深闇の国のアリス

逢坂祐希

第1話 愛里寿

 少女は真っ直ぐと、前を見据えていた。

 「先生、見つけたよ。この人の病巣」

耳元のヘッドセットに手をやり、静かに、落ち着いた声を発する。

『そうか。除去できそうか?』

ヘッドセットからは、時折ノイズ混じりに男性の声がした。少女は口をつぐんでまたヘッドセットのボタンを押した。

「統合失調症に加えて、被害妄想による攻撃性が強いね。トラウマも一、二、三……ここから三体確認できる」

『何とかしろ』

「無茶言うよ。か弱い女の子に、今日も天の声は無慈悲に戦えと仰いますか」

『軽口を叩いている暇はない。ダイブの時間が残り六◯◯秒を切った。愛里寿(ありす)、そろそろ急がないと強制的に戻すぞ』

「もうちょっと。もうちょっと見ていたい」

 少女が抑揚なく呟くように言った言葉に、男性の声は何かを飲み込んだ。彼女は鳶色の瞳を見開いて、周囲を見回していた。

そこは異形の世界だった。

空には真っ黒い太陽が昇っており、メラメラと血のように紅い炎を燃やしている。熱い。暑いのではない。肌を突き刺すように焼く"攻撃性"が、愛里寿と呼ばれた少女を襲っていた。真っ黒い太陽の中心部には、一対の眼球がくっついてた。大きさにして相当なそれは、それぞれぎょろりぎょろりと別々の方向に動いている。時折眼球部分から、血液なのか涙なのか分からない、マグマのように煮えたぎった液体が飛散していた。

空には太陽の怪物。そして地面は、ブヨブヨとした汚らしい、腐った豚の脂肪のようなものに覆われていた。ぬめるそれらが足を取る。

だが、何よりも異様だったのは、刀身を地面に突き刺した、刃を太陽光でギラつかせる日本刀が、至る所に"生えて"いることだった。触れれば体を傷つける……いや、斬り刻むつもりだとでも言わんばかりに、所狭しに刀が突き立っている。

少女の見据えるものは、腐った大地でも、自分を取り囲む日本刀の群れでも、空中で啼く太陽でもなかった。彼女は、小高い丘になっている部分を真っ直ぐ見ていた。そこには小さな祠があり、祠の根本にはマネキン人形だろうか。プラスチック製のそれが転がっている。その周りに、空に浮かんでいる太陽のミニチュア版とでもいう感じの、目がついた球体のモノが、三つふわふわと浮かんでいた。

対して、そんな狂気の空間に立つ愛里寿は、全くの丸腰だった。白い病院服に、剥き出しの足は、何と裸足だ。彼女の歳の頃は、十三、十四程に見える。小柄で人形のように美しい容姿をしている女の子だ。腰まで伸びた長い白髮を、途中で一房に結んでいる。

 「……Tの投与は?」

 『効果継続時間は二十秒というところだろう? その間に治療を完了できるのか?』

 「問題ないよ。投与して」

 ぼんやりとした調子で、愛里寿はそう言った。

『Tの投与を開始する。効果発現まで十、九、八、七……』

 カウントされる音声を聞きながら、少女は地面を踏ん張って立ち、傍らから一本、突き立っていた刀を抜いた。そして右手に持つ。

『……三、二、一、行け』

 短い命令とともに、少女は信じられない膂力を見せた。陸上選手でもそんなに飛ばないだろう。実に七、八メートル程、地面を強く蹴って空中に飛び上がる。

その際、彼女の周りに突き立っていた刀の刀身が病院服や、愛里寿の白い柔らかい肌を薙いで、ズタズタにした。彼女はそれを気にもしていないのか。日本刀の群れを跳躍で抜けると、丘にふわりと猫のように着地した。

『効果継続時間、残り十秒程だ』

端的なアナウンスを聞きながら、彼女は握っていた日本刀を、手近な球体のオバケ、その眼球の一つに、ためらいもなく突き立てた。

刀が刺さった部分から真っ赤な沸騰した血液が噴出し、愛里寿の白い肌を焼き、汚していく。しかし彼女は躊躇も思考も一切なく、日本刀をおおきく横に振った。両断されたオバケが聞くも無惨な、断末魔の悲鳴を上げた。

残りの二体も同様だった。小柄な少女とは思えない、サーカス団員のような洗練された動きで、刀を叩きつけて切断、殺害していく。

三体目の太陽のオバケを袈裟懸けに両断した所で、上空の巨大な太陽が動き出した。ザワザワと炎を上げながら、ゆっくりと愛里寿の方に下降を始めたように、それは見えた。

 『Tの効果時間が切れる。反動が来るぞ!』

アナウンスをしてくれている男性の声が、ヘッドセットから響く。愛里寿の体がビクン、と魚のように跳ねた。体反応だったが、それは明らかに良いものではないことは、誰の目にも明白だった。

