鎌倉・長谷の恋模様〜ぶどうジュースと夏の誓い〜

荒井瑞葉

第1話 見てるだけでいいんです。

 赤嶺あかみね道場は柔道の道場。わたしのお父さんが沖縄から鎌倉に来た時に開いたものだ。

 朝6時。道場内で、「やぁー!!!」と、威勢のいい掛け声が響いてる。

 わたし、赤嶺伊月あかみね・いつきは小学校卒業と同時に柔道をやめてた。中学二年生の今、再び、道場の重たい扉を開ける。

 畳の匂いと汗の臭いが混じるおごそかな空間で、双子の兄貴、葉月はづき兄貴が、師匠のお父さんに立ち向かっていた。二人とも、わたしが道場内に入ってきたのに気づきもしない。


 家族なんだから、声をかけたっていい。

 でも、今日の兄貴が出るのは「関東大会」。


 邪魔をしちゃいけない、と思う。

 兄貴の気迫が痛々しいくらいに伝わってくる。

 薄い唇を噛み締めて、二人に声をかけずにわたしは道場をあとにした。


✳︎✳︎✳︎


 その日の朝も、わたしは鎌倉駅から江ノ電に乗り、長谷駅で降りた。長谷駅から徒歩十分の「しおかぜ塾」に、この夏休みの間中は通っているんだ。


 昭和初期に建てられたレトロな建物の一階は、「朝ごはん屋さん」。気さくな親父さんがつくる卵かけご飯は絶品なの。その建物の二階が「しおかぜ塾」なんだ。

 わたしは今日も7時15分、一階の店で卵かけご飯に納豆トッピングの「スペシャルメニュー」を注文。元気の源、朝ごはんは大切なんだよ。肌にだっていいと思う!


 7時20分。「彼」が現れた。

 私の食べている納豆卵かけご飯を優しい目で見ると店の親父さんに「おはようございます」と挨拶して、

「あの子と同じの、頼めますか」と聞いてる。


 親父さんは「あーいよ」と答えて、湯気の出てる釜からほかほかのご飯をよそってる。

 彼は窓際の、少しだけ海が見える「特等席」のテーブルに、一人だけで陣取った。


「坊ちゃん。成績いいんだってな。上の塾の先生してる妹が話してたよ」


 親父さんが、気さくにその人に声をかけるけれど、その人はどこか機嫌悪そうに黙る。


「別に。……そんなこと、ないっすよ」

 なんて答えながら、スマホゲームをやってた。

 でも、両目1.0の視力のわたしにはその画面が見えてしまう。そのゲーム、「英語脳筋」というガチ系勉強アプリじゃん! さりげなく勉強してるよね。


 速水朔はやみ・さくという名前のその男子は、わたしや兄貴と同じ学校に通う中学二年生。兄貴はなぜだか、その男子くんを「気取ってやんの」と目の敵にしてるの。気取ってるというか。せっかくイケメン男子なのに、いつも眠たそうでダルそうなのがもったいないな、とわたしは思う。だけど、成績は万年、学年一位なんだ。

 全国模試でも結構上位にいたりするの。


 速水さんのサラサラストレートの髪。少しもとから茶色っぽいんだろうね。もし触れたら柔らかそうな髪。見てるだけで幸せ! 今日も彼と同じ塾で、勉強がんばろ。


 速水さんは「ごちそうさまです」と小さく言って、お茶碗を親父さんのところに持って行ってた。もう食べ終えたんだ。さすが男子だね。見てると、目と目が合ってしまった。

「おはよう。速水さん」

 わたしはなぜだか、彼に「さん」をつけてしまう。


「お兄さん、関東大会出るんだってね。今日だろ」


 意外なことを速水さんは言って、

「先に二階上がってる」と素っ気なくわたしに声をかけた。


「もう少し、下にいればいいのに」

 わたしはつい、速水さんに言ってしまった。精算を済ませてた速水さんは、こちらを見て柔らかに笑ってた。


 効きの悪い冷房がぶおんぶおん鳴ってるこの店内。だけれど、時折、由比ヶ浜からの潮風がさあっと入るの。


「赤嶺さんって、兄貴と仲いいの?」

 精算を済ませた速水さんは、ぼそりぼそりとわたしに聞いてきた。スマホゲームに相変わらず目を落としてるけど、ちゃんとわたしに対する「質問」。


「仲良かったのは小さな頃。最近ね、すごくピリピリしてるよ。夕飯時とか」


 速水さんに愚痴を言っても仕方ないのにな。

 心に溜まってるものを吐き出さずにはいられなかった。


「関東大会ってプレッシャーなんだよね。わかるけど、まるで以前の兄貴じゃなくなったみたいでさ」


「まあー。仕方ないよね」


 意外にも、速水さんは兄貴の肩を持った。

 文句の一つでも言おうと思って彼をにらむと、速水さんは「目力めぢから。こわ」と言って柔らかに笑ってた。


 塾の時間が来たので、わたしたちは二階に上がった。



    

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る