第3話 B45

 神経質そうにパソコンのキーボードを叩き、中原は息をついた。そこでコンコン、と診察室のドアがノックされ、コーヒーカップを持った優佳が顔を覗かせた。

「榊先生、根を詰めすぎですよ。少し休憩しましょう?」

呼びかけられ、中原ははさりげない動作でパソコンのモニター画面をスクリーンセーバーに切り替えた。そして伸びをして立ち上がる。

「ああ、そうだな」

「お砂糖はいりませんよね。お茶請けはおせんべいでよろしいでしょうか?」

「ありがとう。君は良く気が利く」

ソファに移動して、中原は差し出されたコーヒーカップを手に取り、熱い液体を口に運んだ。優佳は一旦給湯室の方に引っ込んだが、今度は自分のカップを持ってきた。そして中原の正面のソファに腰を下ろす。

「この前のダイブの報告書ですか?」

「ああ。世界医師連盟にせっつかれていてね。加えて、公安にも資料の提示を要求されている。そちらはまだ、提出するかしないか、赤十字委員会の返答待ちだな」

「公安……」

優佳は不安そうに表情を曇らせて、カップの水面に視線を落とした。

「その、私……まだ信じられません」

躊躇いがちに発せられた言葉を聞いて、中原は表情を動かさずにコーヒーに口をつけた。そして口を開く。

「何が?」

問われ、彼女は一瞬息を詰めたが、ポツリと言った。

「赤十字病院の医療ネットワークに、施術中に侵入してくるなんて……そんなの、非人道すぎます」

「…………」

「もう、やっていることはテロリストじゃないですか。危険です。愛里寿ちゃん、この前のクランケの脳内で、ニアミスしたんでしょう? もし危害を加えられていたら……」

カタカタ、と音を立てて優佳の持つコーヒーカップが揺れていた。中原は息をついて、コーヒーカップをテーブルに置いた。そして静かに言う。

「君は優しい子だな」

「茶化さないでください。私は、本当に……」

「どうか、その優しさで愛里寿をケアしてやって欲しい。これは、私の最大の願いだ」

せんべいを手に取り、中原は掌で軽く押して割った。カケラを口に入れて、彼は続けた。

「兎のマスクを被った、病院服の少年。愛里寿の話だとそこまでしか分からないが……君にも説明した通り、先日のクランケへのダイブ施術の際、医療回線にハッキングが入っている。手段は不明だ。今回はその目的も不明。いたずらに愛里寿の前に姿を現しただけだな。君の言うように、公安及び赤十字は、一連の医療妨害行為を、テロと位置づけるようだ」

「榊先生は、ご存知だったんですか……?」

伺うように問いかけられ、中原は一瞬沈黙した。そしてコーヒーカップを手に取り、首を振った。

「いや、検討もつかないよ。だが、心配をすることはない」

「…………」

「日本の公安の捜査力は凄まじい。それに、世界有数の医療技術を持つ赤十字病院の総本山だ。医療テロなんて馬鹿げた妨害行為は、すぐに終結するさ」

「でも、でも……もしまたクランケの脳内で、愛里寿ちゃんがテロリストに遭ったら? その時は、危害を加えられない確証なんて……」

「愛里寿なら大丈夫だよ」

表情をピクリとも動かさず、中原はガラス球のような目で優佳を見た。その目は、続けて言葉を発しようとした彼女の口を反射的につぐませた程、どこか無機的で人形的だった。

「テロリストごときに敗けるわけがない」

「榊先生……?」

思わず中原の名を呼んだ優佳だったが、そこで小さな足音が聞こえて慌てて立ち上がった。

「優佳ちゃん……優佳ちゃん、どこ……」

愛里寿のか細い声だった。優佳が駆け寄ると、愛里寿は壁に寄りかかって泣きそうな顔をしていた。

「どうしたの? お昼寝はいいの?」

「トイレ……でも杖がどこかに行っちゃって……」

愛里寿は、見て分かるほど狼狽していた。彼女を抱えるようにして、優佳が奥の手洗いに消える。

中原は無表情でそちらを一瞥すると、またせんべいのカケラを口に入れた。そしてデスクの上のタブレットを掴んで、指先で操作する。そこに表示されていた古い新聞記事の切り抜きに、視線を落とす。

