突っ込めば、こちらが危険だ」


 リーナは小さく頷いた。


「分かったわ。できるだけ静かに進みましょう」


 四人は身を屈め、その隙間から記録庫の内部へと滑り込んだ。


 書架が、石の森のように並び、その奥は闇に沈んでいる。どれほど奥まで、この書架が続いているのだろうか。中には革装丁の分厚い本、黄ばんだ巻物、金属の板に刻まれた古い記録もある。統一感のないそれらは、どれも時代を超えて存在していることが一目で分かった。


「記録庫、こんなに壮大だったとは……」


 ザックがぽつりと呟く。感嘆とともに、言葉にはわずかな警戒も滲んでいた。この空間が持つ重圧感は、ただの図書館や書庫とは異なる。ここに記されたものは、今まさに生きている知識の山だ。


「すごいわね。こんなにもたくさんの記録が残されているなんて……」


 アレンはゆっくりと歩みを進める。足元に広がる大理石の床は、かつての知識人たちが歩いたそのままの姿を留めている。しかし、時間の流れは残酷だった。棚は崩れかけ、紙も風化している。そのどれもが、この記録庫が長い眠りについていた証拠だった。


 アレンは密かに息を呑んだ。


(間に合うのだろうか……?)


 扉の向こうにいた者が何者なのか、まだ分からない。しかし、急がなければいけないという胸騒ぎがしていた。


「行こう」


 短く告げ、アレンは記録庫の奥へと足を踏み入れた。


 奥に進んむほど、焦げた紙の匂いが鼻を突いた。


「くそ、ひどいな」


 ザックが、足元に散らばる書物を掻き分けながら進んで行く。まるで戦場の跡のようだった。書架の多くは倒れ、床には焼け焦げた文献の残骸が広がっている。壮麗な装飾は煤で黒ずみ、崩れ落ちた石片があちこちに散乱していた。


「まさか、ここまでするなんて……」


 リーナが呆然と呟く。その瞳には絶望と怒りが入り混じっていた。かつて幾多の学者がここで研鑽を積み、未来を見据えた研究を重ねていたはずの場所。その知識の大部分が、容赦なく消し去られている。


「計画的なものですね。この記録庫の内部。特に、奥に行くほど重要な書物が保管されていることを知っていたのでしょう」


 エリアが冷静に分析する。彼女は焼け跡に膝をつき、指先で灰をすくう。指を擦り合わせると、灰の中に微かな魔力の残滓があることを感じ取った。


「魔法で燃やされています。それも、徹底的に。どんな書物が残っていたかすら判別できないようにされていますね」


 その言葉にアレンが唇を引き結ぶ。


「時間の監視者たちなのか、それとも未来を書き換えようとするものたちなのか。いずれにしても、ここに残る知識は都合が悪かったんだろう」


 彼は焼け跡を注意深く観察しながら、未だに形を保っている書架へと進んだ。幸いにも、すべての記録が失われたわけではないらしい。半ば崩れかけた書棚の隙間に、奇跡的に焼失を免れた書物が何冊か残っている。


 「この辺りなら読めるかもしれない」


 書架の間に分かれ、それぞれ手がかりを探し始めた。


「この棚は比較的新しそうだ。ここには何が記されているんだ?」


 ザックが手を伸ばし、近くの棚から一冊の本を抜き取る。表紙の文字はかすれ読めなくなっていた。


 エリアが横から顔を覗かせ、そっと表紙に触れる。


「この本の装丁からすると、王国崩壊の前後に書かれたものかもしれません」


「王国崩壊前後か。史実であれば少し興味はあるんだがな」


 劣化した本が破れないように、慎重にページをめくっていく。乾いた音とともに、黄ばんだ紙が広がる。中には、かつて栄えた王国の歴史が記されていた。


 そこには歴史の概略が書かれていたが、核心に迫る記述は見当たらなかった。この記録庫にはもっと別の重要なものが眠っているはずだ。


「未来を知る者の記録だ。その痕跡を早く探さないと」


 アレンの言葉に、三人も真剣な表情になる。


「この場所のどこかに、きっと手がかりがあるはずよ」


 その言葉を裏付けるかのように、天井近くの壁に目を引くものがあった。


 そこには、大きな円形の紋章が刻まれていた。円の中には、絡み合う輪が二つ。永遠の輪を象徴する紋章だった。


「あの印……」


 アレンの目が鋭くなる。


「そうです。あれこそ、永遠の輪の印。永遠の輪に関する記録が、この記録庫に残されている証拠です」


 エリアの言葉を聞き、場の空気が一気に張り詰めた。


 埃を払いながら、リーナが一冊の古文書を手に取った。


「何か手がかりになりそうなものは……」


 呟きながら、記述された記録に目を走らせる。ページをめくっていくうちに、ある一節が目に留まった。


「永遠の輪……?」


 その言葉に、三人が彼女のもとに集まる。


「本当に永遠の輪について書かれているのか?」


 アレンが覗き込み、内容を確認する。


「ここよ。永遠の輪を封じた扉の鍵についての記述があるわ」


 リーナが声を落としながら指をさす。文字はかすれているが、確かにそう記されていた。


「扉の鍵か……。それは、実際の鍵なのか、それとも何か象徴的な意味を持つものなのか?」


 ザックが腕を組みながら考え込む。


「もしかすると、鍵とは特定の知識や概念を指しているのかもしれないですね。古い文献には、よく暗示的な表現が使われるていますから」


 セリアが推測を口にする。


「確かに、ただの物理的な鍵じゃないのかもしれない。何かを解き明かすための手段だったとしたら、それはいったい……」


 しかし、肝心の詳細な記述が、次のページから破り取られていた。


「誰かが、意図的に隠したのかもしれない。未来を書き換えようとするものたちかもしれないわね」


「やつらが先に記録庫にたどり着いていたとしたら、あり得る話だな」


 ザックが呟くと、四人の間に緊張感が漂う。


「まだ手がかりはあるはずです。探しましょう」


 再び四人は手がかりを探す。


 アレンが手を伸ばし、一冊の分厚い書物を取り出した。表紙は焦げ跡があるものの、内部の文字はかろうじて判読可能な状態だ。彼が慎重にページをめくると、そこには幾つもの研究記録が記されていた。


