第65回 いつまでも隣に
佐々木キャロット
いつまでも隣に
「エレナ。入るよ」
美羽は病室の扉を軽く叩いた。少し待ったが、返事は返ってこない。それを気にすることもなく、美羽はゆっくりと扉を開けた。
病室の真ん中には一台のベッドが備えられており、その周りを多様な機械が取り囲んでいた。窓はカーテンで隠され、薄暗い部屋に機械の刻む、ピ、ピ、ピという音だけが静かに鳴っていた。
「おはよう、エレナ。今日もいい朝だね」
美羽が声をかけたが、やはり返事はない。
「今日も一日晴れの予報だよ。春らしい暖かな日だ」
美羽が分厚いカーテンを開けると、部屋の中に朝の柔らかな陽ざしが差し込んだ。窓の外には満開の桜の樹が見える。ピンク色の花びらが風にひらひらと舞い落ちていた。
「今日はラナンキュラスの花を持ってきたよ。いつもの花屋で買ったんだ。丸いフォルムの可愛いお花だよ」
美羽はサイドテーブルに置いてある花瓶に真っ赤なラナンキュラスの花を挿した。無機質な病室に少しだけ春の風が吹いた。
「じゃあ、朝の健診を始めるね」
美羽はベッドを取り囲む機械の前に立つと、手に持った用紙へ、モニターに表示される数値を一つ一つ丁寧に書き込んでいく。
「……七十四、百十二、九十八。うん、安定しているね。いい調子だ」
美羽は優しく微笑みかけるが、依然として反応はない。
「次は採血だね。腕を借りるよ。少し痛いけど我慢してね」
美羽はベッドの横の椅子に腰かけ、注射器を取り出した。左腕を近くに寄せ、その青い筋へ針を刺し込む。プランジャをゆっくりと引き抜いていくと、シリンジは徐々に赤黒い液体に満たされていった。
「はい、お疲れ様。朝の健診はこれで終わり。また、夕方に健診があるからね」
美羽は道具を片付け終えると、ベッドの方へ向き直った。
寄せたままになっていた左腕を撫でてみる。指をその細い腕に沿わせ、手の平へ滑らせ。そのまま指を絡み、少し冷たいその手を握ってみる。昔、夜の街を二人で歩いたときを思い出しながら、優しく。指輪が触れ合って、カチカチと小さく音を立てた。
「ねぇ、エレナ。今日が何の日か覚えてる?私たちが初めて会った日だよ。初めて会ったとき、私はエレナのことが怖くてさ。凄くぐいぐいくるし。人付き合いの悪い私と違って、エレナは明るくて友達も多くて、なんで私なんかに話しかけてくるんだろう?って怖かった。裏で私のこと馬鹿にしてるんじゃないかって思ってた。でも、一緒に過ごすうちに、そうじゃないんだって気付いたんだ。エレナは心から楽しんでる笑い方をするし、犬にも猫にも誰にでも優しいし。子供みたいに純粋な娘なんだってわかった。実は一目惚れして、仲良くなりたくて声をかけたんだって教えてくれたのも嬉しかった。あのときのエレナ、顔真っ赤だったね」
口から伸びたチューブに触れないように気を付けながら、美羽は頬を優しく撫でた。脳裏には、あのキラキラとした笑顔が浮かんでいる。
「エレナには本当に感謝してる。何かもが楽しくなかった私に生きる喜びを思い出させてくれた。エレナがいなかったら、私どうなってたかな。きっと、死ぬこともできず、ただ鬱々とした毎日を漫然と過ごしていたと思う。私が陽の暖かさを感じたり、春の花を楽しんだり、いま、こうして生きていられるのは、エレナのおかげなんだよ」
美羽は頭をその薄い胸の上に載せた。ふんわりと甘い桃の香りがする。美羽が誕生日にあげた香水の香り。二人で出かけるときはいつもつけてくれていた。
「……でも、エレナは。ずっと一緒、ずっと私の隣にいる。そう言ってくれたのに。健やかなる時も病める時も愛し合う。そう契約したはずなのに。私を置いて行ってしまう。他の人たちと同じように」
ペースメーカ―による周期的な鼓動が耳を通して伝わってくる。美羽の視界には皺だらけになった首筋が映っている。
幸せだった時間は過ぎ去り、流れた年月がその身体を蝕んでいた。弱く、脆く、壊れゆく。それが自然の摂理であり、生物としての運命である。
「置いていかないでよ、エレナ。私、また独りぼっちになっちゃう。なんで、連れて行ってくれないの?エレナと一緒に行きたいのに。どうして私は死ねないの?こんな身体、嬉しくない。エレナがいなきゃ、生きていても意味なんかないのに」
美羽は泣き叫んだ。動かぬその身体へ訴えかけるよう、何度も何度も。肉の少なくなった胸は固く、 美羽の声を受け付けはしない。声は、ただ、病室の白い壁の中へひっそりと溶け込むばかり。後には、ピ、ピ、ピ、と刻む機械の音だけが鳴り続けていた。
「……そろそろ行くよ」
長い静寂の後、美羽はゆっくりと顔を上げた。
「またすぐに来るから」
持ってきた荷物を手に立ち上がり、そのまま静かにベッドから離れた。
扉を開け、病室を振り返る。
明るい陽射しに包まれて眠る彼女の年老いた姿を見つめた。
「エレナ、大丈夫。私は手を離したりしないから。いつまでも私の隣にいてね」
美羽は微笑み、そっと扉を閉めた。
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