色褪せた新聞記事は、日本語ではない。中東の言語。そして、荒い印刷で表示されている写真には、薄暗い部屋で、椅子のようなものに縛り付けられて脱力している、男性……と思われる人影が写されている。その人影は、明確にはっきりと見えないが、何かのマスク……兎の頭部のようなものを被せられていた。


「怖い夢?」

優佳に聞かれ、愛里寿はコクリと頷いた。

先日のダイブ施術から、すでに一週間程が経過していた。まだ昼間だったが、中原は医院を早く締めて外出中のため、院内には優佳と愛里寿の二人しかいなかった。

ピンク色で構成されている愛里寿の部屋で、優佳はベッドに腰掛けている彼女を見た。

「榊先生には相談した?」

愛里寿は、胸に大きなテディベアのぬいぐるみを抱きしめながら、また頷いた。

「先生は気にするなって言ってた」

「そっかー」

愛里寿が怖い夢を見ることは、割と多いことではあった。人間の負の部分に触れるのだ。奇妙で鮮烈な体験を多くしている彼女が、あっけらかんと過ごしているのは、優佳にとっては不思議なことだった。だが、大抵はいつも一晩くらい経てばスッキリ夢のことなど忘れている。

しかし今回の怯えようは、今まで見たことがないものだった。優佳は手を伸ばして愛里寿の小さな手を握った。そして口を開く。

「どんな夢? 聞くよ」

「…………」

愛里寿は伺うように少し沈黙し、躊躇いがちにそっと言った。

「ドクロのマスク」

「ドクロ?」

突然発せられた言葉をすぐには理解できずに、優佳は首を傾げた。

「……だと思う。それが、ずっと私のことを見てるの。何しててもずっと見てる」

「ドクロのマスクの人……? が、愛里寿ちゃんを見てるの?」

問いかけると、愛里寿はブンブンと首を振った。

「……人じゃないよ。あれは、私が勝てないモノだよ」

意味不明なことを言ってから、愛里寿はテディベアを強く抱きしめ直した。見開いた盲目の目が不安げに揺れている。

「真っ直ぐ見ると、私は死んじゃうんだ。そういうものなの。でも、いつだってドクロが出てきた時には、誰かが私を守ってくれた」

「誰か? って……説明できる?」

怯えている様子の愛里寿の脇に座り、優佳は彼女の細い肩を抱いた。

「……無理に思い出さなくてもいいからね。怖い夢は、音楽でも聞いて忘れよ? ね?」

「白い兎……」

愛里寿は小さく、ポツリと呟いた。優佳が、突然現実味を帯びた彼女の話に、ビクッとして言葉を止める。

「え……?」

「兎さんが、いつだって私を守ってくれてた。どうして、どうして私、それを忘れてたんだろう……」


愛里寿は、楽観的な性格だ。そして優しく、穏やかだが、それはいつだってそうあるわけではない。年頃の女の子に見受けられるように、彼女もまた不安定な時期と、安定している時期を交互に繰り返している。

今も、不安定な時期であることは間違いないが……ダイブ治療中に、兎の被り物を身にまとったテロリストにニアミスしてから、彼女は頻繁にその夢を見ているようだった。

その日は愛里寿に安定剤を含めた点滴を施して眠らせ、優佳は医院の会計情報をパソコンにまとめていた。夜の七時を回ったところだ。定時は八時なので、あと一時間程時間があるが、大体の作業は終わらせてしまっていた。先程中原からラインが入り、今日はもう上がってもいいとのことだったが、愛里寿の様子が気になって少し残っていたのだ。