「これは、未来改変に関する研究だ」


 その言葉に、三人の視線が集まる。


「未来、改変?」


 リーナが眉をひそめた。


『未来は決定されたものではなく、解釈次第で変化する。あるいは、観測者の意識によって異なる可能性が生まれる』


 アレンが記された文字をなぞりながら、読み上げていく。そのうちの一節が、彼らの注意を引いた。


『記録の抹消ではなく、未来の解釈を変えることで可能性は無限に広がっていく』


 ザックが腕を組みながら首をひねる。


「つまり、未来は決まってるんじゃなく、見る側の意識次第で形を変えるってことか?正直、よくわからないな」


「確かに、難解な概念ね」


 リーナが深く考え込む。


「記録の抹消というのは、つまり過去を消し去ること……。そうじゃなくて、未来の出来事そのものをどう捉えるかを変えるということ?」


「でも、それって単なる言葉遊びじゃないのか?」


 アレンが腕を組み首をひねる。


「未来の記録があるのなら、それをどう解釈しようと、結局同じ結末にたどり着くような気がするけど?」


 エリアは視線を落とし、深く思考を巡らせた後、静かに口を開いた。


「それは、違います。未来は決定されたものじゃないからこそです」


「記録があるのに、決定されたものじゃないの?」


「そうです。例えば、ここにある人物に死が訪れると記されていたとしましょう。ですが、それを運命として受け入れるか、それとも何をもって死とするかを考えることで、その意味が変わるのです」


「まったく分からん。どういうことだ?」


「肉体が滅びたとしても、その人の意志や記憶が誰かの中に残り続けるなら、それは完全な死とは言えないかもしれないということです。もしくは、死が避けられないとしても、その過程を変えることで別の結果を導ける可能性があるということですね」


 アレンが深く頷いた。


「つまり、未来は出来事そのものではなく、それをどう理解し、どう受け止めるかによって変化するということか」


 ザックは黙り込んだ後、ぽつりと呟いた。


「そうであれば……未来の記録というのは、事実を客観的に記載されたものではなく、未来を知る者たちの解釈によって書かれたものってことになるな」


 書物の中に、記された名はどこにも見当たらない。まるで書き手が意図的に名を伏せたかのようだった。


「そこまでは分かりません。ですが、この書物を残した者がいることは確かです。あながち、あなたの推論も間違いではないかもしれませんね」


 エリアが複雑な表情を浮かべる。


「色々と気になることはあります。ですが、ここで強調されているのは『記録の抹消ではなく』という部分。つまり、未来を変えたい者にとって、記録を破壊すること自体は本質的な解決策じゃないということです」


「未来の可能性を操作する方法が、別にあるということか?」


 アレンの呟きに、一瞬の沈黙が訪れる。


「何のためにこの研究をしていたのかしら?」


 リーナが問いかける。


「それが分かれば困らないんだけどね」


 アレンはさらにページをめくり、研究の記述を追う。しかし、重要な部分に差し掛かると、そこには無惨にも黒く焼け焦げた痕跡が残るのみだった。


「大事なところでいつも邪魔が入るな。あと少しというところなのに……」


 アレンが強く拳を握りしめる。


「だが、これは手がかりになる。未来は解釈次第で変わる。それを利用する方法があるなら、まだ諦めるには早い」


 ザックが静かに言った。


「これ以上、記録が消される前に、調べられるだけ調べるしかないですね」


 エリアが続けた。


 「そうだね。これ以上、未来を奪われないために」


 アレンがもう一度、焼け残った書物を見つめる。その中に、まだ知らない答えが眠っていることを信じながら。


 アレンたちは焼け焦げたページの一部、切り取られたページの一部を拾い上げた。リーナの指先がかすかに震えている。先ほど発見した「鍵」に関する記述の欠落が、意図的なものなのか、偶然なのか。それすらも分からない。研究者として、研究の成果を踏みにじられることがどれほどの屈辱か。やり場のない怒りを覚えていた。その中で、一つだけ確かなことがある。


「誰かが、現在進行形で未来を書き換えようとしていますね」


 エリアが呟いた。その声には冷静な響きがあったが、わずかに滲む警戒心を隠しきれていない。


 ザックが唇を歪める。


「これじゃあまるで、俺たちは何も知らないまま踊らされてるみたいだな」


 そのときだった。


 記録庫の空気が急に重くなっていく。時の流れそのものが停滞したかのような感覚。アレンが身構えるのと同時に、天井近くの影がゆらめき、一人の男が現れる。


「あいつだ……」


 長い外套をまとい、瞳は深い闇を湛えている。


「時間の監視者、カイロス!」


 アレンがその名を呼ぶと、カイロスはゆっくりと視線を巡らせた。その眼差しには、すべてを見通すかのような威圧感がある。まるで、過去も未来も、この瞬間の選択すらも全てを知っていると言わんばかりに。


「アレン、リーナ、お前たちはその未来を選んだか。そうであれば、お前たちがここに来ることもまた、記録されていたことだ」


「どういう意味だ?」


 アレンが一歩前に出る。


「言葉の通りだ。未来はすでに決まっている。この記録庫が焼かれることも、お前たちがここに足を踏み入れることも、すべては運命の流れの一部にすぎない」


「未来が決まっているですって?そんなことあるわけない!」


 リーナが苦々しく叫ぶ。


 彼女の言葉には強い反発がこもっていた。もし未来が決まっているのなら、なぜ彼女はこうして抗っているのか。なぜ人々は自らの意志で選び、進もうとするのか。


「未来は変えられるはずよ!」


 しかしカイロスは表情を変えず、静かに言葉を重ねた。


「そう思うのは、お前たちの自由だ。だが、事実は変わらない」


 アレンが目を細める。


「つまり、俺たちがどんな選択をしても結末は同じだと?」


「そうだ」


 カイロスは頷いた。


「この世界の流れは定められている。お前たちが何をしようと、それはただの枝葉でしかない。根幹としては決して何も変わらない」


「そんな屁理屈で納得できると思うか?」


 ザックがカイロスを睨みつける。


「それなら、僕たちはただ運命というものに流されていればいいのか? 何も変わらないというなら、僕たちは何のために存在しているって言うんだ!」


 カイロスは少しだけ目を細めた。その目には一瞬の憐れみすら浮かんでいた。


「運命に抗おうとすることは、お前たちの定めだ。お前たちはやがて未来を書き換えようとする者たちと対峙することになる。それすらも、この記録には記されている。次に俺と出会った時が最後だと話したな。終わりの時が近づいて来たようだ……」


