トンネルの中
縁章次郎
トンネルの中 一
口火を切ったのは誰だったか。
「
誰もがその可能性に気がついていた。気がついていて、誰もが口にしなかったのだ。
場所ゆえに、誰もが人が居ないと言う事実を恐れた。
「ほ、本当に?」
「嘘なんか言わないよ」
首を力無く振るのは
「お前は一番前だったから、気が付かなかったか?」
之治は俺を見てた。俺は、少しだけ躊躇って首を振る。
「一番前だったから、実際見てはいない、けど」
「けど?」
「なんとなく、足音が少なくなったような、気がしてた」
そうだ。俺もまた、人が居なくなったのではないか、と言う気がしていたのだ。けれど口には出さなかった。だって、ここは。
「ま、待てよ。居なくなったつっても、ちょっと遅れてるだけかも知れねえだろ。あいつトロイからよ」
俺と之治は互いに顔を見合わせた。之治は首を振る。俺は彼の動作に頷いた。
暗い、暗い道が続いている。身体に染みていくような嫌な湿気が空気には漂っていた。
光源のライトを道に振り翳してみても、丸く切り取られたコンクリートが見えるだけだ。丸い光の外側は、そこで誰かがこっちを見てるんじゃないかって不安になるくらいに、不気味な黒色が広がっている。
暗くて見えない天井が、ライトを向けていない間に下がり迫ってきているような、妙な圧迫感があった。
しん、と静まり返った空間に耐えられなくなったらしい柳介が、幸子と叫んだ。
音は細いトンネルの中で反響し、やがてウワンウワンと遠くへと消えていった。
響いた声が、ある時急に別のものの声になってしまうのじゃないか。そんな妄想は、実現することはなかった。
「どこに、行ったのかしら幸子」
美智子が恐る恐る口にする。
どこか。普通ならば、引き返した以外はない。一本道なのだこのトンネルは。どこにも横穴は無かった。普通ならば幸子は嫌になって引き返してしまった。それが答えだ。
だが、ここは。この場所は。
「誰も気づかなかったのかよ」
不貞腐れたように柳介が言う。柳介は美智子と真ん中を歩いていた。その次に静と続いて、最後は幸子だった。柳介は言葉では、誰も、とは言っているが、目は静を見ていた。
「柳介」
嗜めるように声を掛ければ、柳介はこちらを睨みつける。
「静が後ろに居たからと言って、彼女が悪いわけではないよ。それに」
之治も続く。
それに、と続けて切られた言葉。その先は、きっと誰もが幸子が居ない可能性があると気づいていた、と言う事実だろうか。
「あの」
小さな声が上がった。静の声だ。
皆の視線が集まれば、静は大きな目をあっちへこっちへと動かしてから、そっと口を開いた。
「わたし、最後に幸子と一緒に並んでた時、なんか後ろで音が鳴って。だから怖くて前に出た。それで暫く美智子たちの前を歩いて、また抜かされた時、居なかった、か、も」
言葉はどんどん小さく、途切れ途切れとなった。殆ど声になっていなかった声は、それでも誰もがじっと彼女の声を聞こうとしていたから、全て聞こえてしまった。
静は全部言ってしまってから、しまった、と言ったような顔をした。そうして、俯く。
之治は俯いた静の前に出た。
瞬間、柳介が静に掴み掛かろうとして之治にぶつかる。
「どけっ、之治」
「落ち着け、静はあったことを話しただけだ」
之治が宥めても柳介は止まらない。
「ウルセェ。おい静、テメェっ。俺らが幸子が居なくなったの分かってて黙ってたって言いてえのかっ」
「静はそうは言っていないだろう。位置を戻った時に居なかった。彼女はただそう言っただけだ」
俺も静と柳介の間に入って伝えてはみるけれど、柳介は既にヒートアップしていて聞く耳を持っていない。
「俺らが幸子の側に居て気づいていて言わなかった、そう言ってんのと同じじゃねえかよっ。俺らが悪いっつってんだ、そいつはよ」
之治の体躯が誰よりも良いから柳介は静を掴めてないが、更にその間に入っている俺なんかは男連中の中では背が低いからもみくちゃだ。
「どけっ」
「いっ」
がつん、と柳介の掌底が目に当たる。
途端、之治が柳介の腕を取って捻り上げた。
「っ」
「そもそも、静を一番最初に責めるような事を始めたのはお前だろう」
之治の声は静かな声だった。そうして長いため息を吐く。
「気づいていて、黙っていたんだろう」
発せられた言葉は、今この時、どんな言葉よりも重かった。
俺も、静も、美智子も、柳介も、之治も気づいていた。幸子が居なくなったことに気づいていた。度合いは違くとも、なんとなくでも、気づいていたのだ。人が居なくなっていると。
けれど、誰も言わなかった。口にして仕舞えばそれが真実になるような気がした。
ましてや、ここでは、このトンネルでは、尚更滅多なことなど言えなかった。
「やっぱり」