伸びをして立ち上がる。ここで悩んでいても仕方ない。愛里寿がちゃんと寝ているかを確認して、家に帰ろう。途中でコンビニでシュークリームでも買って行こ。そんな事を考えながら、コーヒーカップを手に取る。給湯室に行く前に愛里寿の部屋に寄ると、目を閉じて眠っていた。うなされている様子はない。点滴も確認して、給湯室でカップを洗う。

戸締まりも確認して、医院を出ようとした時だった。スマホが振動して、ラインの着信を告げる。榊先生かな、と思い画面を見ると、そこには大河内の名前が表示されていた。メッセージではなく、通話だ。ボタンをスライドさせて耳に近づける。

「こんばんは、大河内先生。珍しいですね」

『影山さん、突然電話をして申し訳ない。愛里寿ちゃんのことが心配でね』

優佳は息をついて、医院受け付けの椅子に腰を下ろした。

「大丈夫です。ちょっと不安定なところもありますが、今は落ち着いて眠っていますよ」

『そうか。その……良かった』

「良かった?」

ため息と共に大河内が漏らした安堵の声。優佳は、なぜかそこに若干の違和感を感じて、思わず問いかけていた。しかし大河内は数秒沈黙した後、優佳の問いに答えずに、別の問いを口にした。

『愛里寿ちゃんは何か……君に言っていなかったか?』

その漠然とした問い返しに、優佳は首を傾げた。大河内先生は、他ならぬ赤十字病院の医師だ。中原先生が大体のことは報告書で提出しているはずだけど……。

優佳は少し考えて、大河内に対して答えた。

「この前の白兎の頭の少年のことを、よく夢に見るようです。愛里寿ちゃんにとって、よっぽど印象が強かったのかもしれませんね」

『……そうか』

煮えきらないような返事をして、大河内は押し殺した声で続けた。

『他には?』

「……?」

いつも愛里寿と話しているような、朗らかな感じがしなかった。どこか切羽詰まったような声だ。優佳は、考え込んでから思い出した調子で言った。

「あ、何だか今日、今までと違うことを言っていました」

『どんな?』

「その、何のことかは分からないんですけど、怖い夢を見たって。ドクロに見られてるって言ってました」

ドクロ。その単語を聞いて、大河内が言葉を止めた。いや、彼の呼吸までもが止まったかのような錯覚を受け、優佳は怪訝そうに電話口の向こうの彼を呼んだ。

「大河内先生? 何だろ、電波が悪いのかな」

『……いや、すまない。運転中でね。電波が若干安定しないんだ』

「危ないですよ! ながら運転はいけません」

『はは、怒られてしまったな』

大河内はいつもの調子で朗らかに笑って、続けた。

『ドクロか。そんなもの先生がやっつけてやるって言ってた、と伝えてくれ。愛里寿ちゃんのことだ。すぐに元気になるさ。何、あの子が良く見る悪夢の一つだ』

「そうですよね! 大河内先生、あの……」

『ん?』

「赤十字病院は……榊先生は、次の危険な施術にも、愛里寿ちゃんを使うつもりなんでしょうか?」

優佳の言葉を聞いて、大河内は口をつぐんだ。

「この前榊先生にお聞きした時は、はぐらかされてしまいまして……」

『影山さん、すまない。病院から電話だ。切るよ』

そこで突然大河内が、紋切り型で会話を打ち切った。

「え、大河内先生?」

『またかけてもいいかな。今度は愛里寿ちゃんとも話ができる時間にするよ。それじゃ』

ラインの通話が一方的に切られた。優佳はしばらくスマホの画面を見ていたが、やがて息をついて、不満げに足音を立てて立ち上がった。

「何よ……大河内先生まで」

小さく呟いた言葉は、カラカラと鳴る換気扇に掻き消えるように霧散した。


草原を疾走っていた。空はどこまでも快晴で、太陽の光があたりをまばゆく照らしている。地平線の向こうまで、緑色の草原だった。愛里寿はそこを、楽しそうに笑いながら疾走っていた。

