第4話

「……ヒカリ?」


 せっかく温泉に入ったものの、いくら待ってもヒカリは来なかった。


 このままでは逆上のぼせるのも時間の問題だったため、少しふらつきつつも部屋に戻る。


 出入口の扉を開けると、ヒカリは障子の縁に腰掛けていた。


 簡素なシャツとガウチョパンツから旅館の浴衣に着替えており、紺色を基調としたそれはヒカリによく似合っている。


 亜麻色の髪が風によってたなびき、さながらこのままいなくなってしまいそうな気さえした。


「──おかえり。遅かったね」


 由梨亜の気配に気付いたのか、ふとヒカリがこちらに視線を向ける。


「ゆっくり入ってたのかな、紅葉みたいに真っ赤だ」


 淡く浮かべられた笑みはどこまでも優しくて、懐かしさすら思わせる。


「……待ってたんだけど」


 けれど『ただいま』とはとても返せず、つい責める口調になってしまう。


 後で行く、とヒカリは言った。


 なのに来なかっただけでなく、こうしてなんでもないという風に会話をしてくるのだから、悪態の一つも吐きたくなる。


「うん、ごめんね。嘘吐いちゃった」


 由梨亜よりもずっと落ち着いた声は感情が見えず、次第に心の中に黒い靄が立ち込める。


 それはゆっくりと大きくなり、このままでは酷いことを言ってしまいそうで怖かった。


(喧嘩なんてしたくない。でも、こんな子供みたいなことで泣きたくない)


 ぎゅうと手の平を握り締めて耐える。


 それでも視界が歪んでいくのは抑えられなくて、熱い雫が頬を一筋流れ落ちた時だ。


「──実は君の恋人だった人……一翔かずとは弟なんだ」


「え、っ」


 唐突に零された言葉の意味が分からず、涙が引っ込んだ。


「それだけじゃない」


 戸惑う由梨亜の反応に小さく息を吐くと、ヒカリが立ち上がる。


 厚底などを履いていなくても頭一つ分以上ある身長差も手伝って、なぜか目の前の人が怖くなった。


「こんなナリで言っても、すぐには信じてくれないかもしれないけど……は男なんだ。どちらも君を騙していたのと変わらない」


 ぴく、と頬が引き攣る。


 しかしそれは驚きこそあれ、よくよくヒカリを見れば分かることだった。


 すらりとした手足は長くて女性的だが、うっすらとある喉仏は男性特有のそれだ。


 それに浴衣を着ていると、思っていたよりもしっかりとした身体が見て取れた。


「昔から声が高かったから間違われまくって、それじゃあいっそ女の子になろうかなって……あ、でも身体はそのままなんだけどね」


 由梨亜を怖がらせないようにか、ヒカリが茶目っ気たっぷりに笑う。


 反射的に口角を上げようとしてもできなくて、苦笑いするしかなかった。


「……一翔が亡くなるずっと前、それこそ付き合った時に君のことを教えてもらったんだ。こんなに可愛い子がいるんだ、って思った」


 ヒカリは人ひとり分の距離を空けると、由梨亜に目線を合わせてくる。


 間近で見た茶色の瞳には戸惑った自分が映っており、しかしすぐに見えなくなった。


 目の前の人が目を細めたからだ。


「ごめんね、黙ってて。……本当はホテルで別れる前に言おうとしたんだけど、タイミングが無くて」


 その人の声はどこまでも優しく、ともすれば恋人に語り掛けるように甘い。


 由梨亜の気の所為かもしれないが、そう思えてしまうほどヒカリの雰囲気は変わっていた。


 ただの『友達』でいたかった反面、本当の自分を見て欲しかった──とヒカリは言う。


「君がどう思うのかも考えずに行動した。このままでいるのも怖くて、こうして誘ったんだけど……言わない方が良かったね」


 ふっと伏せられた瞼が頬に影を落とし、こうして見ると他の男性に比べて睫毛が長いんだな、と場違いなことを思う。


(びっくりしたけど……黙っていたことを謝って欲しいんじゃなくて)


 唇が動かない代わりに、頭は忙しなく動いている。


 ヒカリもヒカリで顔を俯けたままで、なんとも言えない空気が二人の間に流れた。


 それから由梨亜は自分の荷物の前でスマートフォンを、ヒカリは再度海を眺めているうちに、食事の時間になったようだ。


 控えめなノックの音が響き、入室の伺いを立てたあと数人の仲居が部屋に入ってきて、順番に膳を並べられる。


 新鮮な海の幸に始まり、小さな土鍋の中は季節の山菜を使った炊き込みご飯、みずみずしいフルーツや可愛らしい花が浮かんだすまし汁が置かれた。


「──ねぇ」


 仲居が退室すると、向かいの座椅子に座ったヒカリがぽつりと言った。


「冷めちゃう前に食べよっか」


「……うん」


 あまりヒカリの顔を見れず、由梨亜は終始黙ったまま料理を口に運ぶ。


 ヒカリも気を遣ってか何も言わないため、ゆっくりと時間が過ぎていった。

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