まさかその名前がここで?
バルにはささやかな、本当にささやかな願いがあった。あまりにも慎ましやかなので、聞く人が皆涙するほどだ。彼はほぼ毎日、超常的な何者かに対する祈りを忘れない。
「もうこんなネタまみれの人生いやです。何とかしてください」
もはや祈祷というよりは哀願に近い。それほどまでに祈りを捧げても、一向に天に届く気配がなかった。それどころか、運命を司る何者かは面白がって、バルに災難を与えてくる始末だ。そう、現在バルが受けている受難もその一つかもしれない。
「このたわけめ! おまえたちのせいでこの村も終わりだ! この! この! くのっ!」
「ちょ、ちょっと待てってば! いて、いて、痛えよ! おれが何したってんだよ、じいさん!」
バルは老人が持っていた木の杖でしこたま殴られているところだった。ほぼ無力な老人だったので、実害はないに等しいが、不当な暴力であるのは間違いないところだ。
激情には理性を飛ばす代わりに恐怖という感情を忘れさせるものらしく、人々に恐れられている巨鬼族に立ち向かっている村長の行動は勇敢だった。人によっては無謀と呼ぶのかもしれないが。
ともあれ、いきり立つ老人を何とか止めなければならない。力で強引にねじ伏せるのは簡単だが、これ以上、村人の精神に負担をかけるのは望ましくない。
とはいえ、説得工作というのが、バルにとっては至難に近いもので、さて、どうしたものかと殴られながらも、首を捻ってみた。
妙案が浮かびそうになったとき、老人の暴挙を止めたのは、今まで責められまいと空気に徹していたミラだった。
見るに見かねたというより、事態を収拾させて、恩に着せてやろうと考えたのだ。この場合、バルだけでなく、村人すべても対象に入る。
「お待ちくださいませ。どうかお心をお鎮めください」
憤激さめやらぬ様子で声のしたほうを振り返った村長はミラの姿を見た途端、目を瞠り、年甲斐もなく赤面し、言葉を失った。
彼が見ているのは、今にも手折られそうな少女のものだったからだ。ミラは懇願するように両手の指を絡ませ、潤んだ瞳をやや上目遣いにして、村長を見つめている。
一体何百匹の猫を被っているというのか。あまりにも被りすぎて、本性が見えなくなるほどだ。それだけに効果的だった。
長年連れ添ったバルですら、不覚にも一瞬ときめいてしまったのだ。耐性のない村長などいちころであろう。
先ほど、野盗に立ち向かったミラの勇姿は村長の記憶の中から、すっかりいたいけな乙女というように上書きされてしまったようだ。
そんな村長が沈静化したのを見計らい、ミラはさらに切なそうな声で言葉を続ける。情報を得るためには常に会話の主導権を握っておくことだ。
「わたくしたちが何かお気に障るようなことをいたしましたでしょうか? もしそうなら伏してお詫び申し上げます」
こう下手に出られては、何も知らなかった旅人、しかも子供連れ相手に怒鳴り散らしたことにはさすがに大人げなく感じたようで、村長は恥じ入ったように身を縮こまらせた。
「す、すまんかった。あんたたちはわしらを助けようとしてくれたのにな」
「いえ、こちらこそ知らぬこととは申せ、出過ぎた真似をいたしました。このものには後でよく諭しておきますので、どうかご容赦ください」
全責任を被らされる形となったバルは目を剥いて、冤罪を晴らすべく抗議しようとしたが、口を開く前にミラに目で制せられた。黙って見ていろとその瞳は語っていたので、不愉快ではあるが、バルは開きかけた口を強引に閉ざした。
ただ、荒れる内心が顔に表れてしまうのはどうしようもない。バルはこの時、自分がどんな顔をしているか、もう少し考えてみるべきだったかもしれない。その形相たるや、泣く子がひきつけを起こすかもしれない凶相だ。
幸運だったのは、最も近くにいる村長は年甲斐もなく上気して、ミラを見つめているし、他の村人はちょうどバルの背中側にいたので、被害を受けずにすんだことだ。
バル一人を悪者にして、そして、のけ者にして、話はさらに進んでいく。
「それで一体何があったというのでしょうか? わたくしにはこの村がただ焼かれ、略奪されているようにしか見えませんでしたが?」
「た、確かにその通りなのじゃが……」
どこの馬の骨ともわからぬ流れ者に事情を話してよいものかどうか、村長は逡巡しているようだった。逆に換言すれば、言葉を濁したその裏にこそ、彼らが抵抗できなかった理由が存在するのだろう。
正面から問い質しても、はぐらかされるに決まっている。ゆえにミラは搦め手から攻めることにした。どうもこの老人は血気がお盛んのようだ。自尊心を煽れば、うっかり口を滑らせるかもしれない。
「なぜ、あなた方は戦おうとしなかったのですか? 相手はたかだか野盗ではありませんか?」
「馬鹿をいうな! ただの野盗ならば、とっくに追い払ってる! やつらの後ろには……」
ミラの思惑通り、頭に血が上りやすい村長はうっかり喋りかけた。それでもなお、すんでのところで口を閉ざしたのはよほどの大物が背後に潜んでいるからだろう。あともう一押しすれば、洗いざらい口走るやもしれぬ。ミラはいかにも同情したふりをして、さらに煽り立てた。
「なるほど。彼らの後ろにはあなた方が恐れる何かがあるわけですね? ですが、彼らの様子を見る限り、あまり質のいい輩とは思えませんし、彼らをとりまとめるのもたいしたことはないと存じますが?」
「何をほざくか! やつらにはおまえさんの後ろにいる巨鬼族ですら敵わぬお人がおるのだ! いってみれば、亜種の天敵のような方だ! やつらを束ねているのは勇者アズハルさまだぞ!」
「……え?」
愕然とした声を上げたのは、ミラではなくバルだった。まさかこんな僻地でその名前を聞こうとは、さすがに予想できる範疇を超えている。
驚いたのはミラも同様のはずだろうが、バルは周囲の気温が下がったかのような圧迫感を覚えた。おそるおそる主人の顔を覗き込むと、背筋に雷撃のような悪寒が走り抜けた。
敗戦間近で、周囲が敵に囲まれた上に補給も途絶えた戦場にいても、これほどの恐怖を感じたかどうか。
一瞬、いや、それ未満の時間であったが、バルは確かに見た。ミラが目を細め、白刃のような笑みを浮かべていたのを。それは彼女が心底からの怒りを抱いたときに見せる表情だった。
ミラの迷子から始まり、首を突っ込んだ騒動から、あらぬ方向へと事態は舵を切っていく。よりにもよって、ミラを「殺害した」張本人が関わってこようなど、奇跡でも起こったかのような低確率な未来など予見しようはずもない。
平穏無事な旅を望むバルであったが、それは望むべくもないものだったのかもしれない。
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