第18話 スリークォーター・アン
——東京・国立 大学通り——
〝バッグ〟が歩いていた。——オリーブ色の大きな〝バッグ〟。
〝バッグ〟の上には、小さなぼさぼさの濃いブラウンの頭が乗っていて、下からは白い足が生えている。頭の横にはゴツゴツした三脚が突き出し、白い足がすたすたと歩みを進めている。
頭の先は150センチ——いや、もっと小さいかも知れない。
国立・大学通り。両側に並ぶ〈ソメイヨシノ〉は、花の時期を終え、枝々は新緑の葉におおわれ始めている。
その歩道を〝バッグ〟が歩いている。
歩く〝バッグ〟を追い越して前に回ってみると——
少し胸元を開けたオフホワイトのジップシャツに、黒のショートパンツ。お腹のあたりで肌がちらりと見えている。ジャケットはカーキのミリタリーっぽい形で、足先には白のローテクスニーカー。無造作にまとめた髪を肩から前に流しているが、三脚に隠れて長さはわからない。
顔を見ると——息を呑むほどの美人だ。自然と〝アン・ハサウェイ〟の名が思い浮かぶ。切れ長の眼に大きな瞳。メイクは薄くナチュラルで、魅惑的な唇に引いたリップの色が、白い肌をさらに白く引き立てている。
スタイルも抜群だ。小さな頭にスレンダーな身体、そして長い手足。
だが——
小さい。すべてがコンパクトで違和感を覚えずにはいられない。いわば、〝アン・ハサウェイ〟をそのまま15%ほど縮小した感じだ。
背には大きなカーキのバックパックを背負い、肩にはカメラの三脚を担いでいる。その三脚は、どうみても長さが彼女の半分以上はあるので、どちらが担いでるのか担がれてるのか——
(眠い)
キャット——キャサリン・ラングレーは急いでいた。授業に遅刻しそうなのだ——いや、たぶんもう間に合わない。こういう時は、この小さい身体をラッキーだと思う。ミスター・ヒューズはいつも手元のディスプレイばかり見てるから、身体一つなら席まで見つからずに入れるはずだ。
部室に寄ってバッグを置いてくるか——いや、ミズ・カーターに見つかるとまずい。
そもそも、ミズ・カーターが悪いのだ。昨日になって急に記事を差し替えたいとか言い出すから。しかも200ワードも増えたら、差し替えなどでは済むはずもない。
入稿の締切は明日。おかげで夕べは紙面の再構成にかかりきりで、ほとんど寝られず、スクールバスを逃すハメになった。
泣く泣く削ったあたしの写真——
(むっ——記事も直してクリフハンガ
ふんだりけったり。顧問のくせに、新聞のことを何もわかってないのが困りものだ。
「おっと」
キャットを追い抜きざまに、男が後ろからぶつかりそうになって、慌てて避けていった。
こういう時はこの身体が恨めしい。どうやら背の高い方々には、キャットが視界に入っていないらしい。なので時折、後ろから追突されることがある。三脚を担いで突き出しているのは、追突防止のためでもあるのだ。大きなバックパックも衝撃吸収の狙いがある。ごつごつしたものばかりが入っているので、追突した方のダメージが大きいだろう。
〈大学通り〉の南の終端、桜並木が終わる交差点を右に曲がる。曲がるとその通りもまた桜並木になっている。〈さくら通り〉と名付けられた通りを西へ300メートルほど歩くと、我らが学び舎——
イクスサーシャ学園
——に着く。
キャットは12年生、空とリディと同学年だ。学園新聞〈イクサーシアン・クロニクル〉の編集長にして、〈
イクスサーシャ学園は、中高一貫のインターナショナルスクールで、生徒数は約400人ほど。私立校としてはかなり少ないが、1クラス15人ほどの少人数制が
反して敷地は広々としていて、教室棟、クラブ棟、体育館が2棟、50メートル・プール、種目に応じたグラウンドが複数、収容1000人の劇場棟——と、施設が充実している。先進的な
アメリカ式なので、学年は9月から始まり、6月で終わる。最終学年——高校4年
キャットは、学園内ではその容姿から、
スリークォーター・アン
——4分の3スケールの〝アン・ハサウェイ〟
と呼ばれ、ファンも少なくない。男子はもちろんだが、キャットのファッション記事が女子の間で人気なのだ。毎年、ホームカミン
スリークォーター・アンディ
とも呼ばれている。〝アン・ハサウェイ〟×ファッション記事——となれば、〈プラダを着た悪魔
一部ではさらに二段転じて、
スリークォーター・トゥッ
とも。これにはキャットも、
「ハゲとらんわ!」
と憤慨している、愛読者の間では、
私たちを素敵な女性に導いてくれる——
と、アンディの導き手である〝ナイジェル〟、=〝スタンリー・トゥッチ〟を思い起こさせるのだそうだ。