 リーナが息を呑む。


「未来を書き換えようとする者……。やはり、衝突は避けられないの?」


「予想はしていましたが、彼らがこの記録庫を……。何てことを……」


 エリアが崩れ落ちる。


 カイロスは、憐みの目で見降ろした。


「すでに決まっていることを、私は伝えたまでだ」


「待て!」


 アレンが叫ぶが、その声は届かない。


「最早、俺自身が手を下すまでもない。もうお前たちに会うこともないだろう」


 カイロスの姿は次第に薄れていき、まるで時間の波に呑まれるように消えていった。


 場に静寂が戻る。


「くそっ!」


 ザックが壁を叩く。


「既に決まっているだと。 ふざけやがって!」


「でも……」


 リーナの声が震える。


「もし、本当に未来が変えられないのなら。私たちのしていることはいったい何なの?」


「いや」


 アレンが強く首を振った。


「未来は決まってなんかいない」


「アレン?」


「確かに、僕たちがこの場所に来ることは記録されていたのかもしれない。でも、それは過去の誰かが見た未来だ。本当に変わらないのなら、僕たちのこの感情も、言葉もすべて無意味なんだろうか?そんなこと、絶対にないと思う。すべては僕たち次第だ!」


 エリアが頷く。


「アレンさんの言う通りです。観測される未来は、固定される。確かに、そんな理論もあります。ですが、逆に言えば、誰にも観測されていない未来はどうなると思いますか?」


「まだ、決まってないってことだ。カイロスがどう言おうと、僕たちはこの先を選ぶ権利がある。未来は僕たちが創るんだ」


 その場にいる誰しもが、その言葉を噛みしめた。


 カイロスが去った今、彼らには新たな問いが突きつけられている。未来は本当に決まっているのか。それとも……。


 カイロスの姿が消えた後も、記録庫には重い雰囲気が残っていた。誰もが言葉を失ったまま、その場に立ち尽くす。


 その中で、ザックは真っ先に動き出した。


「行くか。このまま俺たちが立ち止まっていても、別に何も変わらない」


「カイロスの言葉が本当なら、ここでの私たちの行動も、すべて予測されていることになる。でも、私は信じないわ。だから、今は行動しましょう」


 リーナはそう言いながら、焦げたページの切れ端を拾い上げた。そこにはかすれた文字が残っていたが、解読できるほどの情報はない。だが、それでも彼女はその破片を大切にしまった。


 エリアは記録庫のさらに奥へと目を向ける。


「記録庫の深部には、まだ残された情報があるはずです。何かが失われたとしても、すべてが消えたわけではありません」


「なら、行くしかないな」


 アレンが気持ちを入れ直す。


 四人は再び歩を進め、崩れかけた書棚を避けながら奥へと進んだ。


 記録庫の奥へ行くほどに、温度が少しずつ下がっていくのを感じる。照明の届かない暗闇の向こうに、何かが潜んでいるかのような不気味な気配……。


 突如として、奥の通路からゆっくりと影が現れた。


 黒地に赤い紋様が刻まれたローブに身を包み、金属の装飾が施された仮面をつけた者たち。彼らの動きは無駄がなく、一糸乱れぬ陣形を保っていた。まるで、ずっとこの瞬間を待っていたかのように。


「待っていたよ、アレン・ブライト」


 穏やかな声が響く。ローブの中央に立つ男が一歩前に出た。


 アレンは警戒を強めながら、その男を見据える。


 ローブの男は小さく笑った。


「ヴィクター様からの指示で、私たちはここであなた方を待っていた。我々は、未来の自由を取り戻すためにここへ来たのです」


 未来の自由。その言葉に、リーナが眉をひそめる。


「あなたたちの言う自由って、いったいどういう意味なの?」


 男はゆっくりと手を広げる。その仕草には、ある種の確信めいた優雅さがあった。


「簡単なことですよ。未来は、誰のものでもない。ですが、この世界はヘルメスが作った永遠の輪によって制約を受けている。実に忌々しい……。過去が未来を縛り、あるべき結末へと導こうとする。その歪みを正すことこそ、我々の使命なのです」


「つまり、お前たちは永遠の輪の正体に気づいたってことか?」


 アレンの言葉に、男は誇らしげに頷いた。


「素晴らしい洞察力。その通りです。我々は輪の力を使い、ヘルメスの存在自体を無かったものにするのです。その結果、完全なる未来改変を目指す。運命を操る者たちから、未来を解放するんですよ」


 エリアが息を呑む。


「まさか、記録庫を燃やしたのも?」


「当たり前でしょう。この場所には永遠の輪に関する歴史が刻まれていた。我々が真実にたどり着くのに、それほど時間はかからなかったわけです。そして……」


 男の視線がアレンに向けられる。


「あなた方も、この記録庫に封じられた輪の欠片を狙っているのでしょう?」


「……」


 アレンは黙ったまま、鋭い目つきで男を見据える。


 ヴィクターの勢力は、未来改変を目的として動いている。彼らとの考え方には根本的な違いがあった。アレンたちは未来を選び取るために行動しているが、彼らは未来そのものを作り変えようとしている。


