その日の蒼空【空色杯】

武藤勇城

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その日の蒼空

 その日の天気は、桃色黄色の花咲く野原を吹き抜ける春風のような、すっきりとした蒼空が広がっていたと記憶している。もしかしたら、あの時の心境が深層心理をも浸食し、偽りの記憶に改竄しているのかも知れない。


 子供のお小遣いは極僅か。小学生が自由に使える金銭には限りがある。駄菓子を買おうか、ジュースにしようか、それともガチャガチャを回そうか――百円玉一枚に頭を悩ませる。僕がよく通った道。家を出て大通りを右へ、菜の花畑を横目に道なりに進めば、子供の脚力でも十分足らず。大きなスーパーの脇にある、小さな古本屋。たっぷり一時間かけて吟味した末に、握り締めた百円玉を一冊の小説と交換する。

 その一冊は宝物だ。最初は折り目を付けぬよう、丁寧に丁寧にページをめくる。買ってから読み終えるまで丸一日。たった百円で出来る、しかし月に数度しか味わえない、夢世界への大冒険。次回の冒険を心待ちにしながら、何度も何度も同じ旅に出る間に、大切な宝物はボロボロになっていく。


 こうして僕は、幼い頃の探求心を蓄えた大人になった。定職には就かず、フリーターとして働いた。小学校の卒業文集で書いた『将来の夢』――小さな古本屋を開き、空き時間に小説を読んだり、書いたりしたい――を叶えるために。

 数年ぶりに家近の古本屋を訪れた。車を降りて空を見上げる。照り付ける初夏の日差し。「今日も暑いな」一つ呟いて店へ向かう――ふと、自動ドア脇の張り紙が目に入った。『アルバイト募集』時給その他の条件など関係ない。ただここで働きたかった。「張り紙を見たんですけど」店員に声を掛けると、すぐに面接してくれるという。隣のスーパーで履歴書を購入、即日面接。その場で採用を告げられ、念願の古本屋になった。前途を祝うかの如き蒼空、雲一つない快晴の日のことだった。


 週に三日か四日。朝九時から夕方十七時。シフトは二交代制で早番と遅番があり、「どちらでも大丈夫です」と言ったら早番になった。実際、家から最も近い、夢に見た理想通りの古本屋で働けるのだ。選り好みなどしようはずもない。「もっとシフトに出たい」そんな話をしたら、確定申告で税金が引かれない、年間百万円、月間九万円を超えない範囲でしか働かせない方針だという。そのギリギリいっぱいまでシフトに入った。

 それからは、僕の人生で最も充実した日々を送っていたように思う。収入なんて関係ない。子供の頃から通っていた店で、子供の頃からの夢だった古本屋で、何の不満があろうか。仕事に追われて自分の時間がない、なんて不幸な人生ではなかった。仕事が終わると気になる本を数冊買って帰り、家で読み耽った。小説を書く方のタスクは、人生経験の乏しい二十代の若造には凡庸な駄作しか生めず。だから専ら読むばかりだったが、夢への第一歩としては最高だったのではなかろうか。


 その店では担当制を敷いていた。アルバイトの人数は、昼と夜で各六人前後。他に正社員の店長が一人、社長と専務が一人ずつ。このうちアルバイトが、各々担当を受け持つ。例えば少年漫画担当、少女漫画担当、音楽CD担当、ゲーム担当、といった具合である。各自が担当商品のプロフェッショナルを目指す。僕が店にいた頃、ゲームや音楽は夜の人が多かった。昼は主に書籍を受け持っていて、僕自身はと言うと、担当なしのフリーだった。

 僕が入った時、特に欠員があっての募集ではなかったらしい。良い人材を集めるため、一定期間、店頭で募集をかけておくのだという。そうして人員に余裕を持たせておくと、突然の欠員や不測の事態にも対処しやすいのだそうだ。僕はそうやって入った余剰戦力だったため、担当なしで、全ての売り場を補佐する役割を与えられた。


 初日のことは、よく覚えている。カシャッ。初めてのタイムカードを押した後、仕事を教えてくれたアルバイトの先輩。気さくで、ちょい悪な感じの、僕より何歳か年上の男性だった。髪の毛をオールバックにしていて、ホストか居酒屋のバーテンダーかと見紛う外見。担当は小説。その店では、小説は『文庫サイズ』『新書サイズ』『大判サイズ・ハードカバー』の三種類に大別していた。最も売れやすいのが文庫サイズで、理由は安いからであろう。定価が四百円から六百円程度、半額になる古本の値段設定では二百円から三百円。保存状態が悪い本だと百円になるが、これは新書もハードカバーも同じなので、百円コーナーでは元値四桁超のハードカバーが人気になる。初日は文庫の整理を手伝った。

 担当が一人しかおらず、広い売り場は手入れが行き届いていなかった。何か月も売れないままの商品が残っていたし、作者名の『あいうえお順』に並んでいるはずが、立ち読み客が他の場所に移動させてしまったのだろう、順番が滅茶苦茶になっているところも多々あった。日焼けして劣化してしまった本も多数、商品棚に並べられていた。それらを教わった通り綺麗に整理整頓すると、売れ行きは目に見えて良くなった。


 ヤル気に満ち満ちていた僕。日替わり週替わりで、漫画からCDゲームに至るまで、店内各所を回り、バックヤードに溜まっていた未整理品をどんどん加工して商品化。小説部門のみならず店舗全体の売り上げを向上させた。そうした功績が認められ、数年の後、僕はバイトリーダーに就任した。一度はその要請を断った。リーダーだからといって、特に業務が変わるわけでも、給料がアップするわけでもない。責任が増すだけである。それが嫌だったのではない。先輩の面目を潰したくなかったのだ。その先輩自身が「やってみたら?」と後押ししてくれて、喉のつかえが取れたというわけだ。

 正社員の店長には人事異動がある。フランチャイズの各店舗を数年おきに異動する。自分にとって四人目の店長がやって来た。数か月前に新店舗開店があり、そこで雇われた新人店長である。開店セール期間中、他店舗からベテランアルバイトが助っ人に行く。僕も手伝いに駆り出され、顔を合わせていた。店長の方も顔を覚えていてくれて「あの時いたよね?」というような話もした。過去三人の店長とは、アルバイト全員で何度も飲みに行ったし、和気藹々だったが、新店長は勝手が違った。言わば塩対応。年下で人生経験が乏しく、他の職歴も、心の余裕もないのだから仕方がない。そう思っていた。


 新店長が着任して数か月。面と向かって言われた。「長く続けられると迷惑なんだよね」「時給が上がった人から切るんで」この人は一体何を言っているのだ?「早く辞めてくれない?」そんな心の声が聞こえた。ああ、分かったよ。こんな店長の下で働けるものか。今まで僕が、この店のため身を粉にし、どれだけ努力し、結果を出したか。子供の頃からの夢だった。だから人一倍頑張った。それなのにこの仕打ちか。何も分かっちゃいないペーペーのくせに!

 入った時と同じで、出て行く時も即日だった。ぶっちゃけ全くソリの合わない店長だった。女の子のアルバイトにだけ色目を使った。根も葉もないこと、嫌味を何度も言われた。自信過剰で「俺は誰よりも仕事が出来る」などと息巻いた。そのくせ仕事は並以下。人目のない所でサボる時間も長い。他三人の店長と比較しても最悪。もうこんな人間の顔を見なくて良いのだと思うと清々した。


 最後のタイムカードを押す。カシャッ。理想の職場に、幸せだった人世の一ページに別れを告げる機械音。外に出ると、あの日と同じ澄んだ蒼空が広がっていた。

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