手を誰かが引いている。温かく、大きい手。男性の手だ。大河内先生ではない。誰? いや、そんなことは、今は重要ではない。

心の中で何度か"?"を反芻してから、愛里寿は胸の奥から湧き上がる喜びを、楽しさを、笑いに変えて足を前に繰り出した。私は、どこまでも疾走れる。この人と一緒なら、どこまでも行ける。そんな意味不明な自信が胸を包んでいる。

瞬きをした。

緑の草原は、消え去っていた。

真っ黒いヘドロのような沼が、そこかしこで悪臭を放ち、ボコボコと泡立っている。裸足を包むように汚泥が広がっていた。

「あれ……?」

手に残る感触。さっきまで包まれていた、温かい大きな安心感はそこにはもうなかった。宙ぶらりんの手を暗闇に伸ばす。何も触れない。何も掴めない。何に掴んでももらえない。

「私、私は……」

そうだ。私は一人だ。

それを自覚して目を見開く。あの草原も、あの青空も、一緒に見た海も、駆け回った雲の上も。

全部、全部夢だったじゃないか。

思い出したくない事実。思い出してはいけない事実。そんな捨て去った筈の記憶が、吐瀉物のように残滓を引きながら胸の奥から次から次へと湧き上がってくる。

後ずさった足に、ゴツン、と何かが当たった。

振り向いてはいけない。

心の中の何かが警鐘を発している。それを見てはならない。認識してはいけないよ、愛里寿。だって、それは。

空気が肺に届かない。過呼吸で酸素が足りない。脂汗が次々に頬を流れる。見てはいけない、愛里寿。

しかし、警鐘に反して視線は、無意識に足元を追い。

そこには、血まみれでボロ雑巾のようになった、人間だったモノが転がっていた。人間の体ってここまで破壊できるんだ。そんなことを頭の端で、冷静な自分が思う。折り紙をクシャクシャにしたみたいだ。頭なんて、頭なんてこんな……。

潰れた兎の頭部が、脳漿を撒き散らしていた。

愛里寿はその場に、頭を抱えてしゃがみ込んだ。絶叫。喉が破れんばかりに泣き喚く。何で忘れていたんだろう。何で思い出せないんだろう。あの兎は、私をずっと守ってくれていて。だけど、私は彼を守ってあげることが出来なくて。

「ごめんね……ごめんねぇ……」

愛里寿は汚泥の中で、壊れたマリオネットのようになっていた人間だったモノを抱きしめた。涙が止まらない。絶叫が止まらない。

「一貴(いちたか)君……ごめんね……」

そう口にした愛里寿は、強く揺さぶられて覚醒した。


「愛里寿! 愛里寿、落ち着け、私だ!」

そこで初めて愛里寿はハッ、と我に返った。汗だくで、眼の前のヒトにしがみついて泣き喚いていた。息が止まるほど愛里寿を強く抱きしめていたのは、中原だった。髪が乱れ、彼女に引っかかれたのか、顔に爪痕がいくつもある。

「ゲホッ……ゲホッ……」

小さくえづいて、愛里寿は中原に抱かれたまま胃の中のものを吐き出した。

「せ……先生……?」

「大丈夫か、私のことが分かるか?」

「先生……苦しいよ……」

か細い声でそう訴える。中原は乱れたスーツ姿で、まだしばらく愛里寿のことを抱いていた。そして彼女の呼吸が収まったのを確認して、そっとベッドに座らせる。点滴台が蹴飛ばされたのか、倒れていた。愛里寿が暴れたと思わしき痕が部屋の至るところにあった。中原は、自分の傷を見る前に、愛里寿の脈をとっていた。そして慣れた手つきで彼女の血圧や血中酸素濃度を測り始める。

