第6話 美咲
リディの隣では、美咲がスマートフォンの画面を眺めている。先ほどからほぼ一定のリズムで上スワイプを繰り返していて、くるくると変わる表情が可愛らしい。その表情は〈喜怒哀楽〉では足りず、百面相と言ってもよいくらいだ。
美咲の前には空になったティーカップと、少しクリームがついた透明なフィルムだけが残ったケーキ皿が置かれている。
美咲はコーヒーが苦手らしい。曰く、
「そんなに焦って大人になることないんだよ?」
(子どもが言うセリフじゃない)
と思ったが、こういうに妙に大人びたところと、無邪気な子ども——今日から女子高生——が同居してるのが美咲だ。
空と美咲を見ていると、常に空は空で空なのだが、美咲は時に優しい姉のようで、時に甘えんぼうの妹で、つかみ所がない。
ひとりっ子のリディにとっても可愛い妹なのだが、時折ちょっとだけ、美咲の〝したたかさ〟が垣間見える気がして怖くなるときがある。
ルックスはかなり良い。小柄だが可愛い系で明るく元気。学校ではきっと女子にも男子にも好かれてるだろうと思う。
だが、リディはこれまで一度も、美咲の友達に会ったことがない。街で見かけたことも無い。リディが知る美咲はいつも独りだ。
かといって心に何か闇を抱えてるという感じでもない。藤井家に入り浸っているリディは、空より美咲と過ごすことが多いので、何かあればさすがのリディでも気づく。
以前、冗談で、
「美咲は友達いないからねえ・笑」
とからかったことがある。すると美咲は、
「そうだね。学校ではみんなで仲良くやってるよ。楽しいクラスメイト。でも本気で仲良くなりたいって子とはまだ出会えてないんだよね」
と肯定されてしまった。
思春期女子にあるまじき発言に、
「寂しくないの?」
とリディが訊ねると、
「JCの時間は思春期に振り回されるためにあるのだよ、君。真の友情だけがそれを救うのだ」
なのだそうだ。リディは返す言葉が見つからず、ただ
「そか」
とだけつぶやいた。
一方、美咲は思う。
(私は恵まれてる)
空の妹に産まれたこと。空がリディに出会ったこと。そして自分がリディに出会えたこと。
この二人こそが〝真の友人〟。
リディはわかってないみたいだが、二人に自分がどれだけ救われてきたか——だからこれからも目いっぱい、二人の妹でいようと思う。
(リディが本当に〝お姉ちゃん〟になってくれたらなあ)
と空に視線を向けては、
(兄よ、その時はこのカワイイ天使がひと肌脱ぐぞよ)
と心の中で空の背中をばんばんっと叩くのだった。
とはいえ、恋の〝こ〟の字の気配もない二人なので、
(ひと肌じゃ足りないな。ふた肌み肌——きゃーお兄ちゃんてばヘンタイ)
などと意味不明な妄想している。
美咲がリディに初めて会ったのは小学5年の冬のこと。
いつも通り学校から真っ直ぐ家に帰ると、リビングのソファーに見知らぬ美女がいた。
それもガイジン。
リビングの扉を開けた美咲の方を見て、きりっとした笑顔を向けている。
「?!」
想定外のことに咄嗟に身構えた美咲の頭がフル回転して、
(何語?あたし日本語しかできないよ?)
すると、
「ミサキ?あナタがミサキね?ワタしはアストリッド。リディってヨんで」
少しガイジンっぽい日本語で名前を言い当てられ、動揺したものの
(あー、お兄ちゃんの学校の子か)
と、空が秋からインターナショナル・スクールに通ってることを思い出した。
だが——
美咲は我が家のリビングを見回した。空はいない。リディ一人だけだ。
(?!——お兄ちゃん?!——まずい——)
表情を堅くした美咲が、空の部屋を振り返ったその時、
がちゃ
水の音と共に脇にあるトイレから空が出てきた。空間を見つめて美咲の傍らを、
「おかえり」
と通ってリビングの中へ——
(?!)
美咲は完全に呆けてしまった。
何事?——クラスメイト?友達?——お兄ちゃんの??——
空にはこれまで、クラスメイトや友達がいたことがなかった。空の特性がそれを許さない。
通級指導教室——特別な支援が必要な子どもが、支援学級などのサポートを受けつつ普通の小学校に通う仕組みだ。空は小学校の間このサポートを受けていた。自分の特性を踏まえて、他人と関係を築く方法を学ぶ必要があったからだ。
それでも特にコミュニケーションでトラブルになりやすい空は、周囲から敬遠されていたし、空自身も孤独を好んだ。
当然そんな空が家に人を連れてくることなど無かったし——美咲には今いったい何が起きているのかさっぱり——
(リディ?——そういえば聞いたことがあるような——)
それは少し前、帰るなり美咲の部屋に空が来て、学校での出来事を〈無表情〉で楽しそうに語り始めた。美咲は学校の話を〝楽しそうに〟する空など見たことが無かった。
とても驚いたのだが、空がやや興奮気味だったので、落ち着かせようとしながら話半分に聞いていた。その話の中で〈リディ〉という名前が何度も出てきたような——
(なんだっけ?——懸賞がどうとか——)
美咲はちょっと首をかしげて、
「懸賞のリディさん?」
と、ソファに座ろうとしている空に聞くと、
「ミス・スペル・リディ」
と無表情。だが美咲には空がにやにやと笑っているのがわかった。
「Just a——Oops!ミサキちゃんマデ——」
リディは両手で頭を抱えてわしゃわしゃとキャップを引っ掻くと、片方の眉を上げて空を睨む。
空は声を出して笑っていた——無表情で。
未だリビングの入り口に立っている美咲は、心底驚いていた。
空が友達を家に連れてきた。
その友達はガイジン。
しかも女の子——それも美人!。
さらに空はその子とふざけあっている。
そして声を出して笑っている?!
