トンネルの中 四
ぱん。
突然、風船が割れるような破裂音が背後からした。殆ど同時に液体が撒き散らされる音。
一呼吸のうちに振り返る。
最初に明かりが見えた。之治が掲げている奴だと思う。
明かりの正面に身体が見えた。細い身体は、ぼんやり立っていた静の影だ。
一瞬感じる違和感、瞬きの内に何が違和感なのかすぐに分かった。頭が無い。静の頭の先、逆光になって影になっているはずのそこに、何もない。
「し」
名を呼ぼうとして、彼女の身体がぐらりと揺れたから、言葉を飲み込んでしまう。
ぐらり、ぐらり。棒倒しの棒のようにぐらぐらと揺れた彼女の身体は、急に糸が切れたみたいに倒れていった。
静の身体が倒れた後は、トンネルの中は無音になった。今、ここには之治と俺しか居ない。
「之治」
声は震えていた。出来るだけ動揺を悟らせないようにしたかったけれど、これでは無理だ。
之治はただ立っていた。立って、こちらを懐中電灯で照らしている。だから、名前を呼んだ。反応が欲しくて、何か違うと言う手掛かりが欲しくて、名前を呼んだ。
スイッチを切る軽い音が響いて、目の前からぱっと明かりが消えた。之治が懐中電灯を切ったのだ。
だから、こちらから懐中電灯を照らした。逆光で見えなかった姿が浮かび上がる。視界の隅、トンネルに転がった赤色にぐ、と歯噛みして、之治の姿を捉えた。
笑っていた。穏やかに、凪いだ海のように、笑ってこちらを見つめていた。
「ゆきじ」
唇から名前が転がり落ちる。
なんで。どうして。そればかりが頭を占めた。
之治は何も言わない。ただ笑って、一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。
不思議なことに恐怖がなかった。恐怖はなかったけれど、頭のどこかで、逃げろ、と柳介の死の間際の声が聞こえる。
『之治だ』
そう柳介が言った。その言葉が意味するものは混乱する頭でもなんとなく分かった。
「ゆき」
気がつけば之治はもう目の前にいた。トンネルの出口を探していた時みたいに、距離感も時間の感覚も狂っているような気がする。
之治は俺の口を人差し指を立てて塞いだ。そうして、消灯の後そうしたみたいに、しい、と自身の唇にも人差し指を立てる。
目が合った。之治の瞳と。あんなにも彼とは目が合っていたのに、今目の前にあるのは過去のどれとも違う目だった。
之治の虹彩がぐるぐると光る。ああ、それを知っている。でも、あれは、いつ。
「これで連れて行ける」
「な、に?」
「もう、何もない」
突然の言葉だった。意味がよく分からないでいれば、彼は続けてもう何もないと言う。何もない。視線が動く、傍に、柳介に。僅かにあったはずの繋がり、寄せ集めの友人たちさえ之治以外無くなった。
「なんで」
なんで、何も無いのだろう。何も無くなったのだろう。
「之治」
耐えられなくて名前を呼んだ。
ずっと、ずっと隣にいた彼しか、もう残っていない。でも、その之治が皆んなを。
そんなはずはない。そんなはずは。だって之治は優しくて、いつも一緒に居て、それで。
「う゛、ぇ」
よく分からないものが込み上げて、気づいたら吐いていた。之治は昔と同じように、吐いている俺の背を撫でる。
「なんで」
なんで、皆んなはああなったのだろう。ただ願いを叶えにきたはずだ。遠いところにある願いを叶えたくて、神頼みに縋って来た筈だ。
頭を大きな手が撫でる。顔を上げれば、光る虹彩の瞳で之治がこちらを見下ろしていた。視線が絡む。
「あ」
彼の目は、昔、昔に見た目だった。
母はいた。父もいた筈だ。それがいつか母だけになった。
母は見知らぬ男を連れてくる。連れてきて、それで。記憶は砂嵐で塞がれた。
トンネルに、確かにトンネルに連れて行かれた。母と男はぎらぎらとした目で入って行く。俺は泣いて、嫌だと地面に蹲った。無理に連れて行かれることは無かった。その代わり木々が生い茂るトンネルの暗い入り口に置いて行かれた。
あの時、そう、あの時。トンネルの中、口をぽっかりと開けた暗闇の中に見えたのは、あの目。
児童養護施設。大人が言う。他の子と遊ばないか、と。之治がいるからいい、と俺は首を振る。困惑した顔、同情した顔。俺は分からなくて首を傾げたら、之治が俺の手を取ってどこかに連れて行ってくれる。