「先生……? あれ……私……」

「また怖い夢を見たようだな。気にすることはない」

静かに中原は言った。そして計器を脇に置いて、愛里寿の肩を優しく撫でる。

「水を持ってこよう。少し一人で待っていられるか?」

「うん……」

頷いた愛里寿の姿を確認して、中原は部屋の扉を開けて、出ていった。

何が何だか分からなかった。夢……夢、だったんだろうか。でも、あの時感じた絶望。悲しみ、苦しみ、全ての負の感情は、あまりにもリアルだった。


私は。

一貴君を。


 「風呂も沸かしてきた。入れてやる。落ち着いたか?」

コップに水を入れて戻ってきた中原が口を開く。愛里寿は彼の方に顔を向けて、肩を縮こませた。

「ご……ごめんなさい……」

「何を謝る?」

「私、暴れてた……?」

「怖い夢を見ただけだ。誰にでもあることだ」

何でもないことのように、淡々とそう言って、中原はコップを愛里寿に握らせた。

「落ち着いて飲め。大丈夫、側にいるよ」

「うん……」

水を口に運ぶ。

「先生……?」

愛里寿はポツリと、コップに盲の視線を落としながら言った。

「どうした?」

「私は、人を救ってるんだよね?」

確認するような問いかけだった。中原はそっと、愛里寿の頭を抱いて言った。

「何を言ってる。救ってるじゃないか」

その目は、愛里寿を見ていなかった。人形のように凍りついた無表情で、中原は愛里寿の頭を撫でていた。


「え……? もう、ですか……?」

中原の言葉を聞いた優佳が表情を曇らせた。事務所で外出の準備をしながら頬に絆創膏を貼り付けた中原が彼女に言う。

 「ああ。あまり時間がない。すまないが、愛里寿を連れて先にタクシーで移動してくれ」

「先生?」

伺うようにもう一度問いかけられ、中原は動きを止めて優佳の顔を見た。

「どうした?」

「あ……いえ……分かりました」

中原の言葉には抑揚がない。彼が何を考えているのか、優佳には推し量りかねてしまったのだった。エプロンの端を握って、優佳は息をついた。そして準備をしている中原に背を向けて、愛里寿の部屋に足を向ける。ノックをすると、愛里寿の元気な声が返ってきた。

「愛里寿ちゃん、おはよう。榊先生から聞いてるかもしれないけど……」

言い淀んだ優佳に、愛里寿はにこにこの笑顔で返した。

「優佳ちゃんおはよ! お仕事? やった、またダイブできる」

「え……?」

あっけらかんとした愛里寿の様子に、優佳はきょとんとして問いかけた。

「あれ? 愛里寿ちゃん、落ち着いた……?」

「? 私はいつだって落ち着いてるよ」

不思議そうにそう返されて、優佳は言いづらそうに続けた。

「また、ダイブだって。その……大丈夫?」

「?」

何が大丈夫なのだろうか、と大きな盲の目が怪訝そうに優佳を見た。優佳は、彼女の顔を見て言葉を飲み込んだ。それ程、愛里寿の顔は無垢で、純真だったのだ。

「変な優佳ちゃん。早く行こ。私は、人を救うんだ」

杖を取ってベッドから降りる愛里寿。優佳は胸の奥にどこかモヤモヤしたものを抱えながら、彼女の手を取った。


愛里寿と優佳がタクシーで出ていったのを確認して、中原はスマホを手に取った。そして着信履歴から逆ダイヤルして通話をかける。コール音がして、大河内の押し殺した声が応答した。

『中原。お前と話がしたいと思っていた。丁度いい』

「大河内、ウチの職員に探りを入れるのを許容するのは、今回だけだ。次はない」

大河内の言葉を無視し、中原は淡々とそう言った。

『何を……!』

「暇だな。仕事をしろよ、仕事を」

馬鹿にするようにそう言って、中原は吐き捨てるように言った。

「愛里寿はもう赤十字の玩具じゃない。私のモノだ。揺さぶるのも辞めてもらいたいものだが」

『……お前、変わったな』

大河内が濁った声でそう返す。中原は表情一つ変えずに、その言葉を鼻で笑ってみせた。

「何が?」

『愛里寿ちゃんは道具じゃない。人間だ。人間には心がある。それまで思い通りにできると思うなよ。お前が何回、B45であの子の記憶を上書きしたとしても。心まで消すことは出来ない』