沈黙が支配していた場で、美智子が震える声で呟いた。
「やっぱり、噂は」
呟くような声は、やがて不安定に揺れるように大きくなった。
トンネルの噂。トンネルの先には神様がいる。だから、トンネルに入ったものは、神様が気に入らなければ消えてしまうよ、とそんな話がある。
昔話、あるいは小学校の怪談。トンネルの話はそれらに近くて、だから、あまり恐怖感と言うものは無かった。
けれども、大人たちは皆口には出さなくとも、心のどこかで信じているような気がしていたから、なんとなく信じてもいた。全部を信じていたわけではないが、神様が祀ってあるのだろう、と言うくらいは信じていたのだ。
「あるわけねぇだろ、戻っただけだ」
柳介は言う。僅かに汗が浮かぶ彼の目は斜め上へと泳いでいる。
戻った、と言う言葉に誰も彼もが微妙な顔をした。
トンネルは道を引き返せば祟られる。あるいは、元いた所へ帰れなくなる。そう言われている。
陳腐な言葉だと幸子は鼻で笑っていた。だが、彼女はその実、祟りや呪いの言葉を怖がる。人よりも敏感に、祟りや呪いを恐れる彼女が、果たして一人で帰れるだろうか。
「進むか?」
之治が唐突に切り出した。
「進むかって」
静がぽかんと口を開ける。
「このまま俺たちだけで進むか。それとも、幸子を探しに戻るか」
道は二つに一つだった。皆が沈黙する。
柳介と美智子は互いの顔を見合わせ、静は俺や之治、柳介たちを見渡していた。
之治は俺を見た。お前はどうする、と視線で問いかけてくる。俺は頷いてから口を開いた。
「俺は、幸子を探した方が良いと思う。ただ帰っただけならそれで終わりで良いと思うし、何かあったなら捜索して貰わないと」
之治の目が細まる。笑ったようにも、何かを納得したようにも見える表情は、どんな意図であるのか分からない。
「じゃあ、戻るか」
「戻れるかよ」
戻ることに頷いた之治の声に半ば被せるように柳介は言う。
「戻らないのか?」
「ここまで来たんだ。戻れるか。それにどうせ幸子は帰っただけだ。一本道だったんだ心配いらないだろ」
切り捨てるように柳介は首を横に振った。
「でも、でも柳ちゃん」
「美智子も、願掛けに来たんだろ。ここまで来たなら進んだほうが良いと思うだろ」
「それは、まあ。でも」
曖昧に美智子は頷く。
神様への願掛けにやって来た。誰も彼もに願いがあった。
俺たちははみ出していた。皆、家族とも、同級生とも隔たりがある。繋がっているのは、この寄せ集めみたいな六人だけだ。
幸子は父親に殴られていた。静は母親が再婚して家で一人除け者。美智子は教育熱心な親に見捨てられている。柳介は母親に育児放棄されて育った。之治と俺は親がいない、捨てられた子供だ。
静と之治と俺は同級生たちと一線を引かれて遠巻きにされている。幸子や美智子、柳介は上手く行っているようにも見えるけれど、友達としては扱われていない。
だから、願いがある。もう殴られたくない。また離婚して貰って二人だけで。姉と一緒に父親も母親も居なくなっちゃえ。放棄するくらいなら弟たちを産むな。そう言う願いがある。だから、トンネルにやってきた。神に縋るために。
「わ、わたしは、進むよ」
「静」
俯きながら進むと口にする静を見やる。
「私、本気なんだ。本気で叶えたいと思ってるし、それに本当に叶うかもってここに来た時思ったの」
静は一度顔を上げた後、再び俯いて言葉を繋げた。
「だから、だから。危ないかもって思っていてもここに来た。例え、昔死体が見つかったって記事を見つけたってここに来たんだ」
昔の新聞記事。十年前と二十年前の記事だった。探したらもっとあるのかも知れない。
トンネルの入り口で死体が見つかっている。それも不可解な死体であったと言う。
見つかった死体は二つの記事で全部で五つ。十年前は二人、男女二人は夫婦か恋人であろうと言う。何も持たない死体は、顔も、耳も、歯も、指も、足も、抉れていた。
二十年前が三人、関係性は不明。やはり何も持っていない死体は、ミイラとなっていたものもあれば切り裂かれていたもの、昨日死んだかのようなものが三つ転がっていたのだと言う。
「わっ、私もっ、進む」
静の言葉に触発されたように、美智子が叫んだ。恐怖はあるようだった。それでも願いの方がずっと大きいのだ。それは、祟りを怖がっていた幸子も一緒だ。どれだけ怖くても、叶うかも知れぬのなら藁にも縋りたいのだ。
「幸子を探すんならそれでも良い。でもそれはお前らが行け。俺らは進む」
柳介は既に暗く湿ったトンネルの先を見つめていた。もう引き返す選択肢は彼の中に少しもない。
少し、異様だと思った。それぞれの願いが強いのは知っていた。皆、どうしたって叶えたい願いがあるのは分かっていた。それでも、ここまで神様に縋るのは、それも寄せ集めだと言っても友人を放っておいてまで進もうと思うのは、少し異様だと思った。