(なんだこれは——何が起きてるの?!)
空が声を出して笑うのは珍しいことではない——笑いのつぼが独特ではあるが——。でもそれは母や美咲の前だけのこと。
〈リディ〉
目の前でじゃれ合っている二人を見ながら、少し落ち着いてきた美咲は、その空の友達——二人の様子からかなり〝なかよし〟なのがわかる——をよく観察することにした。
肩より少し下まで伸びたボブは淡いこげ茶色。瞳は茶色だが緑がかっているように見える。運動部——きっとバレーボール部——なのが覗える、細身だがしっかりした身体つき。中学一年にしてはかなり長身だ。
日本の中一基準では大人っぽい顔立ちだが、ガイジンだから普通なのかも。美人系。キレイというよりカッコイイ。表情から快活さが伝わってくる。
トップスは綺麗なセージグリーンのニットで、厚手のもこもこタートルネック。ボトムはスリムなデニムで、足先にもこもこのソックス。頭には明るいワインレッドのキャップが後ろ前に乗っていて、耳には小さなピアス。そういえば玄関にライトグレーのダウンコートが掛けてあった。あれはリディのか——
傍らにはキャップと同じワインレッドのバックパック。横長だから通学バッグだろう。何が入っているのかぱんぱんに膨れているが、重そうではない。
——観察終わり。
さて——
二人の仲が良いのはわかった。これは〝友達〟だ。兄に友達ができた——女の子の!——ということだ。
そしてその友達を家に連れてきた。空が誘った?——
「ミサキ、コこ」
〈リディ〉がソファーをぽんぽんと叩いている。
美咲は疑問符を浮かべながら〈リディ〉の隣に座り、空の方を見た。すると空が〈何もない空間〉を見ながら、
「勝負に負けた」
とひと言。
また疑問符が増えた美咲に、傍らから少し外国訛りで、
「ソラに妹がいるって聞いてから、ずっと会いたかったの。でも何度お願いしても会わせてくれないから、ミサキを賭けて勝負してたんだけど——」
兄よ、妹を賭けのネタにするな——
なるほど、〈リディ〉が妹に会わせろと迫り、空は承知せず、ならばと〈リディ〉が勝負を持ちかけた——ということか。
どうやらこの勝負は、だいぶ前から毎日続いていて、これまでは空の全勝だったらしい。どんな勝負をしてたのかはわからないが、スポーツ以外で空に勝負を挑むのは、無謀というものだ。
だが今日、とうとう空の連勝記録が止まった。何日もかけて練りに練った作戦が功を奏し、〈リディ〉が初勝利を飾ったらしい。
空曰く、
「見事だった」
毎日、どんな勝負が繰り広げられていたのかは、あえて聞かないことにしたが、とうとう兄をして〝見事〟と言わしめた〈リディ〉には、
(ただ者じゃないな)
と素直に思え、彼女が帰る頃にはもう
(大好き!)
になっていた。
後に美咲は、リディが無表情で空間を見つめる空を眺めながら——
「He is irresistibly adorable.」
とつぶやいたのを聞いたことがある。
その時は意味がわからなかったが、そのフレーズが何故か耳に残っていて、ずいぶんと調べ回った。フレーズの音だけから元の文を再現するのに苦労したが、隣のクラスの鼻持ちならない帰国子女の協力を得て——借りができてしまった——、やっと突き止めたその意味は——
〝彼は狂おしいほど愛くるしい〟
その瞬間、美咲の目から涙が溢れた。美咲はそれを止めようとは思わず、溢れるままにした。むしろ尽きるまで溢れさせたかった。
まさか、美咲と母と父以外——つまりは〝他人〟の中に、同じように兄・空を想う人がこの世に現れるとは——
そして、心の奥底で繋がり合うとは、こんなにも嬉しいものなのか——
それからひととき、自分を包む心地よく暖かいものに身を委ねながら、美咲は涙を止めなかった。
その翌日。美咲が真夏の極暑の中を汗だくで帰宅すると、リディがリビングでくつろいでいた。
美咲は鞄を放り出して駆け寄り、リディに飛びつき、ひしっとしがみついた。そして、汗だくの美咲を引き剥がそうと抵抗するリディの耳元に——
「He is irresistibly adorable.」
するとリディは抵抗をやめ、暖かい笑みを浮かべて、しがみつく美咲の髪を何度も撫でてくれたのだった。
そのあとに、美咲の汗でべたついてしまったリディと、一緒にシャワーを浴びたバスルームの騒ぎを思い出して——
隣に座る美咲の様子をうかがっていたリディの目が、スマートフォンからすっと顔を上げた美咲と交わった。くすっと笑った美咲にリディは、
「コーヒー飲む?」
とフラスコに手を伸ばす。
リディの意地悪に美咲は、ちろっと舌を出してスマートフォンに目線を戻した。
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