第六章 : 不吉な印

 静かな朝だった。


 探偵事務所の障子越しに、薄曇りの陽が滲んでいる。

 畳の匂いに、墨と香のかすかな残り香が混じる。

 紙の擦れる音と、湯気が立ち上る音だけが、室内にゆっくりと溶けていた。


 「……また、一人いなくなったか」

 

 百目がぽつりと呟く。


 畳に膝をつき、記録簿をめくる指先には疲労の影が色濃い。

 用紙は古く、けれど記された文字はどれも滲みひとつ許されぬ整い方をしていた。

 まるで“残される”ことを強いられた記録のように。


 その隣で、俺は湯呑みを傾けながら、そのページを目で追っていた。


 失踪者、失踪者、失踪者。


 どの名にも、既視感がある。

 どれも──妖怪だった。

 

 昨日までは、そこにいたはずの誰か。

 姿形は残されず、名前と“いなくなった”という事実だけが記録として並んでいる。


「……気づいたかい?」


 百目が、こちらを見た。

 その目は、疲れていながらもまだ視ていた。目ではなく、記録の“裏側”を。


「この名簿と、失踪場所を表した地図を見てみなさい……都内に集中しているだろう。千葉、埼玉、神奈川──周縁では誰も、消えていない」


 言葉が落ちる。

 心の奥で、何かが微かに震える。


 なぜ、“ここだけ”なのか。


 東京。

 妖怪が人と共に生きる場所だったこの街の中で──

 都心だけが、ぽっかりと“抜け落ちて”いる。


「これは、偶然ではない。明確な“計画”によるものだ」


 百目は湯呑みに手を伸ばし、口をつけずに指で縁をなぞる。

 その仕草が、妙に重たく見えた。


 そのとき、障子が静かに開いた。


 「──よう。探してきたよ」


 ――鎌鼬だった。

 軍帽をわずかに傾け、肩には朝の風を引き連れている。

 その瞳は、まっすぐにこちらを見ていた。


「やっぱり、妖怪の失踪が起きているのは東京の“中”だけだ。

 川越でも、川崎でも、何も起きてない。

 けど、都内は違う。とくに、目白台から東側──“水の下”に集中してる」


 百目が、静かに記録簿を閉じた。

 次の瞬間、鎌鼬がさらりと付け足した。


 「あと、ふたり“助っ人”を連れてきたよ。一人は、百目、お前きっと驚くぜ。たまたま近くにいたんだ。感謝しなよ」

「ほう?」


 障子がもう一度開いた。

 

「お邪魔いたしますよ、百目の旦那様。そして人間の坊ちゃん」

「おう、“青行燈”。無事なようで何より。何処に隠れていた?」

「へえ。私は“影”で御座いますれば──流石の相手も、貴方様“達”のような稀有な目を持っていなければ、捉えられなかったのでございましょうなぁ」

 

 ――青行燈だった。


 長い黒髪は、結わずに垂らしたまま。内側だけ、青い火が燃えているような、不思議な色をしていた。

 長い前髪のせいで、顔は見えないが……細身で美しい顔付きなのだろうな、とその所作や雰囲気から察しがつく。

 薄い紺の着物を纏うその姿は、まるで空気に焦がれる焔のよう。“彼”が部屋に入った瞬間、事務所の温度が変わった気がした。

 冷えたというより、空気の粒が細かく、ざらついたような。

 

 そして、もうひとり――その妖怪を見て、俺は思わず飛び上がった。

 

「か、鎌鼬さん!? その妖怪は――“青頭巾”じゃないですか!」


 それは、黒い法衣の男だった。

 青髪。短く刈られた頭。中年の顔。けれど、目だけがあまりに若すぎた。

 ――青頭巾。数日前、神社で俺を殺そうとした妖怪だ!

 

「あれ、純壱ちゃんは青頭巾を知ってるのかい?」

「おう、坊主。また会ったな」

 