皆が皆、爛々とした光が目に宿っているようだった。それは俺と之治、柳介と静のそれぞれが持つ懐中電灯の明かりがトンネルの湿った壁に反射して目に差し込んでいるからなのか、彼らに感じる異様さがそう見せているだけなのか、分からない。
「柳介」
「なんだ」
「本当に行くのか」
「当たり前だろ。止めんなよ」
ぎらり、と歪に光る眼光がこちらを見る。やはり異様さを感じた。
静と美智子も決意したように、トンネルの先を睨んでいた。
「幸子は」
「あいつは、引き返しただけだ」
「祟りが怖いって言ってたし、怖くなっちゃって帰っちゃったのかも」
きっとそんなわけはないと、柳介と美智子も心のどこかでは思っている筈だ。二人とも目が其々の方向に逸れていた。でも引き返すことはできないから、幸子が一人引き返したと言うことで納得しようとしている。
「わたし、さ」
「うん」
聞こえるかどうかの静の小さな声を聞き取ったのは之治だった。
「わたし、幸子だったら、願いを叶えに行って欲しいと思う」
「どうして」
「だって、叶えたいんだ、自分の願い。どうしても、幸子も私も叶えたい。ここならそれが叶うって幸子と二人で頷きあった。絶対に叶えようって口には出さなかったけれど、頷きあったんだ。だから」
静の目がトンネル奥を捉える。ぎらぎらとした目に映るのは希望なのだろうか。
「それに、もしかしたら幸子は叶えるために引き返したのかも」
静の震える声は、怯えではなくて、興奮に近いもののようだった。彼女は興奮を噛み殺すように、歯を噛みしめて一度息を吐き出した。
「何かを聞いたのかも。導かれる声とか。だって叫び声もあげなかったんだよ。だから、神様の声聞いて、そっちに行ったのかも」
静の口角が歪に吊り上がる。己の言葉を少しも疑わない顔で、笑っていた。幸子を探しに戻らない後ろめたさは殆どが形を潜め、僅かに残った罪悪感以上に己の言葉に納得して、神様の存在が近くなったことに喜んでいる。
「静、それは」
「静の言葉の方が、帰ったより可能性がある。静の言葉の通りかも」
どこかおかしい、と言葉にするよりも早く、柳介の同意の声が上がった。柳介は一心にトンネルの先を見つめている。真っ黒な、墨色よりも暗い闇の先、静や柳介にはまるで何かが見えているようで、嫌な感じがする。
柳介の傍の美智子に視線を移せば、彼女もまた、二人の言葉に何度も頷いていた。
「ね、幸子は神様の所に行ったんだよ。だから、私たちも進もう? 皆んなで行こう?」
美智子は六人皆んなで行動するのが好きだ。だから、俺や之治も一緒に、と誘う。だからこそ、一人、幸子がいない、と言うのに進もうとする彼女はやはりおかしい。
「美智子、幸子は一緒じゃない」
「一緒だよ。先に行っただけ。だから私たちも追いかけなきゃ」
「美智子」
思い込んでいる。思い込もうとしている。
之治と俺は顔を合わせる。之治は僅かに視線を下げた。何を言っても駄目だ、と視線が語る。
「分かった」
美智子の顔が明るく華やぐ。柳介もこちらを見やった。静は少しだけこちらを見てから、急くように再びトンネルの先を見つめる。
「俺と、之治は幸子を探しに行く」
之治を伺えば頷いてくれたので、彼もこちらの頭数に入れる。
幸子を探しに行くと伝えれば、美智子は途端に眉を下げて、柳介は舌打ちをした。静はもう一度こちらを伺ったけれど、結局視線を戻してしまう。
「でも、幸子が見つかったら、すぐに戻ってくる。見つからなかったら、またその時考えるけど、多分、それでも戻ってくるよ」
「本当?」
「うん、本当」
美智子がほっとしたように息を吐く。
「それまで待ってて貰うことって」
「それなら、先に進んでる」
ぶっきらぼうに柳介が言う。三人ともそわそわとして、すぐにでも進みたそうで、立ち止まらせておく事は難しいと伺えた。
「分かった。なるべく早く合流できるようにするから、ゆっくり歩いててくれると助かる」
柳介は納得したようで、歩き始める。暗いと言うのを差し引いても、先ほどよりもその足取りはゆっくりだった。
「先に行くね」
静も言葉だけ残して歩き出した。
「すぐ来てね」
最後に美智子がこちらに手を振ってから柳介の隣まで歩き出す。
「気をつけて」
どちらにも不安がある。幸子にも、柳介たちにも。果たして、行かせて良かったのだろうか、とひたひたと冷たいものが胃の腑を触る。
それでも彼らの願いを邪魔することはどうしたって出来ない。ずっと傍にいたのだから、どれだけの願いかなんて知っている。
既に場が異常である、と気づいたそれに、無理に蓋をした。
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