「未来を解放する、か」


 アレンが口を開いた。その声音は重く、確固たる意志が込められている。


「お前たちは、ヘルメスの存在を抹消し、輪が存在し無くなればすべてが変わるとでも思っているのか?それが、どれほど危険なことか分かっているのか?」


 男は再び笑う。


「危険? それは、今の世界の理に縛られている者の考え方ですよ。あなた方のようにね」


 リーナが一歩前に出る。


「でも、あなたたちがやろうとしていることは、結局支配じゃない!自分たちの望む未来のために、今の世界を壊すつもりなんでしょう?」


 男は少しだけ表情を曇らせた。


「鬱陶しい女ですね。支配?違う。解放だ!我々は、未来を選ぶ権利を手に入れるために戦っているんだ!」


「そんなの、ただの言い換えだろ。言葉遊びをしているだけに過ぎない」


 ザックが追い打ちをかける。


「お前らが好き勝手に改変して、他の者たちの未来はどうなる?」


「そんなことは、我々の知ったことではない。その者自身が決めればいいことでしょう?」


 男の言葉は揺るがない。それこそが、彼らの信念なのだろう。


 アレンたちは互いに視線を交わした。


「どうやら、簡単に引いてはくれなさそうね」


 リーナが呟く。


 ローブの男が手を挙げると、背後にいた手勢たちが一斉に動き出した。


「そこまで言われるのならば、この場で決めさせてもらいましょうか。あなた方が正しいのか、それとも我々が未来の解放者となるのか」


 場の緊張感が一気に高まった。


 張り詰めた空気の中、乾いた靴音が響いた。


 一際装飾が施されたローブに身を包んだ男が、堂々とした足取りでアレンたちの前に現れる。整った顔立ち、赤褐色の燃えるような髪、金色の鋭い眼差し。彼こそが、未来を書き換えようとする者たちの指導者、ヴィクター・フレイムだった。


「ようやく会えたな」

 

 その声には、揺るぎない自信と威圧感が滲んでいた。


 四人はそれぞれ警戒の姿勢を崩さない。


「未来改変こそが人類の進化。君たちも、もう気づいているのではないか?」


 ヴィクターは穏やかに言いながら、まるで旧友に語りかけるような口調で続けた。


「人間は生まれながらにして不完全な存在だ。過ちを犯し、間違った選択をし続ける。今の君たちだってそうだが、私はそれを許そう。我々は歴史から学ぶが、同じ過ちを繰り返す。それならば、正しい未来を選び取ることこそが、進化ではないだろうか?」


 アレンは静かに目を閉じ、深く息を吐いた。


「それが、君の考える進化か」


「そうだ。運命を操る力を得ることで、人類は無意味な争いや苦しみから解放される。愚かな選択の連鎖を断ち切り、最善の未来へ導く。これこそが、真の進化なのだよ。素晴らしい考えだと思わないかね?」


 アレンは一歩前へ出る。


「違うな」


 静かながらも、確固たる意志を持った声だった。


「君自身、選択を誤ったことはないのかね? もし、正しい未来を選べる力があったなら……。リーヴェルの遺跡で消えてしまったお兄さんも、きっと君は救えたのではないか?」


 アレンは一瞬動揺したが、それを振り払うように続ける。


「未来は、その人自身が選び取るものだ。たとえ失敗や苦しみがあったとしても、それを乗り越えることで成長し、次の選択をより良いものにしていく。最善の未来を決めるのは、運命じゃない。生きている人たちがつかみ取るものだ!」


 ヴィクターの瞳がわずかに細められる。


「理想論だな。人々が常に正しい道を選べるとでも?」


「だからこそ、選び続けるんだ。間違いを恐れず、立ち止まらずに」


「はっ」


 ヴィクターは小さく笑った。その笑みには、どこか憐れみの色が含まれているようだった。


「君は甘いな、アレン・ブライト。理想に縋り、無駄な苦しみを肯定する。しかし、私には見えているのだ。真に救われる未来がな」


 ヴィクターが手を上げると、彼の背後に控えていたローブ姿の部下たちが一斉に動き出した。


「交渉は決裂か」


 アレンは小さく呟き、短剣を抜く。


「それが答えなら、仕方ないな」


 刹那、ヴィクターの指が赤く輝く。


「エリア!」


 アレンの叫びに応じ、エリアが素早く詠唱を始める。青白い光が彼女の指先に集まり、展開される魔法陣。


「静寂なる蒼き氷よ、揺らぎなき盾となりて我が前に立て。凍てつく刃は砕けぬ壁となり、万象を拒め……。フロスト・バスティオン!」


 氷の障壁が彼らを囲むように出現し、ヴィクターの攻撃を防いだ。だが、それも一瞬のこと。ローブの男たちが詠唱を終えると、黒い雷が空間を引き裂くように放たれた。


「天を裂く影よ、闇の咆哮をもって世界を貫け。漆黒の雷よ、すべてを焦がし、絶望を刻め……。ダーク・テンペスト!」


 轟音とともに、黒雷が氷壁を粉砕する。破片が宙を舞い、衝撃波が四人を襲う。


「ちっ、やはり相応の実力を備えているということか」


 ザックが素早く前に出て、双剣を構えた。その隣で、リーナが冷静に状況を見極める。


「ヴィクターは?」


 彼女の視線の先、ヴィクターはまるで戦闘など興味がないかのように、静かに立っていた。


「アレン・ブライト。最後にもう一度だけ聞こう」


 戦闘の喧騒の中、彼の声だけが静かに響く。


「未来を操る力を得ることで、真の平和を手にする。真の自由を手にするのだ。その可能性を捨てるというのか?」


 アレンは迷いなく剣を握り直し、力強く答えた。


「俺は、未来を自分の力で選び取る」


 ヴィクターはゆっくりと息を吐き、目を閉じた。


「そうか……。ならば、証明してもらおうか!」


 次の瞬間、ヴィクターの周囲に黒い波動が広がった。


 戦場が混乱する中、ザックはふと、背後の壁が僅かに歪んで見えることに気づいた。まるで、何かがそこに隠されているかのように、空気の流れが奇妙に揺らいでいる。彼の直感が告げていた。あの奥に何かがあると。


「リーナ、こっちだ!」


 相手の魔法をかわしながらザックが声を上げた。リーナは即座に察知し、素早く駆け寄る。ザックの指差す壁を見つめた瞬間、リーナは目を見開いた。


「これは、隠匿結界。通常の視覚では捉えられないけど、確かにそこに何かがあるわ。こんなもの、よく見つけたわね」


 エリアが即座に詠唱を始める。


「解放せよ、閉ざされた扉……。ディスぺル!」


 仄白い光が壁を包み、大きな扉が姿を現した。漆黒に染まった扉には精緻な紋様が刻まれ、中心には絡み合う輪の模様が浮かび上がっていた。


「まさか、これが?アレン!」


 ザックの呼びかけに、アレンが近づくと、自身の魔力と扉が引き合う感覚を持った。その瞬間、鈍い音とともに錠が外れた。まるでアレンを迎え入れるかのように、扉は静かに開いていった。その先には、儀式でも執り行われるかのような、広大な石造りの部屋が広がっていた。中央にある台座の上に、一つの欠片が静かに佇んでいる。闇の中、それは異様な存在感を放っていた。