誰かがーーあれはそう年上の子供ーーが俺を指差す。気色悪い。笑っている。その後、何かを言われた気がしたけれど、あれは。記憶は砂嵐で塞がれた。
誰かの葬式、あの年上の子の葬式。誰の目の届かない影の中に俺は蹲っている。
之治の声がして顔を上げる。暗い、屋内の影の中で見えたのは、あの目。
小学校。使われていない暗い旧体育館倉庫に之治と一緒に閉じこめられた。
名前も覚えていない同級生が言う。気色悪い、お前誰と。記憶が砂嵐で塞がれる。
暫くして、何か鈍い音がして外が騒がしくなった。倒れた。先生を。やっぱり。だからやめようって。がたがた、ばたばた、音が遠ざかる。
不安に震える俺の手を之治が繋いだ。隣を見る。扉を見つめる之治の目が。
濁流が頭の中にあった。濁流は次から次に記憶を流し込んでくる。
「トンネルに神様がいる」
あの六人の中で、最初にそう言って笑ったのは、之治では無かったっけ。
「之治」
脈打つ頭を抑えて、名前を呼んだ。もうよく分からなかった。よく分からなかったけれど、いつも之治が傍に居たから、だから、いつもみたいに之治に手を伸ばした。その手をいつも通り、冷たい手が取る。
見上げれば、目が柔らかく細められた。
きらきらと虹彩が光っている。光ったそれを見つめていると、なんだか頭がぼんやりとした。意識の中に砂嵐。
「皆んな居るよ」
「みん、な?」
皆んな。皆んな居るとは、なんだろうか。
ただ心配を払うような声音が、いつもの之治で、でも視界の隅に赤色が写って、頭の中がぐるぐると回る。
「みんな」
皆んなはそこに居なかったっけ。ざあざあ、と頭の中で音がする。さっきまで見ていたものがなんだったのか、思い出そうとしても上手く思い出せない。
視界の隅に映った赤色。そちらに視線を移せば、そこには何もない。赤色なんてどこにもない。
視線を之治に戻す。彼の後ろに影が見えた。俺の持つ懐中電灯に照らされた足、四人分。一つには青い宝石が嵌め込まれたアンクレットがあった。けれども違和感がある。言葉にはできない違和感。
「行こう」
けれども僅かに感じた違和感は、目の前に差し出された掌で、頭の片隅に追いやられた。
「どこに?」
「俺の所」
「之治の所?」
之治の所とはどこだろうか。家は俺と一緒に住んでいるから、きっと俺のとは言わないはずだ。行こう、とも言わないと思う。
「新しい家」
「新しい家? どうして」
住んでいるところがあるのに、と言外に問えば、之治は緩く手を引いた。それで俺の身体が立ち上がる。
「皆んな一緒にいられるから。皆んなとずっと一緒に居たかったんだろう」
「それは」
それは願いだった。俺の願い。誰の願いよりもずっと小さくて、普通で、そうして叶わないだろう願い。
寄せ集めの六人だった。初めて俺に友達が出来て、初めて之治も一緒に皆んなと居られた。でも、俺にとっては初めて出来た特別だけれど、皆んなにとっては偶々今いるだけの場所だ。本当は皆んなその他大勢と同じように、家族の中に、同級生たちの中に、入りたがっていた。
だから、俺の願いは叶わない。彼らにとって今は偶々立ち寄った場所でも、将来的には不必要な場所だから。
「皆んな一緒にいられる。お前の願いは叶う」
「俺の願いが、叶う」
でも、それでは、皆んなの願いが。
「大丈夫。おいで」
手がやんわりと引かれる。一瞬だけ躊躇えば、之治が困ったようにこちらを見た。
「皆んな一緒?」
何かを吐き出す筈だった。もっと別の言葉を、吐き出そうとしていたように思う。けれども実際に口から出たのは、皆が一緒かと確かめる一言。
「皆んな一緒」
答えは得られた。皆んな一緒ならいいかと之治の手を握り返す。どこかで警鐘が鳴っているような気がしたけれど、上手く考えることが出来なかった。それに之治が、ずっと一緒だった之治が大丈夫だと言うのだ。ならばきっと大丈夫なのだ。
手が引かれる。之治が歩き出す。
俺も之治につられるように、深く暗いトンネルの中を歩き出した。
『男女四人の死体が森の中、廃トンネルの入り口付近で発見されました。死後すでに数年経過していると思われます。当時、行方不明となった男女五人の内の四名ではないかとーー』
トンネルの中 縁章次郎 @chimaira
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