 青頭巾は畳に腰を下ろすと、ゆるやかに胡座をかいた。

 姿勢は穏やかだが、肩に掛けた法衣の奥からは、どこか鋭いものが滲んでいた。


「まあ、落ち着け! あの時は、拙僧もいろいろ混乱していたのでな」

「“殺そうとしていた”人間に対して、それはだいぶ都合のいい言い分では……!?」

「あっはっは! 言われてるぞ、青頭巾!」


 俺が恐る恐る返すと、鎌鼬が腹を抱えて笑った。

 青頭巾は咳払い一つでごまかした。


「拙僧が今回ここに来たのは、“坊主狩り”のためではない。

 ……この国の“水の通り道”に、何かが“逆流”している。

 おそらく、それに気づいている者は少ないがな!」


 その言葉に、青行燈がふわりと扇を開いた。

 彼の指先が、静かに畳の上に広げられた地図の上を撫でる。


「東京の下には、“もう一つの東京”が流れておりまして、それは“川”としてではなく、“痕跡”としての水脈──

 過去に妖が通い、通していた“道”でございます」


 地図の上に、細い筆で引かれた水路が浮かび上がる。

 それは現在のものではない。昭和以前、大正……いや明治よりも前に使われていた“古い流れ”。


「利根川、多摩川、江戸川。

 それらが、どう分岐し、どこに通じていたか。

 “流れ”が整いすぎているのです」


 青行燈の声は冷たく、それでいて澄んでいた。

 まるで氷に閉じ込められた灯のようだった。


「では、“それ”を使って攫っていると?」


 百目が地図の端に指を置いた。

 そこから円を描くように、いくつもの流線が都心部を包み込んでいる。

 あらゆる“消失地点”が、この“水の線”に重なっていた。


「中心は……“ここ”だな」


 指が止まった先には、赤い点がひとつ。


「ここって……“広浄”……?」

「そう。正式には“東京都水道局東多摩広域浄水場”。

 いくつもの水脈の中継地点。そして、おそらく“あいつ”の拠点だ」


 “あいつ”とは誰か、誰も口にしなかった。

 けれど、場の空気が確かに一段、冷たくなった。


「そこの局長の息子が、佐城博って奴でね」

 

 鎌鼬が低く言った。


「職員達の“風の噂”によると、陰気で根暗な餓鬼だそうだ。 大学を休学して引き篭もっていたそうだけど、ここ数ヶ月前から頻繁に広浄に出入りしていたそうだよ。

 百目、“追える”かい?」

「すでに広浄内に目をいくつか“置いている”。だが……可笑しいな」

「なにが可笑しいんですか?」

「ああ――“職員の姿が見えない”。中には人っ子一人おらんぞ」

 

 ――なんだって?

 

 「人がいないって……じゃあ誰が稼働させてるんですか?」


 思わず口に出していた。

 広浄が、完全に無人だというのなら、浄水の設備は、電気も水も止まっているはずだった。


「それがね──“動いている”んだよ」

 

 鎌鼬が言った。


「水は流れている。揚水機ポンプも音を立てている。ろ過槽にはきちんと水が入り、処理された水は管を通って町へと流れてる。

 でもな、“誰もいない”。管理してる奴が、一人も見えないんだ」


 百目の指先が、机の上の地図をすっとなぞる。

 流線が重なった部分。広浄の敷地の中でも、最も深い部分に印が記されていた。


「“動いているのに人がいない”ということは、何者かが、“人の代わり”に動かしているということだろう」

「つまり、犯人は“中にいる”と……」


 俺の呟きに、誰も返さなかった。

 ただ、室内の空気がまた一段階、沈んだ気がした。

 

 そのとき。

 青行燈が、ゆるやかに扇を畳んだ。


「……そろそろ、見えましょうや」


 彼が示したのは、地図の上ではなかった。

 畳の隅に置かれた、透明なフィルムの上。

 百目が重ねた透明地図の上に、蒼い光がわずかに浮き上がっていた。


 それは、線だった。

 線が線を呼び、幾何学を描き、円環のように閉じていく。

 浮かび上がったそれは──シンプルな魔法陣のようにも、紋章のようにも見えた。


「……これ、一体──?」

「“悪魔の印”だ」

 

 青頭巾の声が静かに落ちた。

 

「拙僧は知っている。以前に見たことがあるからな。

 これは、“呼び出す”ためのものではない。

 “記す”ためのものだ。“ここにいる”という、証。悪魔共の“存在証明”だ」


 右目が、脈打った。

 それは図ではなく、実際に地面の下に流れる何かを捉えているようだった。


「じゃあ、そこにいるのは……悪魔ってことですか……?」


 問いが、恐怖として口をついた。

 百目は答えなかった。

 ただ、右手の指を静かに組んだまま、しばし黙していた。


 その視線には、何かを“思い出そう”としているような、迷いが滲んでいる。

 

「……“毘沙門天”を呼ぼう。この一件、“今の我ら”には荷が重すぎる」

「そうだねぇ。ついでに“あの御方”の御助力を得られれば、1番いいんだけど」

「それは無理だな! あの御方は、俗世を離れて久しい。声も届くかどうか」

「うむ。……青行燈、通行証を渡す。神社まで遣いを頼まれてくれ。

 そして暫くそこで身を隠しなさい。外様とざまの悪魔とはいえ、神聖なる場所には近付けまい」

 

 やがて彼は、静かにそう告げた。

 

「行こう、広浄へ」

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