終幕 : その感情の名は

「……ここに、いたのか」


 小さな寺の隅、苔むす墓石の前に、私はそっと立った。

 夕暮れの風が、梢をゆらす。頬に触れる空気はどこか乾いていて、それでいて、じんと滲み入るような温度を持っていた。


 静かな場所だった。

 鳥の声も、虫の音もない。ただ、どこからか焙じ茶のような香りがしていた。


「随分と静かになりやがって。別嬪な嫁さんと、立派な息子に、可愛い孫まで……悔いなんて、ないだろうな」


 墓前に手向けられた花は萎びていた。

 だが、誰かがつい最近訪ねたように、墓石の下は、どこかあたたかかった。


 私は一升瓶の口をひねり、盃に注ぐ。

 揺れる酒面に空の色が混じる。金色とも銀色ともつかぬそれを、私はぐいと喉へ流し込んだ。


「こないだな、君の孫が来たよ。あの生意気さは、どうやら雪子譲りだ。……君の顔に、似ていないでもなかったな」


 土の上に胡坐をかくと、膝が少しきしんだ。

 ため息交じりに座り込むと、墓石の影が、背中に冷たい。


「まったく……君は、最後まで困った男だったよ。

 あんな火種を残したまま、何も言わずに行っちまって」


 酒の瓶が軽くなる。注ぐたびに、空になっていく。

 それがまるで、自分の中の何かが減っていくように思えた。


「本当、酷い奴だよ、君は」


 ぽたり。

 盃の中に、なにかがひとつ、落ちた。

 風が吹く。けれどそれは、頬の涙を拭うほど優しくはなかった。


「ついに一度も、私の“名”を呼ばなかったな。あれだけ一緒にいたんだ、呼ぶ機会なんていくらでもあっただろうに」


 墓石は、何も言わなかった。

 けれど、言葉のない返事のようなものが、じわりと胸に沁みた。


「次に会うときは、ちゃんと呼んでくれ給へよ。

 ……一度だけでいい。捨てたものだが、その名を」


 立ち上がる。足が、少しだけふらついた。

 それを誤魔化すように、背筋を伸ばす。


 名乗らない方がいい時代もあった。

 その名が、誰かを傷つけるかもしれないと、恐れていた時もあった。


 だからきっと――“想い”なんてものは、巻物の中にしまってしまってよかったのだ。

 視える理と共に、燃え残る過去の全部を、そこに押し込んで。


 けれど、今だけは。


 この場所だけは。


「……どうやら私は、“燃える”程度にゃお前を愛していたらしい」


 背を向ける。墓石は黙ったままだった。

 けれど、歩き出した私の背に、どこか温もりのような風が触れた気がした。


「なんだよ、今さら……待ち続けていた私が、馬鹿みたいじゃないか」


 小さな声。誰も聞いてはいない。

 

 墓前の盃の酒が、風もないのに、小さく揺れていた。

 私は、それを見なかったふりをして、静かに門をあとにした。

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