正門を入ると、キャットはまっすぐクラブ棟へ向かった。部室をオフィス代わりにしてしまってるミズ・カーターがいる可能性は高いが、遅刻に厳しいミスター・ヒューズよりはマシだ。これ以上A+をC−にされたら、奨学金が受けられず、せっかく合格した大学に行かれなくなってしまう。
!——
キャットはポケットからコンパクトカメラを取り出すと、自分を追い抜こうとしている1台の車に向けて、
シャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカ
連写を浴びせた。キャットの前を通り過ぎた車の運転席には、
助手席にはチア部のイケてるブロンド女子が乗っていた。
(スターは堂々と遅刻かよ)
車は、クラブ棟の隣にある機械式立体駐車場を通り過ぎ、体育館裏の搬入口へと向かった。奴のランドクルーザー・プラド90ショートは、立体駐車場には入らないので、いつも搬入口に駐めているのだ。本来は規則違反なのだが、
(あいつの父親がコーチに鼻薬を効かせてるって噂も、あながち——)
と、キャットはもう一度カメラを構えたが、思い返してクラブ棟へと足を速めた。
階段で3階へ上り、ひょいと新聞部室を覗くと、ミズ・カーターはいなかった。
(ふう、ラッキー)
いそいそとバックパックを下ろし、タブレットを取り出す。スマホは左の尻ポケ、右には
バックパックをロッカーに入れ、鍵をかけようとして、ふと手を止めた。
タブレットで教室リストを開き、〈ミスター・ヒューズ〉の名前を探す。——〈3011〉教室。タップしようとして直前で思いとどまる。
(あぶない、あぶない)
タブレットで教室を開いてしまうと、ミスター・ヒューズの画面に通知が出てしまう。キャットはバックパックからラップトップを取り出し、〈編集長 キャサリン・ラングレー〉のネームプレートが置かれたデスクに座った。
ラップトップを開くと、大小の真っ黒いウィンドウに、白い文字が並んでいる。その一つに、
andy.cat@fieldbee ~ % cl0ssroom --as "Mr. Hughes"
>> peek --room 3011 --stream-only --silent
と入力すると、白いウィンドウが現れ、イクスサーシャ学園のロゴが表示された。ロゴの下には、
Crossroom
ICT for Education
Instructor Access Potal
Sign in for Mr. Hughes
イクスサーシャ学園で導入されている、教育用ICTアプリケーションの起動画面だが、これは教員用の画面でミスター・ヒューズの名前——
すると白いウィンドウが消えて、代わりに映像が表れた。教室の中を俯瞰していて、正面の教卓には、高級そうなツイードのスーツを来た男が立っている。歳の頃は40歳前後。寝癖が付いたままの栗色の髪をなでつけながら、タブレットを操作している。
キャットは映像のウィンドウを少しずらして、メニューから〈出席記録〉を選び、表れたウィンドウから自分の名前を探す。
キャサリン・ラングレー
不在
慣れた手つきで〈不在〉を〈出席〉に変え、
(7時57分くらいでギリギリ感を出しておくか)
入室時刻も変更する。
本来は、学生証の
普段、この手は自分のためには使わない——ジャーナリズムはお金がかかるのよ——のだが、今日は、
——これはミズ・カーターのせい
と、おっとり優しげな顧問に責任転嫁して、
(2時限目は——うん、2時間は寝られるわね)
キャットはロッカーから何やらごそごそと取り出し、それをがちゃがちゃと開くと、そこにはアウトドア用の折りたたみ簡易ベッド。キャットはばさっと勢いよく横なると、
(どうせトラヴィスが探しに来るから、それまで——)
と目を閉じ、すぐに、
すーすー
しーんとした薄暗い部室に、寝息だけが微かにそよぎ始めた。
※クリフハンガー……ドラマや小説、記事などで、〝続きが気になる〟状態で終わらせて、次回へ視聴者・読者を引きつける手法
※高校4年生……アメリカ式のハイ・スクールは4年制。日本での中学3年秋から高校卒業後の夏までに相当
※ホームカミング……卒業生を迎えてもてなすイベント。スポーツの交流試合やダンスパーティーなどが催され、学内のキング&クイーンが選ばれる。
※プラダを着た悪魔……映画。アン・ハサウェイの代表作。主人公・アンディは有名ファンション誌の新人編集者
※トゥッチ……スタンリー・トゥッチ。〈プラダを着た悪魔〉で主人公アンディを導いた、アートディレクター・ナイジェルを演じた俳優
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