 リーナが息を呑む。


「これが、あの永遠の輪の欠片?」


 台座には古びた碑文が刻まれていた。


『この輪を用いる者は、新たな時間の概念を生む』


 その言葉が、アレンの意識に深く刻み込まれる。新たな時間の概念。それが何を意味するのか、はっきりとは分からない。それでも、この欠片が持つ力の壮大さが、直感的に理解できた。


 アレンはそっと手を伸ばした。すると、輪の欠片がわずかに震え、彼の指先に触れた瞬間、意識がどこか別の場所へ飛ばされる感覚があった。脳裏に幾重にも重なる未来の風景や、異なる時間軸の自分の姿など、圧倒的なイメージが流れ込んでくる。


 ——無数の可能性が交錯する未来。

 ——決して閉ざされない選択の扉。

 ——あらゆる運命の分岐が、自由に交わり、形を成す。


 それはまるで、過去も未来も、すべてが繋がる無限に巡る一つの輪のようだった。

 

 「アレン!」

 

 遠くで誰かの声が聞こえる。リーナの声だ。だが、どこから響いているのか分からない。振り返ると、彼女の姿が蜃気楼のように揺らめいていた。

 

 周囲を見渡すと、そこはまるで万華鏡の中に迷い込んだような世界だった。


 無限に広がる光の回廊、浮遊する輝く断片。それぞれの断片には、異なる光景が映し出されている。過去、現在、未来。あるいは、それらが交錯した可能性の断片なのか。

 

「ここは?」

 

 声を発した途端、その音が波紋のように広がり、目の前の光の断片が動き出した。

 

 最初に映し出されたのは、もしも彼らが旅に出なかった世界。

 

 故郷の町に残り、父と母の愛情を感じながら、穏やかな日常を過ごす自分の姿。リーナは永遠の輪に関する研究を続け、ザックは放浪の旅をしていた。エリアは、森から出ることもなく、薬草の調合に勤しんでいる。だが、その光景は次第に暗い影に覆われていく。

 

 世界は静かに滅びの道を辿っていた。

 

 アレンは息を呑む。彼らが何も選ばなかった世界では、緩やかに破滅が訪れる。それが、この未来の迷宮が見せる最初の選択だった。

 

 天変地異が続き、アレンが暮らすリーヴェルも、その被害を受けていた。誰もが無気力になり、生きているのか死んでいるのかすら分からない。


 「これは……。違う!」

 

 アレンが叫んだ瞬間、周囲の景色が一変する。

 

 今度は、別の未来が映し出された。

 

 彼らが違う道を選んだ世界。

 

 リーナが魔法学の最高権威として迎えられ、国のために尽力する姿。ザックが王国の騎士となり、誇らしげに剣を振るう姿。エリアが王宮付きの医師として人々を救っている姿。そして……。

 

 そこにアレンの姿はなかった。

 

 「アレン……」

 

 映像に映されたリーナの視線の先にあるのは、王国の記録書。そこには、「アレン・ブライト、享年二十」の文字が刻まれていた。

 

「俺は、死んだのか?」

 

 映像が切り替わり、自分の墓標を目の当たりにするとアレンは震えた。

 

 この未来では、仲間たちはそれぞれの道を進み、成功を収めている。だが、その中にいるはずの自分は存在しない。

 

「もし俺が、皆と違う道を選んでいたら?」

 

 今見ているのは、単なる幻ではない。

 

 選ばなかった未来。それは無限に広がる可能性のひとつ。

 

「アレン!」

 

 突然、リーナの声が鮮明になった。

 

 気づけば、リーナ、ザック、エリアの三人もこの迷宮に引き込まれていた。彼らの目にも、無数の未来が映し出されている。

 

「この場所……。まるで、すべての可能性が渦巻いているみたいですね」

 

 エリアが驚きの声を漏らし、リーナが険しい表情で頷いた。

 

「話には聞いたことがあるわ。これは、未来の迷宮よ」

 

 ザックが苦々しげに唇を噛む。

 

「おい、なんだよこれ。俺が王宮の騎士だと?そんな柄じゃない。しかも、アレンがいないってどういうことだ!」


「きっと……これは、私たちが選び得た未来。だけど、選ばなかった未来よ」

 

 リーナの言葉に、アレンは動揺する。

 

 迷宮が見せる未来は無限にある。

 

 どれかを選べば、他の可能性は消える。

 

「違うよ」

 

 アレンは、一歩前に踏み出した。

 

「これも、あくまで可能性の一つでしかないんだ。未来は、決まってなんかいない」

 

 彼の言葉に、迷宮の空間が僅かに揺らぐ。

 

「僕たちは、今を選び続けている。それが、未来を創るんだ!」

  

 アレンの強い意志に、無数の未来が交錯し、選ばなかった可能性が霧散していく。

 

