常識人という名のツッコミ役が物語を進めていく
「あー、もお! 何だってこんなことになってんのよ!」
誰もが忘れていただろうが、民家の屋根にいたのはアズハルだけではなかったのだ。声はやはり頭上から響いた。
ここで最も割を食ったのは偽勇者だっただろう。誰よりも優位にあったためか、彼はつい声のしたほうを見てしまった。
その時、視界に入ったのは声の主でもなければ、彼方に広がる青い空ではなかった。何やら白いものが降ってきたとどうにか認識したその瞬間、彼の顔は大きく拉げた。
偽勇者の顔めがけて落下してきたのは白い液体の入った桁外れに大きなフラスコだったのだ。偽勇者は薄れゆく意識の中で自分自身の身体が斜めとなり、やがて地面に背中を強かに打ちつける音を聞いた。
ついでにフラスコが命中したとき、その重さで首から嫌な音がしたが、自身の損傷について、彼は患わされることはなかった。地面に倒れたときには意識を失っていたからだ。
「アズハル、そこから離れて!」
声がするが早いか、アズハルは前方に身を投げ出し、偽勇者たちと距離を取ると同時に身体を半回転させる。その身のこなしは十年前よりさらに洗練されていたが、過去を知るミラとバルはあいにくその勇姿を目にするどころではなかった。
アズハルは改めて偽勇者とその一団に何が起こったのかを知った。彼は真剣な表情で、後ろにいるバルとミラに注意を喚起した。
「きみたち、急いでここを離れろ!」
「うるせえな! こっちはそれどころじゃ……って、何じゃ、ありゃあ?」
険悪な表情で顔を上げたバルは偽勇者たちがいた空間に白く濃密な煙が充満していることを目の当たりにして、驚愕の声を上げる。先ほど偽勇者に当たったフラスコが割れ、そこから粘性の高い白い液体が流れ出たと思うと、すぐに気化して、見る間に煙となって充満していたのだ。
「何だ、あの煙?」
「揮発性の即効性催眠薬だ! あの量だとこの町全体に効果が及ぶぞ!」
「何だってそんなことしやがるんだ? テロリストか、おまえら?」
「しょうがないでしょ! これしか穏便なの持ってなかったんだから! それとももっと過激なのがお好み?」
バルの非難に答えたのはアズハルではなく、いつの間にか地上に降りていた女だった。ここでようやく女の顔を知ったバルはどこかで見たことがある気がして、脳内の人名辞典をめくっていた。
後世において、様々に語られる勇者の物語には時代とともに異なれども、主に三人の仲間がいたことが定説となっている。一人は「老兵」ガスパール、二人目は「暗殺者」ゲイエルオー、そして、三人目に列せられるのは「聖女」こと「施術師」のフェリハだ。アズハルはこの三人とともに白鷺王を打倒したのである。
「ああ、そういや、いたっけな、そんなやつが……」
ミラとアズハルの戦っているその後ろで不安げな表情を浮かべ、成り行きを見守っていた少女がいた。それがフェリハである。
特に深い因縁はないが、バルは思い出すことについ徒労を覚えたのも事実だ。積極的に知り合いたいとも思えなかったからである。むしろ、アズハルとともに永遠に再会したくはなかった相手だ。
今のミラからかつての白鷺王に繋げられるとは思えないが、仮に何らかの形で真実を知ったとき、彼らの口から世間に吹聴されるのは甚だまずい。
ここは一刻も早くこの場を離れ、彼らから遠ざからねばならない。幸い、フェリハが放った睡眠薬の煙は足下をなぶり始めていて、どさくさ紛れに逃げるには好都合だった。
ミラを抱えようと手を伸ばそうとしたその時、ミラはそっとバルの手から逃れ、前へと進み出た。ついにおかしくなったとバルは慌てて引き戻そうとするも、後ろ手についてくるなとの意思表示をみせる。どうやら自棄になったというわけではなさそうだ。
「ここはわたくしが何とかいたします」
「いや、ちょっと、きみ……」
アズハルの制止を無視して、ミラは通りの中央まで出ると、右手を突き出し、小さく何かをつぶやいた。
「
ミラが右手をゆっくりと左から右へと動かすと、途端に風が起こり、煙の中心部で渦を巻いた。竜巻というほどの風力はないが、周囲の空気を取り込まんとする旋風に向かって空気の流れができ、髪が荒れるほどの強風が吹き荒れた。
四方へと散らばりかけた煙はこれで一所に集まったものの、勇み出てきたミラはここでようやく自分のできることが打ち止めであることに気づいてしまった。あるとすれば、薬が無力化するまで旋風を起こし続けなければならないが、さすがに体力がそこまで保ちそうにない。
ここで自分を殺した相手とその仲間に頼るのは癪だが、正体を明かすわけにもいかない。
何とももどかしい状況の中、ミラの耳に邪心が耳打ちした。すぐ傍に殺したはずの相手がいることも知らずに、のほほんと間抜け面を晒しているのを見るのは何とも乙なのではないかと。
そう、今の立場は王ではなく、一介の美少女に過ぎないのだから、少しくらい羽目を外してもいいはずだ。当然のことながら、バルも邪魔してくるだろうから、その小姑みたいな手をいかに払いのけてやるかという楽しみもできる。
ミラは緩む頬を懸命に抑えながら、極めて困ったという風に後ろを振り返った。
「あの……これからどうしたらよいでしょう? わたくしの力ではこの煙を留めておくだけで精一杯なのですが」
「え? ああ、わたしにいったの? ちょ、ちょっと待ってて。確か中和剤があったはず」
ミラの力の発動を目の当たりにして、気を呑まれていたフェリハであったが、声をかけられて、ようやく放心状態から戻ってきたようだ。びくりと身体を一度震わせた後、慌てた様子で肩にかけたバッグの中を乱雑に探し回る。
そのバッグは大きすぎる上に四つもあり、それだけで重そうだが、彼女は何の苦もなく持ち歩いている。すべてを合わせると、バルの背嚢ほどの容量になるだろうか。このことから察するに相当な膂力を有していると見える。
やがてフェリハは目的のものを見つけ出し、表情を明るくした。彼女が摘んだ指先には赤い錠剤があった。あの量の煙を中和するにはいささか少ない気もしたが、フェリハは周囲の懸念をよそにその錠剤を旋風めがけて投げつけた。
赤い錠剤が旋風の中心へと吸い込まれたとき、突然、赤い煙が湧いて出た。それは白い煙と混ざり、毒々しいピンク色の煙となっていったが、やがて、その煙が薄れていく。
すべての煙が霧散したとき、ミラもまた手を振って、旋風を消滅させた。後に残されたのは、偽勇者とその一味である。ちょうど彼らだけ睡眠薬の影響を受けたもののようだ。どんな夢を見ているのか、彼らの顔は一様に穏やかであり、安らかだった。
もっとも、彼らにとって、この先の現実は過酷になるであろうけれども。
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