ココロに触れて、それでも
@Eich
ココロに触れて、それでも
「もちろん、後悔ばかり、でも、それでも、幸せだった、ありがとうね」
8月某日、その日は今年の夏の中でも一際暑かった事を覚えている。学生の僕は夏休みということもあって大量の宿題が出ている。
「ちゃんと宿題しなさいよー」
いつも聞く母の定型文を無視して、ほぼ終わってない宿題を床に放り投げて家を抜け出した。
「怒りすぎて血管切れても知らないぞー」
母に聞こえるか聞こえないかぎりぎりの捨て台詞を後に飛び出た。家から出た脚は、特に行くところもないなぁ、と考えながらもトコトコと迷いなく足が動く。商店街にあるショーケースの中にある白黒テレビ。今でもなかなか見ることのない亜麻色の屋根が特徴で、幼稚園の頃に母と一緒に買い物に来ていた頃から学生になって部活の仲間と商店街に足を運ぶ時にまで、何度も通っているお気に入りの場所だ。家からくすねたラムネをゴクリと口にして近くの空き箱を椅子代わりに画面に目を向ける。午後を少しまわったばかりなのに今日の夜ご飯はなにかなぁ、と考えながら。
まだ錯覚していたんだろう。たぶん。宿題しなさいと言ってくれるのも、当たり前のようにご飯を作ってくれることも、自分のために怒ってくれることも、あたりまえじゃなかった。
自由には責任が伴う。自分の自由な時間は、母との時間との等価交換だった。
その日、僕のあたりまえはあたりまえではなくなった。
家に帰った僕の目に映ったのは倒れた母の姿だった。
「ひどいですね、こんな体で....最善は尽くしますが覚悟はしてください。」
医者からの言葉に希望はなかった。母の心臓が弱いことは知っていたはずなのに。心臓の病気が命に関わらないわけがない、少し考えればわかることなのに僕は何もしなかった。いや、わかっていながら僕は現状に甘えていた。送れて当たり前という日常が常識だと錯覚していた。
泣いた。父と共に。母を失うというこれまで一度も考えたことのなかった事実が、僕らをそうさせた。手術は成功とも失敗とも言えず、延命は出来たが命までは....ということだそうだ。でも、せめて最後は、最期ぐらいは後悔したくない。残された時間を後悔のないように使おう。
それからは長かった。たぶん時間にすると4日もない程度だろう。けれどそれはまるで錆付いてほとんど動かない時計のような、短いはずの時間をゆっくりゆっくりと刻んでいるようだった。自分がこれまでしてあげなかったこと、母がしたいと思ったこと、たくさんした。けれども、無限にも思える時間にも終わりはある。母の口から、力を感じれない、それでも必死に出した言葉が綴られた。
「ありがとう、楽しかった。でも、これだけは、言いたいの。自分の子供と、夫と、暮らしている時間が、大切だったんだって。なにもしなくても、されなくても、その時間を、生きれて良かった。うん、それでも....」
あれから数十年もたった。その月日は人を大人にして、一人の親となり、孫を授かるには十分な時間だ。多分今日、僕は母と父のもとへと旅立つのだろう。脳裏に母との別れの日がフラッシュバックした。今ならわかる、母の気持ちが。もう見えない目、聞こえない耳からでも今、自分の周りで多くの人が見守っていることがわかる。母はきっとこんな気持ちだったのだろうなぁ....。意識を失う刹那、母の最期の言葉の続きを思い出しながら僕は眠りに落ちた。
ココロに触れて、それでも @Eich
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