 そして、アレンたちは光に包まれながら現実の世界へと引き戻されていった。


「アレン、大丈夫?」


 リーナの声で我に返る。アレンは深く息を吸い、ゆっくりと頷いた。


「ものすごいエネルギーだったな。だけど、この欠片がこの状況を打開する鍵になるかもしれない」


 その言葉とアレンの希望に満ちた表情に、三人が静かに頷く。


 未来の迷宮から解放された四人は、永遠の輪の欠片を手にした。そして、再びヴィクターが待つ隠匿結界の向こう側へと戻った。


「待っていたぞ、アレン」


「ヴィクター!」


 ヴィクターの鋭い視線がアレンたちを射抜き、冷たい微笑を浮かべる。


「急にいなくなったと思ったら、まさか隠匿結界とはね。お前たちが未来の迷宮で何を見たのか。実に興味深いね」


 アレンが拳を握りしめる。その手の中には、永遠の輪の欠片が光を帯びていた。それを見た瞬間、ヴィクターの表情が一変する。


「なるほど……。お前たち、そこまで辿り着いたのか」


 彼の視線が欠片に釘付けになる。その目には、驚きとわずかに怯えのような感情が浮かんでいた。


「ヴィクター、お前は何をしようとしている?」


 アレンが問い詰めると、ヴィクターはふっと笑い、静かに手を広げた。


「決まっているだろう。世界を正しき形へと導くんだ。この歪んだ現実を、より良き未来へと!」


「より良いかどうかなんて、それはあなたが勝手に決めることじゃないわ!」


 リーナが叫んだ。彼女の声には、これまでの迷いを振り払うかのような力強さがあった。ヴィクターは冷静に彼女を見つめると、静かに首を振った。


「実に愚かだ。この世界はすでに破綻しているというのに……」


 そして、一瞬の静寂の後、空間が揺れた。ヴィクターの周囲に、暗紫色の魔法陣が次々と浮かび上がる。


「もういい。お前たちに選択の余地はない。ここで消えてもらおう!」


 漆黒の雷が放たれる。アレンたちは咄嗟に身を翻し、各自が戦闘態勢を取った。


 ヴィクターの手下たちが、一斉に襲い掛かる。


「くそっ、こっちが圧されてるな!」


 ザックが歯を食いしばりながら防御に回るが、ヴィクターを筆頭に、彼らの魔法理解は圧倒的だった。放つ魔法の一撃一撃が重く、激しく空間を切り裂いていく。


 アレンは奥歯を噛み締めながら、手の中の永遠の輪の欠片を見つめた。これを使えば、何かが変わるかもしれない。だが、何が起こるか、制御できるのかすら分からない。


「アレン、どうする?」


 リーナが焦燥の色を浮かべながら問いかける。ヴィクターの攻撃は止まらず、彼らは次第に追い詰められていく。


 「くそっ、まだだ。俺たちは、諦めない!」


 アレンは覚悟を決めた。今の自分たちの選択が、未来を切り開くのだから。



 束の間、アレンの一瞬の隙をつき、ヴィクターの手が永遠の輪の欠片へと伸びる。アレンは咄嗟に後退しようとしたが、ヴィクターは逃れる隙を与えなかった。


「君に使いこなせるはずがない。持っていても宝の持ち腐れだ。ならば、私が!」


 鋭い視線とともに、ヴィクターは強引にアレンの手から永遠の輪の欠片を奪い取る。冷たく鈍い光を放つ欠片は、ヴィクターの手中に収まった。


「やめなさい、ヴィクター!」


 リーナが叫ぶが、ヴィクターは既に術を発動させていた。彼の周囲に黒と金の魔法陣がいくつも浮かび上がり、空間が激しく軋む。空気が重くなり、胸を締め付けるような圧力が、その場にいるすべてを包み込んだ。


「この歪んだ世界を、正しき未来へ導く。私が作り出す世界こそ、人々にふさわしいのだ!」


 ヴィクターの瞳がぎょろっと見開かれる。欠片が閃光を放ったその瞬間……。


 世界が、音を立てて割れた。空気がねじれ、耳鳴りが頭を締めつける。視界の端で、誰かの叫び声が反響しながら遠のいていく。


 過去と未来の断片が視界を埋め尽くしていく。アレンたちは強烈な浮遊感に襲われ、足元の感覚が消えた。視界が歪み、見たことのない光景が次々と現れる。


 ——幼いアレンが、リーヴェルで指導者として指揮している。

 ——血に濡れた戦場で、リーナが剣を握りしめ、誰かを庇って立っている。

 ——ザックが錬金術学院で、学友と笑い合っている。

 ——エリアが、巨大な図書館の中で本を開き、泣きそうな顔をしている。


「これ、は?」


「こんな光景、俺は見たことがないぞ!」


「私もよ。何なの、あの映像は」


「私はいったい、何に悲しんでいるのでしょう…….」


 アレンたちは息を呑んだ。過去、未来、まだ起こっていない出来事が入り乱れ、世界の構造そのものが崩壊しようとしていた。空には無数の時の裂け目が浮かび、そこから様々な景色が流れ込んでくる。


「まさか、時空が混線してるというのでしょうか?」


 エリアが動揺を隠せずに呟く。ヴィクターの表情も、驚愕に染まっていた。


「違う……。こんなものは、私が求めたものではない!」


 永遠の輪の欠片が、まるで意思を持つかのように激しく鳴動し、ヴィクターの手から逃れようと暴れ始めた。彼の腕に黒い亀裂が走り、苦悶の表情が浮かぶ。


「くっ……。私の、計画が……」


 世界の崩壊は加速していく。裂け目の向こう側に引きずり込まれそうになる。アレンは咄嗟に手を伸ばし、リーナの腕を掴んだ。


「みんな、離れるな!」


 だが、次の瞬間、ヴィクターの身体が、裂け目へと引き込まれ始めた。


「まだだ!こんな、こんなところで!」


 彼はもがきながらも、なおも永遠の輪の欠片にしがみつこうとする。


「未来を書き換えるのではなく、未来に責任を持つべきだ!」


 アレンの叫びが、時空の混乱の中に響き渡った。彼の言葉は、ヴィクターの動きを止めた。


「未来に、責任だと?」


 ヴィクターが動揺したその隙を突いて、アレンは渾身の力で彼の腕を振り払った。永遠の輪の欠片がヴィクターの手を離れ、宙を舞う。


「ザック!」


 アレンの声を受け、ザックがすかさず欠片をキャッチする。しかし、その瞬間、強烈な光が四人を包み込む。


 世界が、白く染まった。


 次にアレンたちが気づいたとき、彼らは崩壊した時空の裂け目の中にいた。そこには、無数の時の断片が浮かび、あらゆる可能性が混在していた。


「ここは?」


 リーナが呆然と周囲を見渡す。ザックとエリアも、目の前の光景に息を呑んだ。


「時空の狭間、ですね。永遠の輪の暴走で、世界の境界が崩れたのでしょう」


 エリアが震える声で呟いた。


「ここから抜け出せるのか?」


 ザックが苦々しく言う。アレンは唇を噛みしめる。


「やるしかない。僕たちが、未来に責任を持たなきゃいけない!」


 強く決意を込めた瞳が、音のない白銀に輝く時空の彼方を見据えていた。


 空間の歪みが収束し始める中、なおも永遠の輪の欠片は脈動を続けている。再び暴走が始まり、金の閃光が四方八方へ放たれる。手に握られた永遠の輪の欠片は、刻一刻と破滅の鐘を打ち鳴らしていた。


