地獄遊山編

開幕 : 落命

 夕焼けに染まる空の下、俺は百目探偵事務所からの帰り道を歩いていた。

 昭和三十九年の東京――高層ビルの影が長く路地に伸び、ネオン看板がぼんやりと灯り始める夕暮れ時だ。むせ返るような蒸し暑さに、ワイシャツの襟元を指で引いて風を送り込む。

 背広の内ポケットにねじ込んだ新聞の角が汗で湿ってくしゃりと歪んでいた。夏の終わりが近いとはいえ、都会の熱気はまだ当分引きそうにない。


 三日前、東京中を騒がせた「妖怪失踪事件」がようやく幕を閉じた。

 百目や仲間たちと奔走し、失踪した妖怪たちの行方を追って戦ったあの日々――そして地下神殿での死闘の果てに、全てが決着したのだ。

 街には再び静けさが戻り、日常が続いている。俺もこうして、いつものように事務所のアルバイトを終え、家路についている。


 だが、解放感に浸るどころか、胸の内には重い不安が居座っていた。

 今日は事件終結から数えて三日目。

 夕闇が迫るこの時間を、俺はひそかに恐れていたのだ。

 胸の奥でずっと消えない声がある。あの日、薄暗い地下空間で響いた祖父・えにしの声。

 

 ――純壱、お前は三日後に死んでしまうよ

 

 あれは確かに祖父の声だった。死の淵から届いたような、不気味なほど澄んだあの囁き。それ以来、俺はずっとこの日を意識してしまっている。


 もちろん、誰にも話してはいない。

 所長の百目ひゃくめにも、鎌鼬かまいたちにも、皆には言えなかった。せっかく大事件を乗り越えて安堵したところに、縁起でもない話を持ち出す勇気はなかったのだ。

 

 それに本当かどうかもわからない。ただの気のせい、幻聴かもしれないじゃないか——自分にそう言い聞かせて、何とか平静を装っていた。今日だって、朝から努めて普段通りに過ごし、他愛ない冗談を飛ばして笑い合ったりもした。

 

 仲間たちと別れるときも「じゃあまた明日!」なんて明るく手を振ったのだ。それなのに、心の奥底ではずっと時計の針の音が響いている。まるで命の残り時間を刻むかのように。


 夕焼けの朱に染まった商店街を抜け、路地裏へと入る。人通りは少しずつ減り、聞こえてくるのは蝉の声と遠くの路面電車の軋む音ばかりだ。


 次第に陽が落ちて街の輪郭が溶け始めると、心細さが募る。早く家に帰ろう――足早にそう思う一方で、家に辿り着いたらその先に何が待っているのか、考えると怖かった。

 灯りのともった家の玄関をくぐれたら、そのとき初めて安心できるのだろうか。

 それとも、三日後というのはつまり“この三日目のうち”に、俺は……。


「……バカバカしい」

 

 思わず独りごちて、頭を振った。

 あんな声、一度聞いただけじゃないか。何も起きずに今日が終われば、ただの思い過ごしだったと笑い話にできるはずだ。


 そう自分に言い聞かせても、不安は胸の内でじっと居座ったままだ。湿った空気が皮膚に纏わりつき、背筋に嫌な汗が滲む。


 街灯の下を通り過ぎる際、長く伸びた自分の影が妙に薄く感じられて、心臓が跳ねた。何でもない、ただの影じゃないか……。


 ざり、と背後で小砂利を踏む足音がした。

 

 思わず足を止めて振り返る。薄暗い路地には人気がない。路肩に積まれた木箱と錆びたポスト、それに古ぼけた塀が続いているだけだった。

 奥まで目を凝らしても、人影はどこにも見当たらない。耳を澄ませても、さっきの足音はそれきり聞こえなかった。

 代わりに、自分の鼓動ばかりがやけに大きく響いている。

 

 ……気のせいだろうか? それとも俺の後を誰かが……?


 一度強くかぶりを振って、再び歩き出す。

 古い塀沿いの道を進むにつれ、確かに後ろで誰かが歩いている気配がある。


 振り返っても、やはり誰もいない。


 心臓の高鳴りがますます激しくなっていく。たまらず早足になると、それに呼応するように背後の気配も速まった気がした。


 やはり誰かいる――そう確信した瞬間、悪寒が背筋を駆け上がる。頭に血が上り、鼓動に合わせて視界がじんじんと脈打った。


「的場純壱だな」


 不意に背後から男の声がかかった。

 同時に、全身が氷づけになったように固まる。喉がひゅっと音を立て、心臓が一際大きく跳ねた。

 振り返りたいのに身体が言うことを聞かない。背中に視線を突き刺すような気配……間違いない、すぐ後ろに誰かがいる!


 俺は意を決して振り向いた。薄暗がりの中、街灯の明かりに浮かび上がったのは、濃紺のスーツを着た長身の男だった。

 涼しげな目元に端正な顔立ち。癖にある長い髪を、下の方で結っている——どこか浮世離れした美しさすら感じさせる美丈夫だ。

 しかし、その醸し出す威圧感に思わず息を呑む。

 暗い路地で対峙するには場違いなほど洗練されたその男は、静かにこちらを見下ろしていた。


「は、はい……」


 辛うじてそれだけ答えるのが精一杯だった。声が震えていなかったか、自信がない。

 男の視線と真正面から向き合うと、胸の奥が萎縮するような感覚に襲われる。呼吸するのも苦しい。

 誰だ、この人は……?

 ただ者ではない、その直感だけが全身に突き刺さっていた。


 男はスッと切長い目を更に細め、一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべたように見えた。だがすぐに、その双眸には鋭い決意の色が宿る。


「すまないが、死んでもらう」


 静かだが酷薄な宣告だった。低い声に込められた力が、闇の中で稲妻のように弾けた気がした。


「え……?」


 死んでもらう? 今、何と——理解が追いつくより早く、男の右手がゆるりと空を払った。


 刹那、世界が白い閃光に包まれた。

 

 視界が真昼のように真っ白に燃え上がり、同時に轟音が鼓膜をつんざく。まるで天空から雷が直撃したかのようだった。

 いや――実際、頭上から巨大な雷が俺に向かって落ちてきたのだと悟った瞬間、全身が焼き付くような衝撃に襲われた。


 五感が一度に破裂する。

 体の輪郭が崩れ、自分が自分でなくなっていく。猛烈な光と熱と音に貫かれ、意識が吹き飛びそうになる。痛みも恐怖も、一瞬にして吹き飛んだ。ただ、これが“死ぬ”ということなのかと——頭の片隅で冷静な声が呟いた気がした。


 体が宙に浮いたように感じた。地面から足が離れ、世界から切り離されていく。時間の流れが遅くなる。

 白い光の洪水の中で、遠のいていく現実を眺めている自分がいた。夕暮れの街も、蝉の声も、何もかもが遠ざかっていく。


 じいちゃん……本当に、三日後に俺、死んだよ。


 胸の中でそう呼びかけたつもりだった。だが声は音にならず、闇に溶けて消えていく。


 静寂が訪れた。すべてが無音になり、白い光もすっと引いていく。浮遊感に包まれながら、俺はゆっくりと深い闇の底へ沈み込んでいった。

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