「出来るさ」

中原はそう言って、舐めるようにゆっくりと言った。

「それが神が認めた医療の成果だ。もうコトは動き出している。今更いくら介入しようが……」

『そうかな?』

「何を言いたい?」

『お前はまだ、あの子の私に対する愛情を消せていない』

そう言われ、中原の顔に緊張感が走った。

『人の心は負けないぞ。愛里寿ちゃんは必ずお前の手から取り戻す』

「言いたいことはそれだけか?」

紋切り型にそう言って、一方的に通話を切り、スマホをポケットに突っ込む。そしてふー……と息を吐いて、中原はカバンを持ち上げた。


「DID?」

言い慣れない言葉を無理やり反芻して、愛里寿は首を傾げた。

「なにそれ」

「おかしいな……愛里寿ちゃん分かんないんだ」

優佳が困った顔で資料をめくる。二人は関東赤十字病院の打ち合わせ室に通されていた。中原が遅れていて、まだ到着していないのだが、一部の医師達が優佳を保護者と勘違いしたのか、資料を持ってきて説明を始めてしまったのだ。

「優佳ちゃん知ってる?」

「私はマインドスイーパーの勉強はしてないからなぁ……」

二人が顔を見合わせ合っているのを、イライラした調子で顔をしかめて、医師団が見ていた。その中の一人が、嫌悪感を顔に浮かべながら、自分の資料をめくる。

「全く……本当に国家資格を持っているのか?」

馬鹿にするようにそう言い、彼は語気を荒げて愛里寿を見て言った。

「こんな基礎勉強もしていない、出自も分からないマインドスイーパーを信用しろというのも難しい話ですよ、皆さん。ただでさえ我々はC国との仲が険悪なんです。これでは逆にスパイの疑惑を向けられてもおかしくはない。患者の命を預かっている我々は、いつだって命がけで挑んでいる。遊び感覚で小娘が来るようなところじゃないんだ」

「小娘って……あなた、子供に向かってそんな言い方……」

医師に向かって優佳が言葉を荒げる。医師団の別の一人が鼻を鳴らして口を開いた。

「そう。君達のような子供の遊び場ではないと言っている。ここにある機器は、最新鋭のものが殆どだ。使わせるお古はないものでね。壊して弁償できるのかい? お嬢さん」

「大の大人がよってたかって……! 赤十字病院も落ちたものですね!」

明らかに、愛里寿を標的とした嫌がらせだ。その気配を理解して、優佳は盲目の少女を庇うように前に出た。比較的小さな体の彼女が、数人の男性医師を見上げる。まだ少女と言ってもいいくらいの年頃の優佳に非難され、医師達は呆れたように顔を見合わせた。

「感情論ではないんだよ、君。ええと……中原氏の医院の職員だったかな?」

「私達は、世界医師連盟のゾルダック・ゴルーシン首席の要請でこちらに出向しています。権限に於いては、赤十字病院の最高決定を上回る行動権を持っていることをご存知ですか? あなたは関東赤十字病院六課、脳神経外科専攻ののドクター相模ですね」

優佳が食って掛かるように言う。相模と呼ばれた医師は、名前を当てられて目を白黒とさせた。

「そちらは五課の脳神経麻酔科のドクター五十嵐。そして二課、精神外科専攻のドクター七瀬。私達としては、貴方がたに与えられる、これ以上の心的負荷は、愛里寿ちゃんの医療行為への妨害と取りますが、よろしいですね?」

「…………」

舌打ちした相模に、蔑んだ目で優佳は続けた。

「小娘かも知れませんが。私、記憶力だけはいいんで。皆様の"愚痴"も、最初から最後まで文章起こしできますよ。何日経っても。ゾルダック氏に直接ご報告差し上げましょうか? 陳情課を通すことなく、医師連盟のトップに見てもらえますよ、愚痴」