「これが、世界を終わらせる力か…….」


 アレンの呟きは、かき消されるほどに小さなものだった。


「アレン!このままじゃ、すべての世界が崩壊してしまうわ!」


 リーナの叫びが耳を打つ。


「お前にできることは、まだあるはずだ!」


 ザックの声も続く。鋭い眼差しがアレンを貫き、その奥には信頼があった。エリアも、静かに彼を見つめている。三人の視線が絡み合い、アレンの迷いを削ぎ落としていく。


 未来を守る者として、自分は何をすべきなのか。


 アレンは葛藤した。確かに、永遠の輪は圧倒的な力を持ち、歴史さえも覆すことができる。しかし、それは未来をつかみ取るためのものではなく、過去に干渉するための力だ。新たな未来を紡ぐ中で、本当にそのような力が必要なのか……。


「兄さんを探す方法は、過去に干渉する以外にもあるはずだ。ならば、僕は永遠の輪を封印する!」


 アレンは決断した。


 懐から、小さなガラス瓶を取り出す。赤色の液体が、揺らめきながら光を放っていた。


「師匠、今こそこの薬を使うときですよね」


「アレン、それは?」


 リーナが問う。


「僕が学院を出るときに、師匠がくれたものだ。僕にとっては最後の希望だよ。だけど、大きな代償が必要だと」


 その言葉に、エリアが僅かに眉を寄せた。


「代償、ですか?」


 アレンはゆっくりと頷き、瓶の栓を開けた。途端に、冷たく清らかな香りが広がる。滴り落ちた赤い液体は、輪の中心で淡い光を放ちながら、まるで生きているかのように波紋を広げていった。空間全体が一瞬、静寂に包まれる。まるで時間が止まったかのように輪の鳴動を鈍らせた。


「永遠の輪は、この世界の時間と繋がっている。この液体は、それを分離させる作用を持ってるみたいだ。けど……」


 アレンの手が、じわりと痺れた。急激に引き裂かれる感覚が、彼の体を貫く。


「アレン、あなた。髪が……」


 アレンの髪が、一気に白く染まっていく。


「そうか……。対価は、僕自身の時間か」


 理解した瞬間、アレンの身体から温もりが抜けていく。記憶の一部が霞むように遠のき、指先が冷たくなった。


「待って!そんなの、駄目よ!」


 リーナが駆け寄る。しかし、アレンは微笑みながら彼女を制した。


「大丈夫だよ、リーナ。僕はもう、迷わない」


 崩壊しかけていた世界が、ゆっくりと形を取り戻していく。空間の裂け目が塞がり、暴走していた魔力が静かに鎮まっていくのを、三人は息を詰めて見守った。


 アレンは静かに目を閉じた。


 これが、僕の選んだ未来だ。


 やがて、すべての光が消え、静寂が訪れた。



 時間の流れすら不確かになったかのような静けさの中で、アレンたちは宙に漂っていた。


「アレン!返事をして!」


 リーナの泣き出しそうな声が遠くで響く。アレンの意識は朦朧としていた。全身がひどく重く、まるで自分の身体でないようだった。代償を伴った影響だろうか。だが、不思議と痛みはない。目の前の世界が、霞んでいく。


「崩壊は、免れたのか?」


 ザックが呟く。その目には困惑が浮かんでいた。


 アレンはゆっくりと視線を巡らせる。異空間を漂っていたが、徐々に現実世界に引き戻されているようだ。気が付くと、四人は記録庫の内部で倒れていた


 顔に水が滴り落ちる。


 アレンはゆっくりと目を開けた。目の前には、顔をぐしゃぐしゃにして泣き崩れているリーナの姿があった。ザックもエリアも辛気臭く俯いている


「戻って、きたのか?」


 つい先ほどまで見ていたはずの記録庫が、はるか遠い昔のように感じる。


「アレン!」


 三人がアレンの下に集まって来る。


「お前、生きてたのか!」


「再びこうして会うことができるなんて。本当に良かったです」


「アレン、何であんな無茶をしたの!私、あなたが、本当に死んでしまったかと……」


 アレンがリーナを抱き寄せる。


「僕も、もうだめかと思ったよ。師匠は言っていた。錬金術には必ず代償が必要だと。永遠の輪の力は強大過ぎた。命を取られても不思議じゃないと思ったよ」


 アレンは大きく息をついた。


「でも、僕たちは生き残った。この結果だって、僕たちがつかみ取った未来なんだ。未来の記録は、これからを生きる人たちによって描かれていく」


「つまり、私たちの手で未来を創るしかないってことね」


 リーナが涙を拭いながらそっと微笑んだ。その言葉には、確かな決意が滲んでいた。


 ザックも頷く。


「過去に縛られず、俺たち自身の意志で道を切り拓く。それが、本来あるべき姿なのかもな。」


「もう、永遠の輪に頼ることはできないですからね。でも、それは同時にすべての可能性が開かれたということではないでしょうか」


 エリアの言葉に、誰もが頷いた。


 アレンは、指先に力を込めた。あの場で、すべてを終わらせるはずだった。しかし、彼は今もここにいる。寿命を削ったはずなのに、こうして生きている。


「生きている、か。」


 彼の髪は依然として白く、肌にはわずかに冷たさが残っている。それでも、確かに鼓動は打ち続けていた。


「師匠、あなたはここまで見抜いていたんですか?また、その答えを聞かせて下さい」


 オーウェンが託した道は、確かにアレンを新たな未来へと導いた。


 砕けた魔力の余波が宙を漂い、裂けた空間のひずみがゆっくりと修復されていく。光の粒子が舞う姿が、緊張の熱が消えゆくことを伝えていた。


 遠く記録庫の闇の中から、粗い息づかいが聞こえる。視線の先から、崩れ落ちたヴィクターが、這いずりながら現れた。


「見事なものだな」


 ヴィクターの口元が皮肉げに歪む。彼の体は、永遠の輪の影響なのか、既に崩壊しかけている。少しずつ崩れていく体。ここまで這って来るだけでも、相当な精神力が必要だっただろう


