今ここにすべてを賭して

 王叔が手を上げると、ミラとバルが入ってきた入口とは反対側に位置する扉の向こうから兵士が入ってきた。ざっと一個小隊、百人前後といったところだろう。


「きさまには我が精鋭百名でなぶり殺してやる。わたしを何度も愚弄した罪、ただで死ねると思うなよ」


「小せえなあ。だから、あんたの下にはつきたくないんだ」


 バルは軽口を叩いたが、それほどの余裕があるわけではない。むしろ、立っているのもやっとの状態で、膝が震えるのを、かろうじて抑えているくらいだ。


 しかも、見渡せば、何人かは見知った顔もいた。いずれも勇名を馳せた兵士で、その力は文字通り万夫不当のつわものばかり。おそらくは他の兵士も同程度の力を備えているとみていいだろう。


 強者だけで編制された百人の精鋭部隊。いくらバルでも手に余る人数だった。


 だが、絶体絶命の状況にもかかわらず、バルは笑っていた。平穏無事がモットーで、戦好きの巨鬼族の中では変わり者であった彼だが、やはりその血は濃く流れているものらしい。劣勢になってなお戦う意志と気力はいささかも損なわれていなかった。


 それでも、この圧倒的に不利な状況はいかんともしがたい。百人をどうやって捌くかを考えていると、後ろからミラが声をかけた。


「バルよ、殺戒を破れ。この状況を覆すには、それしか方法があるまい?」


「殺戒か……使いたくはなかったがな」


 バルが逡巡したのも無理はない。矛盾しているようではあるが、巨鬼族は戦好きではあっても、殺人が好きなわけでは決してないのだ。現に戦場で死にかけていたところを凶猛な巨鬼族によって助けられたとの報告がままあるのである。


 殺しの戒めを破る。それは最後の一線を越えるという意味に等しく、巨鬼族を獣へと堕とす行為に等しい。


 それゆえに巨鬼族が持つ潜在能力を余すところなく引き出し、普段の何倍もの力を出すことができるのである。


 ただ、反面、獣ゆえに敵味方の区別がつかず、動くものがいなくなるまで戦い続けてしまうのだ。バルが懸念するのは、意識がない間、ミラを襲ってしまうのではないかということだった。


「安心せい。あはどこかに隠れておるからの。それにそには少しばかり王叔の目を引きつけてもらわねばならぬ。ちと用意するものがあるのでな」


「そういうことか。わかった。なるべく派手に暴れてくるぜ」


「うむ。そして、バルよ、その誇りを傷つけてしまった。すまぬ」


 殺戒を破ることは巨鬼族にとって、最後の手段であると同時に最悪の方法でもあるのだ。意志あるものが獣に成り下がる。それは汚辱以外何物でもなかったからだ。


 だが、バルはミラに気を遣わせまいと白い歯をむき出しにして、笑殺した。


「気にするな。おまえのためならどんなことだってしてやるさ」


「本当にそはあに甘いな。これ以上、あがつけあがったらどうするつもりじゃ?」


「もう慣れたよ。それよりもちゃんと耳塞いでろよ」


「わかっておる」


「なら、いっちょ気合い入れるために命じてくれ」


「うむ。では」


 ミラは小さく咳払いをすると、きっと前を見つめ、手を前に突き出した。


「ミラ=ダクリュオンの名において、バルトロマイオスに命じる! 我らに仇なす敵を燼滅せよ!」


「応!」


 盾を支えにして、バルは立ち上がる。それを合図としたかのように百人の精鋭が雄叫びを上げ、一斉にかかってきた。


 バルは大きく息を吸った。胸骨が軋み、肋骨が擦れる音がしても、なお息を吸い込む。


 最初の一波が襲いかかろうとしたまさにその瞬間、バルは肺にため込んだ大量の空気を咆哮とともに吐き出した。


 衝撃波が周囲に広がるのが目視できるほどの大音声は先陣を切った兵士たちの鼓膜を破り、さらには脳にまで達した。


 そればかりか、程度を越えた音は彼らの体内を荒れ狂い、大した外傷もないのに、床に倒れ伏す。倒れた兵士たちは一様に顔の穴という穴から血を流し、絶命した。他にも聴覚が発達した種族がその余勢を受け、もんどり打って倒れていく。


 こうしてバルに一太刀も浴びせぬまま、命を落としたのは十人を超えた。たった一声で、グリムの戦力の一割を削いだのである。


 だが、ここに集った兵士は百戦錬磨の兵でもあった。すぐに咆哮に対応できるよう耳にものを詰め、これ以上の被害を防ぐ。


 これで音の衝撃は防御できようが、獣と化した今のバルの武器はそれだけではない。バルは盾を掴むと、それを振り回す。


 盾があまりにも巨大であるために回避行動もままならず、しかも速度と重さが相まって、不幸にも攻撃範囲に入ってしまった兵士たちは防ぐこともできずに身体の一部、もしくはすべてを持って行かれた。


