どうしてこう心臓に悪いことをするのか
あまりにも恐るべきことだったので口に出すことを躊躇したのに、アズハルはあっさりとその一線を越えた。事態の深刻さがわかっていないようで、その顔には焦りも恐怖も浮かんでいない。
「まあ、大丈夫じゃろ。いちいち壁にぶつかっていたら、一体何人あの壁の染みになったであろうことか、わからぬからの。見たところ、きれいなものじゃし、何とかなるであろ」
ミラのこの自信は一体どこから来るのだろう。バルはためしに聞いてみた。
「なあ、その根拠は何だ?」
「あるわけなかろう。勘じゃ」
あまりにも脆弱な憑拠にバルは声にならぬ悲鳴を上げた。視界の隅でフェリハもまた頬を両手で挟み、バルの悲鳴に唱和するのが見えた。
とにかく止めるようミラにいおうとしたが、すでに壁は眼前に迫っている。バルは仕方なく、ミラに覆い被さり、せめて主人だけは守ろうと試みた。
壁にぶつかるまでの時間が永遠に感じられた。時間にしては数秒だったであろう。バルはきつく閉ざした目を開けた。すると球体は止まっており、いつしか「黒子」と思しき屋内にいたのだ。
「あ、あれ?」
「まったく身体に似合わず臆病なことじゃ。あなど堂々としておったぞ。まあ、バルのせいで壁に入る瞬間は見逃したがの」
ミラは呵々と笑ったが、多少怖かったのだろう、バルの服をぎゅっと掴んでいた。さりげなさを装い手を離したが、よほど強く握ったものと見え、バルの服にはその皺がくっきりと残ってしまった。
一方でアズハルもバルと同じようにフェリハをかばっていたらしい。二人ともまだ目を固く閉じ、一向に開ける気配がない。バルは悪戯心を起こして、二人のそばに行くと、突然大声を出した。
「わっ!」
古典的ではあるが、効果は充分だった。アズハルとフェリハは離れたかと思うと、四肢をばたつかせ、どこかへ逃げようとする。アズハルなどしまいには剣を抜く始末だ。
「落ち着けよ。着いたぞ」
そういわれて、ようやく二人とも沈着してきたようだ。あたりを見渡し、無事「黒子」の内部に入ったことを確認して、ようやく安堵の息をつく。フェリハなど腰が砕けたようにへたり込んでしまった。
戦う前からこの調子では先が思いやられると、自分のことを棚に上げて、バルは呆れたが、まずは周辺の状況を検めることを優先すべきだろう。
まずバルたちを乗せてきた球体はいつの間にか消えていた。その代わり、足許には転送装置の祭壇にあった紋様がある。後は特筆すべきものは何一つなく、壁も床も天井も鏡のように滑らかであること以外、前方の壁に別の部屋の入口と思しき長方形の切り込みがあるだけだ。
「なあ、これ、一体どのあたりなんだ?」
「知らぬ」
「はあ?」
「しかたないであろ! あだって来たのは初めてなのじゃからな!」
たしかにミラのいうとおり、彼女は生まれてから十年前までエレミアの外に出たことがなかったのだ。
ミラの言い分の正しさを認めながらも、バルは困ったことになったと言いたげに頭を掻いた。これではどこに進んでいいのかすらもわからない。また、どのように戦力を有し、配置されているか、この情報がないと作戦も立てられない。
さらに侵入に気づかれたかどうかも重要だ。気づかれていなければ、このまま隠密行動を、気づかれていれば、そのまま戦闘しながら王叔の元へと辿りつかねばならぬ。
「で、どうする? とりあえず指針だけでも決めておかないとな」
「ふむ、バルにしてはいい意見じゃ。とりあえず……」
「お困りのようだな。ならば、わたしが案内してやろう」
ミラとバルの会話に割って入った声、それは低い男のものでアズハルのものでなければ、当然フェリハの声でもなかった。全員が声のしたほうを向いた。
そこには一人の男がいつの間にか現れていたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます