トンネルの中 三

 無言で道を進む。視線は自然と下がって、足元ばかり見てしまう。

 それは、幸子が死んでいたからと言う心理的にでもあっただろうし、もし、見上げた先にまた死体が転がっていたら、と思うと、どうしても視線を上げられなかった。

 一歩、一歩と進む己の足を見て、ふと思う。

 俺も死ぬのだろうか。

 幸子は引き返したのだろう、多分。そうして死んでいた。俺もまた幸子を追って引き返した。条件はさほど変わらず、噂通り、元いた場所には帰れなかった。であるならばすでに祟られ、あとは死を待つばかりなのだろうか。

 それならば之治は。彼はどうなる。

「ゆ、之治」

「うん?」

 久方振りに上げた視線が之治を捉える。

 見た目で言えば、彼に変わったところはない。それこそ、トンネルに入ってきた時から彼は、そう変わっていないように思う。

 どうして、変わってーー。

「どうした?」

 何かを考えかけていたけれど、之治の声で思考は霧散した。

「あ、身体に。身体に変わったことはないか? 痛いとか、おかしいとか」

 一瞬、首を傾げた之治は、けれどすぐに納得した様子で頷く。

「俺は大丈夫。お前は?」

「俺も今は大丈夫」

「ん、なら良かった」

 出来が悪いけれど可愛い弟を見るみたいに、之治の視線がこちらを向く。

 次いで、何かに気がついたように前に視線を戻した。

「ああ、ほら」

 人差し指がついと正面を指す。

 吊られて彼が指差した方向を向けば、明かりが一つ落ちていた。

 電気がつきっぱなしの懐中電灯は、右壁方向に明かりを差したまま転がっている。

 照らされたトンネルの右壁には静が向こう向きでぼんやりと立っていた。


「どうして」

 幸子の元に戻った距離から考えれば、驚くほど早く追いついたことになる。

 静が戻ってきたのだろうか。いや、別れた時の様子から考えてもその可能性は低い。

 静は動かない。ただぼんやりと立っていて、その足元だけが照らされている。静が好きだと言っていたブランドのアンクレットの青い宝石が、懐中電灯に照らされてきらきらと反射している。

 トンネルの中は声が響く。こちらの声が彼女に聞こえていてもおかしくはないのに、彼女は振り向くことさえしない。

 こちらの懐中電灯で後ろ姿を照らす。そこに立っているのは間違いなく静の後ろ姿だ。

 声にも、自身を照らす懐中電灯の明かりにも、彼女は気づいていないみたいに、ぼんやりと立ち竦んでいる。

 明らかに様子がおかしい。

「静っ」

 駆け寄って、そっと静の肩に触れる。

 一瞬頭をよぎった幸子の冷たい温度は、けれども静の身体は温かった。

「静」

 名を呼びながら、振り向かせる。大した抵抗もなく、彼女は覚束ない足取りでこちらに向いた。

 目が虚空を見ている。ぼんやりと、ただ茫然と、天井の暗闇を見ている。

「静」

 之治が静の視線の前に立つ。瞬間。

「ひっ、いやっ、いやだーー」 

 悲鳴が上がる。いやだ、いやだ、と泣きじゃくり髪を振り乱す。

「静っ、しず」

 震え上がる身体を支えて、名前を呼ぶ。視線を合わせようと思っても、彼女は頭を振って怯える。

「許してください許してください許してください」

 果てに静は頭を抱えて幼児のように蹲った。 

 異常事態だった。いつも名は体を表すとばかりに静かで、冷静な静が、ここまで怯え取り乱すさまを俺は見たことがない。

「之治」

「何を言っても聞かないと思うよ」

 助けを求めて見上げれば、首がゆるりと振られた。確かに之治の言うように、今の静は何を言っても耳に入らないだろう。同時に、静からは何があったのか聞くことも難しい。

「柳介達は」

 静がここまで取り乱している。何かがあったのは明白で、それはおそらく幸子の身に起こったことと大差ないような気がした。

 静と一緒にいたはずの柳介と美智子は、今どうしているだろうか。

「あそこ」

 之治が暗闇を指差す。人差し指で指す光景に、嫌な既視感が襲う。

 彼の指差す方向を見ても、やはり暗闇で、何も見えない。それならばなぜ、之治には見えているのだろうか。


 懐中電灯を照らす。

 最初に正面、立っているのならばそこに頭がある位置に、明かりを照らす。何もない。遠くの暗闇が懐中電灯の明かりを吸い込んで、光が空で途切れる。 

 丸く切り取られた明かりの中で、何かが上から下へと掠めた。次いで響く水音。

 雫が垂れたのだと理解した時、再び上から下へと雫が流れる。けれどもそれは、先ほどのような一滴ではなくて、もっととろりと粘度のある雫で。色は赤色。

 天井へと懐中電灯を向ける。

「み、ちこ」

 自分で無意識に言葉に出して、そうして自覚した。あれは、あの塊は美智子であると。

 肉塊だった。吐き捨てられたガムみたいになった肉塊。彼女が良く手入れしていた綺麗な手と、纏うみたいにくっついている服だけが残って、彼女だと証明している。

「柳介、は」

 はくはく、と呼吸が乱れる。

 何かがあったのだと分かっていても、実際に目の当たりにすれば頭は何も考えられないほど熱が溜まった。

「ーー」

 か細い声が聞こえた。柳介の声だ。

「柳介っ」

 叫んで、声がした方向を照らす。地面の方から声はした。

「りゅっ」

 すぐに見つかった地面に伏した姿に声を掛けようとして、かひゅ、と喉が嫌な音を立てて言葉を飲み込んだ。

「りゅう、すけ?」

「ーー」

 虚な目は虚空をぼんやりと見つめている。ぶつぶつと何かを呟く言葉は、こちらには音が聞こえるばかりで言葉として届いてはこない。

 柳介の足がこちらを向いていた。彼の頭だってこちらを向いているのに、足先までもがこちらを向いているのだ。

 震える手で、ままならない呼吸で、懐中電灯を奥へとずらす。

 半分に割れていた。彼の腰から下が上半身から分たれている。

 それなのに、彼はわずかに生きていた。

「静待ってて」

 思わず柳介に駆け寄る。上半身と下半身が真っ二つに割れているのにここから助かるのか、なんて分からなかった。ただ、生きている、それだけに神経が集中している。

「柳介、柳介っ」

 彼はぼんやりと虚空を見上げている。光のない瞳がただ怖い。

 がむしゃらに血に濡れた下半身を上半身に寄せる。くっつく筈なんてないと分かっているのに、くっつけなんて願いながら、断面を合わせた。明かりを反射したはみ出た臓物が生々しく赤黒く光る。 

「ーー」

「え」

 ぐるり、と作り物みたいに柳介の眼球が動いてこちらを見た。

 瞬間、ごぽりと口から吐き出される大量の赤色。

「っ、ごっ、ーー」

 溺れるほどの血液が吐き出され、それが止まると、柳介は静かになった。

 彼の身体に触れる。上半身には温度があるのに、彼は反応しない。震える手で首筋に触れれば、彼の脈はなかった。

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