 四人は言葉も出ず、ただその様子を見守っていた。


「どうやら、私の負けのようだ。部下もすべて失ってしまった…….」


 ヴィクターは肩を震わせると、まるで可笑しそうに笑った。


「だが、君が勝ったわけではない!」


 アレンは眉を寄せる。


「どういう意味だ?」


「君は結局、運命を受け入れただけに過ぎないんだよ!」


 ヴィクターは嘲るように声を上げた。


「いくら足掻こうがね、人は結局、運命に従うしかない。君たちがここに立ち、私を打ち負かしたことも、時間の流れの中では最初から決まっていたことに過ぎないんだよ」


 彼の言葉は虚無に満ちていた。敗北を受け入れた者の諦観。しかし、それだけではない。彼は最後の瞬間まで、己の信念を貫こうとしている。


 アレンは静かに目を伏せ、一度だけゆっくりと息を整えた。


 そして、はっきりと言葉を紡ぐ。


「それは違うよ。僕たちは、未来を選んだ」


 声は揺るぎなく、死線を通して得た確信が込められていた。


「運命なんかじゃないんだ。ヴィクター、お前がどう思おうが、僕たちが確かに選び取った道だ」


 ヴィクターの目がわずかに見開かれる。真っ直ぐに虚空を見つめ、呆気にとられたようなその表情は、深い悲しみに満ちていた。


「くだらん……。実にくだらん!」


 ヴィクターの身体が崩れ始める。黒い霧がその輪郭を曖昧にし、塵のように風に溶けていく。


「俺は……俺は何者にもなれなかったのか?」


 その最後の言葉が、虚空に消えていった。


 そして、ヴィクターは消滅した。


 長い戦いが終わったことを告げるかのように、永遠の輪の輝きが消えていく。


「終わったの?」


 誰に向けた問いでもない。緊張から解き放たれ泣き出しそうなその声は、リーナ自身が事実を確かめているようだった。


 アレンは脱力し、腕を垂らす。そして、力なく頷く。


「ああ……」


 その瞬間、重くのしかかっていた重圧から解放される。


 ザックが口元を歪めながらも、胸の前でぐっと右手の拳を握りしめた。


「綺麗事は俺の柄じゃないが……アレン、お前が自分たちでつかみ取ったと言うなら、悪くない響きだ」


 エリアも静かに微笑む。


「そうですね。私たちの選んだ未来が、ここにあるわけですから」


 四人は、その場に座り込み、笑いあった。


 記録庫の外に出ると、澄み切った瑠璃色の空が広がっていた。夜明け前の空気が、ひんやりと肌を撫でる。


 すべてが終わった。それを実感するように、アレンは大きく息を吐く。


 辺りを見渡せば、リーナ、ザック、エリアもそれぞれの思いを噛み締めるように佇んでいた。


「これで、本当に終わったんだな」


 ザックがぽつりと呟く。彼の表情には安堵が混じりながらも、どこか寂しげな色が滲んでいる。


「終わりましたね。喜ばしいことでしょうけど、少し複雑な思いです」


 エリアも笑ってはいるが、悲しさが滲んでいる。


 リーナは夜明けの空を仰ぎ見ていた。静かに言葉を紡ぐ。


「私たちが……未来の可能性を守った、のかな」


 その問いに、アレンはゆっくりと首を振った。


「違うよ、リーナ。僕たちは未来を守ったんじゃない」


 その言葉に、三人の視線が集まる。


「僕たちは、未来を自分たちで選んだだけだ」


 アレンの言葉は、非常に晴れ晴れしく澄み切ったものだった。これまでは、運命に抗うために旅を続けてきたとも言える。しかし、運命はただ流されるだけのものではないと知った。そのようなものは幻想で、未来は自らの意思で選び取るものだと、アレンは今、自信を持って言える。


「俺たちも、それぞれの道を歩いていくってことか」


 ザックが腕を組みながら言う。


「そうだよ。これからは、それぞれが選んだ道を進むんだ」


 エリアが頷く。彼女の瞳は、しっかりと未来を見つめていた。


 リーナは小さく笑い、ぽつりと呟く。


「なんだか、寂しくなるね」


「そうだな。でも、これでいいんだ」


 アレンがそう言うと、ザックが少し照れくさそうに頭をかいた。


「ったく、長々と一緒にいた後にそんなこと言われると、感傷的になっちまうじゃねえか」


 エリアが小さく笑いながら、ザックの肩を軽く叩く。


「また会えますよ。私たちが望むのなら、きっと」


「ああ、そうだな」


 ザックも静かに頷く。


「私は皆さんと出会った森に戻ります。薬師として、皆さんにも私の名前が届くように大成してみせましょう」


「俺は旅を続けるよ。まだ知らないことがたくさんある。次にお前たちと出会ったに、土産話として聞かせてやろう」


 アレンはリーナの方を見た。彼女の瞳は朝焼けの色に染まっていた。


「リーナは、どうするんだ?」


「私は……」


 少しの間、彼女は迷うように目を伏せた。けれど、次の瞬間、力強く前を向く。リーナがアレンの手を握った。


「私は、アレンと共に歩みたい。あなたさえ良ければ、あなたが創っていく未来を、私も一緒に見ていきたいわ」


「そうか」


 アレンは微笑む。


「アレン、どう?」


「僕は……」


 アレンは目を閉じ、一瞬だけこれまでのことを振り返った。永遠の輪をめぐる壮絶な戦い、仲間たちとの絆、そして自ら選び取った未来。


「僕はリーナとの未来を見たい。僕だって、君が一緒にいてくれることは心強いよ。これからもよろしく、リーナ」


「もちろんよ!」


 朝日が昇り始める。柔らかな光が四人を包み込んでいく。


「最後に見せつけてもらったな。それじゃあ、ここでお別れだ」


 ザックが軽く拳を差し出す。それに続いてエリア、リーナ、アレンも拳を重ねた。


「またな」


「またね」


「いつか、きっと」


 四人は、それぞれの道を歩み始めた。未来を守る者ではなく、未来を選ぶ者として。


 それが、彼らが選び取った道だった。

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