聖女の叱咤
アズハルはいつしか思考の迷宮に迷い込み、さらなる暗がりへと向かって歩を進めようとしていた。
不健康、かつ、不健全な思考に取り込まれそうになったアズハルを救ったのは腹部への強烈な一撃であった。
強引に現実に戻されたアズハルが霞む視界の中に捉えたのは憤激の形相をしたフェリハだった。フェリハは崩れ落ちるアズハルの胸ぐらを掴み、無理矢理立たせた上で、自身の額をアズハルのそれに突き合わせた。
鈍器同士が激しく絡み合う音とともにアズハルは白目を剥き、今度こそ現実から逃れ得ると思ったが、怒りで我を忘れているフェリハは痛みを感じていないのか、相棒の胸ぐらを掴んで揺すぶったので、不幸にも彼の意識は苦しみのまま、現実へと残されてしまった。
「あたしが何回も呼びかけてるのに、無視たあ、あんたも偉くなったもんよね? 英雄とか、勇者とか、まだ舞い上がってるってんなら、またあたしの鉄拳で目え覚まさせてあげようか、ああん?」
世間ではフェリハを指して「聖女」と呼ぶそうだが、実情と世評が乖離することはままあることだ。両者の関係を知らないと、仲間割れが起こったかのように見えるだろうが、アズハルとフェリハにしてみれば、「いつものこと」であり、取り立てて騒ぐほどのこともない。
しかも、アズハルはフェリハのことを「女神」とまで評している節すらあり、ある意味では彼は無意識のうちに実に正鵠を射た評価を下していた。なぜなら、女神とは大抵豊穣と破壊を司る場合が多いからだ。今、フェリハはその女神として負の一面をアズハルに見せているというわけだ。
そんな怒れるフェリハを前にしたアズハルは痛みを伴う経験から、下手に言い訳すると、怪我の具合がさらに悪くなることを知っていたから、端的に事実のみを答えた。
「ご……ごめん、フェリハ。無視したんじゃなくて、ちょっと考えごとしてたんだ」
「ふん。どうせまたくだらないこと考えてたんでしょ? いい? 下手な考え休むに似たり! つまり、あんた、サボりすぎ! でもって、働かざるもの食うべからず! 今日もご飯にありつきたかったら、答えの出ないことにいつまでもうじうじ悩んでないで、きりきり働けってこと! わかった?」
「わ、わかったよ、フェリハ。以後、気をつける。だから、もう手を離してくれないか?」
アズハルの美点は口約束といえど、律儀に守り通そうとすることであることをよく知っているフェリハは素直に手を離してやった。
急に気道が回復したアズハルが噎せるのを見て、フェリハは複雑そうな表情を浮かべる。アズハルが苦しんでいるのはまさにその律儀さであることを誰よりも理解していたからだ。
知らぬこととはいえ、白鷺王も余計なことをしてくれたと、フェリハは十年経った今でも苦々しく思っている。
いかにアズハルが人類社会における統合の象徴になったとしても、個人でできることはほとんどない。
中にはアズハルの志に協力的な国家や都市も存在したが、その見返りとして要求されたのは勇者の政治利用という笑えない顛末が待っていた。
ある国家は対立する敵よりも正当性があることを示すためにアズハルを引き入れようとしたし、ある都市はアズハルを偶像化したあげくに新興宗教まがいのものを作り出し、支配力を強化しようとした。
そんな政治的喜劇から逃げてきたと思えば、今度は偽勇者が巷を騒がせているときた。並の人間だったら、とうに潰れていただろうが、幸い、アズハルの精神はまだ崖っぷちよりも手前で留まっている。
さらに偽勇者に関しては、因果が単純でやるべきことが明瞭なのがいい。悪さをしている偽勇者を討伐するだけなので、複雑になりようがないわけだが、今やるべきことがあるのもまた幸運だろう。動いてさえいれば、アズハルが変に考え込まずにすむからだ。
だとしても、いつまでもごまかせるものではない。フェリハも充分そのことは承知している。いわば、これは前準備である。
いずれ人類社会がどうにもならなくなって、アズハルに頼らざるを得ない日がきっとやってこよう。その日のために、アズハルは困窮している人々を救い、その名をさらに高める必要がある。それを続けていけば、今度こそアズハルは人々の希望の象徴となって、真の英雄となるはずだ。
「そしたら、国の一つや二つ、手に入れられるよね。でもって、あたしは王妃さまだ。だとすれば、今のうちに子供作っておいたほうがいいよね? でもなあ、子供抱えて旅するってのもなあ」
妄想というには、実現性の高い野心と下心が今のフェリハを支えている。いくら同郷の幼馴染みとはいえ、当てのない旅を十年、白鷺王討伐を含めれば実に十二年もの間、ともに行動してやったのだから、この程度の役得がなければ、やってられないというものだ。もっとも、アズハルから頼まれたわけではないので、フェリハの主張は甚だしく正当性に欠けるわけだが。
ともあれ、今はその野望を胸の内に秘めておくべきだろう。一つのことにしか処理できないアズハルに悩みの種を増やせば、彼の脳みそは破裂してしまうからだ。とはいえ、出産にも適齢期というものがあるので、アズハルには急いでもらわなければならない。来たるべき日を早めるためにも、目の前の問題は即座に処理するに限る。
フェリハは努めて明るい表情を作ると、南の方向へと人差し指を向けた。
「さっき聞いた話じゃ、また偽勇者が出たらしいからね。行くよ、アズハル!」
「まったく物好きな連中が多いな。おれなんかになりすまして、一体何が面白いんだか」
アズハルだけが自らの価値を知らない。知らないから、溜息をついて、意気軒昂に歩き出すフェリハの後を渋い顔をして追うことになった。
「少しは見習うか……」
今は前だけ向いて歩くことにしよう。アズハルはそう思いながら、新たな一歩を踏みしめた。
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