退路はすでになく

 臆病とはほど遠いバルも安心して肺の中が空になるくらい大きく息を吐く。


「いやあ、相変わらずおっかねえ人だなあ。これから戦わなきゃならないのかと思うと胃が痛いぜ」


「怖いってより、気味悪かったわよ。あんな冷静に狂っていられるなんてさ」


 今までアズハルの影に隠れていたフェリハが、ここに来たことをようやっと後悔したかのような表情で呟いた。


「それで彼は一体誰なんだ? みんな知っているみたいだけど」


 疑問が解消されず、ただ一人悶々としているアズハルにもはや怒ることも面倒になったバルは仕方なく説明してやった。これで何度目の説明だろうかなどと数えようとしたが、その意味のなさに気づいてやめることにした。


「あの人が王叔グリム・ルースレス殿下だよ」


「ああ! 彼がそうなのか! 通りでただならぬ気配を持つやつだと思ったよ」


 迷いの霧が晴れたかのように表情を輝かしたアズハルがあまりにもまぶしすぎて、バルは視線を逸らした。最初に名乗っただろというのも馬鹿らしくなる。


 アズハルの精神攻撃は敵のみならず、味方にも作用するから困ったものだ。しかも、悪意を持っていないだけにより性質が悪い。今まで彼の手にかかって、精神を病んだものはどれだけいるというのだろうか。考えただけでそら恐ろしくなる。


 アズハルについてこれ以上考えても益がなさそう、というよりは明らかに害がありそうだったので、思考作業を中断すると、バルは自分自身の主人に向き直った。


 しかし、そこでバルは表情を強ばらせた。ミラが背中を震わせ、妙な笑い方をしているではないか。王叔の毒気に当てられたかと危惧したとき、ミラはさらに大声で笑い始めた。さすがにこうなってはバルも声をかけずにはいられなかった。


「お、おい、大丈夫か?」


「いや、相変わらず王叔は馬鹿じゃと思うての……っていうか、何じゃ、そのかわいそうなものを見る目つきは?」


「そりゃいきなり笑い出すからに決まってるだろ。殿下の何がおかしかったっていうんだよ?」


「わからぬか? あやつの捨て台詞を思いだしてみよ」


 グリムが消える前に何を語ったか、ついさっきのことなので記憶には残っていたが、何が問題なのかはわからない。すぐにバルは降参の白旗を揚げた。


「だらしがないのう。いいか、やつはこう言ったのじゃ。『邪魔はしない。ゆっくりと来るがいい』とな」


「それがどうかしたのか?」


「まったくその愚昧さにはあきれ果てるばかりじゃ。この言葉を裏返せば、邪魔をするだけの兵力がなく、用意もまだ調っていないということじゃろうが。相も変わらず内心を隠すのが下手な男じゃ」


「少し楽観が過ぎるんじゃねえか? 証拠もないのに断定するのは早いだろ?」


「証拠ならばある。この部屋じゃ」


 バルは首をめぐらせて、周りの様子を観察したが、ミラのいう証拠など見つかりそうもなかった。


「何にもないように思うけどな」


「まさにそれじゃ。何もないのが証拠よ。ここは王宮でいったら門に相当する場所じゃ。門には当然門番がおる。なのに、兵を配していないのは兵力が絶対的に足りぬという証拠ではないのか?」


 ようやくバルも得心がいき、改めてミラの洞察力に舌を巻いた。たったあれだけの言葉からここまで推察したのだ。


「しかも、この広さじゃ、たとえ一個師団の兵力があったとしても、すべてに兵が行き渡るように配置することはできぬ。したとしても兵力を分散させることで著しくその力を削ぐことになる。ましてや、王叔の手持ちの兵などたかが知れておる。あやつは国が滅んだ後も戦い続け、しまいには大惨敗を喫したのじゃからな。せいぜい一個大隊が関の山じゃろう」


「だけどよ、あれから十年経っているんだぜ。兵力を再編したっておかしくねえと思うが?」


「無理じゃな。そもそもあたちは毎年その数を減らしておるのじゃぞ。どこに徴募する兵があるというのじゃ?」


「なるほど。少しは希望が見えてきたよ」


 エレミアの編制では、大隊は千人の兵で構成される。千人を一度に相手取るのならばまだしも、一気にかかって来られない以上、分散した敵を各個撃破していけばよい。


 王叔が兵力分散の愚を犯すとは思えないが、自分を恃むところが大きい彼ならば、ミラたちの力を削ぐためだけの捨て駒として兵を配することもあろう。


「ここまでの話はわかった。なら、殿下の指示した道を通らなくてもいいってわけだよな。みすみす罠にはまる必要もねえ」


「いや、それは無理じゃろう。さすがに封鎖くらいならできるであろうからの。それに仕掛けた罠を突破して、王叔が悔しがる様も見てみたいし」


 最後の不穏な言葉はともかく、王叔の言葉通りに進むしかないようだ。バルはアズハルとフェリハのほうを向いて、たいそう人の悪い笑顔を浮かべて、空疎な激励を飛ばした。


「というわけで、初戦はがんばってくれ。殿下はおまえらのこと、たいそう気に入ったみたいだからよ。いや、羨ましいぜ。殿下御自ら趣向を用意してくれているなんてな」


「だったら代わってあげるわよ」


「よせよ。おれは人の戦いの邪魔をするような無粋な男じゃないぜ」


「薄情者!」


 フェリハがなじったが、それで動揺するようなバルではなかった。さすがに危うくなったら助太刀するかもしれないが、それまでは勇者の戦いがどのようなものか見学させてもらうつもりであった。


 だが、当の勇者は何もわかっていないかのようで、意気込む様子もなければ、これから戦うものの気配もなかった。


「趣向って、何をしてくれるんだろうな? もしかして、食事かな? だったら、ありがたいんだが」


 アズハルが大人物であるのは、つきあいの短いバルでもよくわかっていたが、さすがにここまでとなると却って恐怖が湧き起こるくらいだ。


「アズハル~、しっかりしてよ、も~」


 フェリハが情けない声を出すのを、涙ながらバルは見守った。その様子を見ていたミラは小さく溜息をつく。


「何をしてんのじゃ、こやつらは?」


 会話に入れずに疎外感を感じていたというのはここだけの話である。

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