 もはや盾は攻撃を防ぐものという認識すらないバルは近くに寄ってきた兵士の頭を握りつぶし、または鉄拳で兵士の鎧ごと粉砕し、敵から奪った槍で数人の兵士を串刺しにしていった。その様は獣というよりは悪鬼羅刹そのものであり、この地上を破壊しつくすまで誰一人止められそうにはなかった。


 始めこそグリムは余裕の笑みを浮かべながら静観していたが、戦況が予想を外れ、被害が半数を超えたあたりから明らかに動揺し始めた。


 グリムも巨鬼族が戦闘に長けた種族であることは十分に承知しているが、ここまでとは誰が予想し得ようか。グリムがこの十年精魂を込めて育て上げた精鋭が裏切り者の従者ごときに次々と打ち倒されていく。あり得ざる光景だ。


 だが、バルも無傷でいられたわけではない。戦闘が進むにつれ、彼の身体には無数の傷が刻まれた。いくらバルの肌が硬かろうと、歴戦の勇士と斬れ味の鋭い武器には敵わないというものだ。


 致命傷になるような怪我はまったくなかったものの、いくつかの深傷からの出血がひどく、バルが動くたびに鮮血が床に飛び散って、生臭い朱色の花を咲かせていった。


 バルが力尽きるのが先か、それとも兵士が全滅するのが先か。バルも当初の勢いこそなくなってきているが、練達の兵士たちもバルを恐れるようになってきていた。兵士たちの攻撃も必然的に消極的になっていく。


 だが、彼らに逃走することは許されていない。グリムが玉座から立ち上がり、鋭い声で叫んだ。


「きさまら、たった一人相手に殲滅させられる気か! 同時にかかれ! 屍を乗り越えて、やつを討て!」


 命令された兵士たちはたまったものではなかっただろう。死ねといわれたに等しいからだ。撤退を考えない指揮官の下で戦うのは、自殺に等しく、しかも配属されたら選択の余地もない。グリムの下に集結した時点で彼らの死は決まっていたといってもいいかもしれない。


 だが、彼らは抗命するより、死を選んだ。残り全員で間合いを詰めると、同時に飛んだのだ。


 バルの拳が正面から来た敵をはたき落とすのとほぼ同時に、彼の身体に群がるように兵士が各々の武器を突き立てた。


 痛みにバルは叫声を上げながら、身体をむちゃくちゃに振り回す。何人かの兵は逃れることができたが、逃げ遅れた数人は報復と呼ぶにはあまりにもむごい死に方をすることになる。


 バルの胸に飛びついた兵士は首から上を噛み千切られ、脇腹にしがみついた兵士は脳天に肘鉄を食らい、足に取りついた兵士はバルが膝をついた拍子に踏みつぶされてしまったのだ。


 さすがにこのときになると生き残った兵は片手で足りるほどにしか残らなくなった。そんな彼らも無事なものは一人もおらず、いずれも重傷を負い、戦闘の継続が不可能になっていた。


 バル一人で精鋭部隊を全滅せしめたわけだが、彼の身体にはまだ抜けないままの武器が何本も突き刺さり、その様はさながら針鼠のようであった。


 それでもバルは新たな目標を定め、大股で歩み寄っていったのだ。その目標とは最後に残ったグリム・ルースレスしかいなかった。


「きさま……よくも」


 一度も兵士を助けようとしなかったグリムが口惜しがるのもおかしな話だが、彼は正当な理由でバルに激憤していると思っている。


 ここに至り、ようやくグリムは玉座から降り立った。向かってくるバルに対し、逃げようとする意志すら見せない。


 バルの手が伸び、グリムの頭を掴もうとした瞬間だった、グリムの姿はなく、バルの手は空を掴んだ。


「死ね」


 グリムはバルの手を躱しながら、さらに間合いを詰め、バルと密着するところまで接近していたのだ。すべての熱を一点に集中させた灼熱の掌をバルの脇腹に据えた。


 次の瞬間、バルは爆発音とともに吹き飛んでいた。バルの巨体を浮き上がらせるほどの威力により、彼の左の肋骨から骨盤にかけて、巨大なスプーンで刳り貫いたかのように消失していた。


 想像を絶する痛みがバルを獣から意志ある生物へと引き戻す。さらに床にたたきつけられ、その衝撃で傷口から大量の血が周囲に飛び散った。内臓はほぼ炭化しており、焼け焦げた臭いがあたりに充満した。


「ぐ……あ」


 痛む箇所を抑えようと思っても、傷の範囲があまりにも広く、いかに彼の手が大きいとしても、そのすべてを覆うには至らなかった。


 薄れゆく視界に王叔の姿が現れる。とどめを刺すべく、新たな一撃を加えようというのだろう。


 もはや反撃する力などどこにも残されていない。後はすべてを受け入れるだけとなったとき、ミラの声が響いた。


「そこまでじゃ、王叔! もはや勝負はついた! 手を引くがよい!」

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