噛み締めた唇の端から血が垂れている。切れたのだろうか、それとも喉奥から吐いたのだろうか。それは確認できない。

愛里寿は祠の眼の前で崩れているマネキンの前にしゃがみ込むと、力を失ったそれを乱暴に掴み上げた。

 「怖いんだ? 監視されるのが。そんなに目が気になるんだ?」

愛里寿はマネキンに向けてそう問いかけた。

「あのでっかい太陽に捕まったら、諸共燃えちゃうだろうけど、あたしは知らないおじさんと心中する趣味はないんで」

彼女は手を伸ばして、マネキンの胸に掌を当てた。そこがどす黒く変色していて、今にも崩れそうになっている。

「腐ってるとこ、抜いてくね」

黒い太陽が、存在しない口で絶叫した。

落下の速度が早まる。空を埋め尽くす程の巨大な太陽が強烈な熱波をまといながら空ごと、落ちてきている。

愛里寿はそれを一瞥することもなく、冷静にマネキンの胸……その腐った部分を引きちぎった。

 「ウッ!」

 一瞬だけ男の苦しそうな声が、マネキンからしたが、それだけだった。

刀傷で血まみれの愛里寿は、息をついて立ち上がった。そして病院服を手で撫でつけながら、ヘッドセットを操作して言った。

「治療完了、帰還するよ」


 「田中翔一、四十五歳。国籍は日本。三日前にアズリエルシンドロームを発症。深度は6。日本赤十字のスイーパーが、治療の過程で三名死亡している」

落ち着いた声で淡々と文書を読み上げ、白衣を羽織った細身の青年は手に持った資料を机の上に放った。長い脚を組んで、指先で神経質そうに眼鏡の位置を直してから、彼はまた口を開いた。

「術後の経過は?」

「相変わらず無感情だな」

カシュ、と空気の抜ける音を立てて缶コーヒーのプルタブを開けて、壁に寄りかかっていた大柄の男性が押し殺した声を発する。茶色のコートを羽織っていて、歳の頃は青年と同じくらいには見えたが、顎に生えている無精髭が若干、年齢をかさ増しして見せていた。

眼鏡の青年は興味がなさそうに、座っていた椅子を回転させて机の方を向いた。そしてタブレットを手にとって、画面を操作しながら言う。

「うちには関係のない話なんでな」

「……田中翔一の治療は、日本政府からの要請だ。この男にはC国からの産業スパイ容疑がかかっている」

表情を変えずにタブレットを見ている青年に、髭面の男性は続けた。

「アズリエルシンドロームの容態は落ち着いている。昨日、赤十字のスイーパーによるダイブで、田中翔一の記憶を洗う施術が行われた。あとはC国から、田中の身柄を要求されているが、それは俺達には管轄外のことだな」

缶コーヒーを口に開けてから、彼は少し押し黙った。そして眼鏡の青年に向けて言った。

「中原。一つ面白い話を聞かせてやろう」

「…………?」

視線だけを動かして、中原と呼ばれた青年が、髭面の男を見る。

「君達が先日治療した田中翔一には、現在、施術前後十日、つまり、計二十日間の記憶がない」

「……ない?」

中原は怪訝そうに眉をひそめた。そして椅子を回転させて髭面の男性に向き直る。

「愛里寿による施術は完璧だった。記憶の瓦解もない。損傷も見受けられなかったはずだが?」

「何者かに抜き取られた、という表現の方が正しいかな」

「抜き取る? C国にそんなことができる技術があるとは思えないが。仮に出来たとして、赤十字が身柄を保護している案件だ。あり得ない」

「方法は分からない。ただ、赤十字のスイーパーが、田中の精神世界を探った際の証言だ。一部分の景色だけ、まるで切り取ったかのように綺麗に無くなっていたそうだよ」

「…………」

「赤十字はこの案件を揉み消すつもりだ。君達に何か影響が及ぶことはないと思うが、一応……」

「大河内せんせの声がする」

そこで、二人の会話を遮るように、鈴の音に似た小さな声がした。そして二人が会話をしていた病院の診察室の扉が開いて、白杖が差し込まれる。コツ、コツと床を叩いて、白杖を振ってから、小さな女の子が診察室に入ってきた。長い白髪を腰まで伸ばしていて、途中で一房にまとめている。歳の頃は十三、四程。体は細く、痩せている。目は開いていたが、どちらも焦点が合っていなかった。全盲なのだ。白杖を壁に立てかけ、彼女……愛里寿は部屋の中に向かってニッコリと笑ってみせた。

「大河内せんせ、いらっしゃい。先生、大河内せんせが来てくれてるなら、教えてくれればいいのに」

「…………」

言葉を飲み込んだ、大河内と呼ばれた髭面の男性を一瞥してから、中原は立ち上がって愛里寿に手を伸ばした。

「もう寝ている時間だろう」

「何だか眠れなくて……」

「愛里寿ちゃん、すまないね。中原から眠っていると聞いていたものでな」

大河内が口を開いて愛里寿に近づく。少女はパッと顔を明るくして、大河内が伸ばした手を取った。そして父と娘程も体格差がある彼の体を、コートごとぎゅう、と抱きしめる。

「大河内せんせ、久しぶりだね。ね、今日はどのくらいお話できる?」

「む……そ、そうだな」

言葉を濁した大河内を見て、椅子に戻った中原がタブレットに視線を戻しながら口を開く。

「もう夜の9時を回っている。愛里寿は、寝る時間だ」

「先生は黙ってて。私と、大河内せんせがお話してるの」

「…………」

黙り込んだ中原を横目で見て、大河内は離れようとしない愛里寿の頭を撫でてやりながら言った。

「あまり中原先生を困らせてはいけないよ」

「うん。うん、私、いい子にしてるよ」

「そうか。もう少しお邪魔するとしよう」

愛里寿が嬉しそうに笑って、大河内の手を引いた。

「大河内せんせ、抱っこして。私の部屋でお話しよ」

こちらを向いた大河内に、中原は呆れたように肩をすくめてみせた。診察室を出ていった二人を、感情が読めない目で見送ってから、彼はタブレットを操作し、画面に視線を落とした。

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