五十嵐と呼ばれた医師が、歯を強く噛んで優佳に詰め寄った。距離を詰められるとは思っていなかったらしく、優佳は目を白黒とさせて、反射的に怯えた声を発した。

「やれるものならやってみろ……! 町医者風情が!」

五十嵐が手を伸ばして、優佳のコートの胸ぐらを掴み上げる。もう反対の手は握りこぶしを作って震えていた。

「はあ……」

そこで、気の抜けた愛里寿の声が部屋に響いた。周囲の怒気も、異様な空気も。そんなものは全く意に介さず、彼女は優佳の方に顔を向けた。

「お腹すいた。何か食べに行こ」

「…………」

医師達の表情が険しくなる。愛里寿は手に持った白杖で床をつついて、続けた。

「優佳ちゃんは真面目だね。負け犬の遠吠えなんて聞くだけ時間の無駄だよ。つまんないから私はパス」

「この……!」

一回り以上も小さい女の子に馬鹿にされ、相模が愛里寿に向けて手を伸ばし……。

「……何をしている」

そこで扉を開けて入ってきた中原の細い腕に、ガッチリと掴まれた。眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせながら、中原は細身とは思えない相当強い力で相模の腕を握りしめていた。

「愛里寿に、何をしようとしている」

もう一度ゆっくりとそう言い、中原が相模の腕を捻り上げる。異様な軋む音がして、相模が悲鳴を上げた。そこで、五十嵐に掴まれていたコートを払って逃れ、優佳が中原の肩を掴んだ。

「榊先生、流石にここの職員の腕を折るのはまずいです」

「…………」

中原は少し考えていたが、ふぅ、と息を吐いて手を離した。腕を抑えて、相模が尻餅をつく。

「失せろ」

抑揚なく中原が言う。相模がよろよろと駆け出し、打ち合わせ室を出ていった。五十嵐、七瀬と医師達が続く。中原が扉に鍵をかけたのを見て、緊張から解き放たれた優佳がその場にしゃがみ込んだ。

「……怖かったぁ」

「よしよし。優佳ちゃんありがとね」

何故か守る対象の愛里寿に頭を撫でられ、優佳が目に涙を浮かべながら、白衣を直して何事もなかったかのように備え付けのポッドに水を入れ始めた中原に言う。

「榊先生、院内でゴタゴタがあるなら、先に言っておいてくださいよぉ。心臓が止まるかと思いました」

「大丈夫だ。君の心臓はまだ動いている」

「そういう問題じゃなくて……!」

ポッドの湯沸かしボタンを押して、コーヒーの準備を始めてから中原は無表情のまま、医師達が投げ捨てていった資料を拾い上げた。

「彼らの気持ちも分からないでもない。愛里寿、赤十字のマインドスイーパー、医師団達は決して、負け犬ではないよ。それは言い過ぎというものだ」

「はーいごめんなさーい」

反省も特にしていない様子の愛里寿に、息をついて優佳が口を開く。

「榊先生、さっきの人達、今回の施術案件の説明に来てたみたいなんですけど、追い返しちゃっていいんですか?」

「施術の説明は事前に私がすべて受けている。君達の所にまで来たのは、あいつら独断のただの嫌がらせだな」

「…………」

納得いかなさげに眉をしかめた優佳から、愛里寿に視線を移して中原は続けた。

「愛里寿、アズリエルシンドローム深度15の患者だ。治療できるか?」

「15……! え……この前が確か、8くらいじゃ……」

息を呑んだ優佳の脇で、愛里寿は少し考え込んだ。そして小首を傾げて中原を見上げる。

「無理じゃない? その人既に死んでるよ」

あっけらかんと返された言葉に、中原は小さく笑った。彼が笑うのを見たのは久しぶりのことだったので、優佳と愛里寿がきょとんとして中原の顔を見る。

「死人を救ってこい。1時間後にダイブだ」

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