あてのない旅というのは実質迷子のことではないかと
「は?」
ミラの質問の意味を量りかねたバルは思わず素っ頓狂な声を出した。いや、質問自体の意味はわかる。わかるのだが、何か裏に意図があるのではないかと勘ぐってしまったのだ。それほどまでに彼女の科白があり得なかった。
とりあえず再確認だ。その結果、何がもたらされるかは考えたくもないが。
「あの、今、何と仰ったのです?」
「む。そは人の話を聞いてなかったと申すか?」
「聞いていたのですが、ちょっと聞き捨てならないものを聞いたものですから。もう一度同じことを仰ってもらえますか?」
「仕方のないやつじゃな。ならば、もう一度いってやろう。『ここはどこじゃ?』と訊ねたのじゃ」
バルは自身の聴覚と脳が正常に働いていることを確認し、さらに置かれた状況をもう一度見つめ直し、何度も咀嚼した上で一度頷いた。
その直後、理性の糸がはじけ飛ぶ。
「はぁぁぁぁぁ? おまえ、何言ってんの? 堂々と前歩いてたから、何か目的があるものとばかり思ってただろうが!」
表面上の慇懃さすらかなぐり捨てて、バルは心の底から叫んだ。怒りよりも、むしろ恐怖に近い。何の計画性もなく、ただ漫然と歩いていただけなど、ここ数日の行動を全否定されたようなものだ。
憤怒と恐怖が溶け合うことなく、バルの形相に表れていて、常人なら、それを目の当たりにしただけで失神してしまうかもしれない。
しかし、魔王とまで呼ばれ、恐れられたミラは少しも臆さなかった。ふてくされたかのように頬を膨らませ、口を尖らせる。
「ふん! この道がどこに続いているかなんて、あが知っておるわけなかろう! だいたいあは『元引きこもり』じゃぞ! どこへ行くにしても、『陛下、どちらへ?』なんて訊ねられる生活してたんじゃからな! 見聞を広めることができなかったのに、こんな見知らぬ土地のことなどわかるわけなかろ!」
開き直りもここまで来ると、実にすがすがしい。もちろん錯覚なので、一瞬とはいえ、気持ちを削がれたバルは自身に腹を立てかけた。
そんな従者の心情など一考だにせず、ミラはさらに捲し立てる。言葉数を多くして、バルの反論を封じ、そのまま押し切るつもりらしい。
「よいか、バルよ! 旅の醍醐味とは何じゃ? そう! 風の吹くまま、気の向くままじゃ! あはこの世界に存在する大原則に従ったに過ぎぬ! ゆえにあはちっとも悪くない! この世界が悪いのじゃ!」
その結果として、迷子になったというわけだ。実に心温まる話ではないか。感動しすぎて、目から血涙が流れ落ちそうなくらいだ。
実際目の端に涙を溜まりそうになったバルを尻目に、ミラは突然地面に寝そべり、そのまま転がる。さらに激しく手足を動かし、駄々をこね始める。
「だってこの道がどっかに通じてるって思ったんじゃもん! だのに、いつまで経っても代わり映えのしない風景! あだって被害者なのじゃ! 何であばっかりこんな目に遭うのじゃ! もうやじゃ! 疲れた! 歩きたくない! お風呂入りたい! 野宿はもう嫌じゃ! こんな生活まっぴらじゃーっ!」
先刻まで自由を謳歌し、賛美していたのはどこの誰だったか。
そもそも放浪者の自由とは野垂れ死ぬ権利を得たということだ。因果応報とはまさにこのことだろう。
権利に付随する義務は誰よりも大きくなるものの、王という立場は世人よりもはるかに恵まれた生活を営むことができる。王位をかなぐり捨て、臣下を使い捨て、領民を見捨てた果てに得た自由なのだから、せめて現状は甘受せねばなるまい。
ミラとて愚鈍ではないから、自身の主張が我が儘であることは十分に承知している。周囲にバルしかいないからどこまでも甘えてみせるのだ。
子守につきあわされるバルにしてみれば、駄々をこねるこの少女が本当に白鷺王だったのかと疑わしくもなるが、同時にミラの本質が王の器ではないことも知っていた。
能力だけならば、ミラはエレミアをより一層繁栄させ得たかもしれない。白鷺王の世評は稀代の悪女との汚名が尾鰭だけではなく、背鰭までついて流布されているが、十年経った今、多少修正が加えられたらしく、暗殺されなければ名君との声もあり、対外戦争を減らし、内政に力を注ぎ、国力を充実させようとしていたことが主に歴史学者を中心に知られるようになってきている。
ただ、ミラは性格的に王たり得なかっただけだ。激務に次ぐ激務で休む間もなく、種族ごとの軋轢に心を悩ませ、凶事や変事には対処しつつも、裏では力及ばなかったことを自責していた。
白鷺王の苦悩を間近に見てきたバルだからこそ、彼女が死を偽装してまで玉座を降りることを相談されたとき、真っ先に賛成したのだ。
まさか、自分がその後、大いに苦労する羽目になろうとは予想すらしていなかったが、王だった頃のミラに比すれば、ものの数ではないはずだ。
我ながら甘いと思うが、無意識にうちに団子虫を模したミラが丸まりながら、口から呪詛のような文句を零し続ける姿はさすがに見ていられない。バルはミラがよりいじけぬために言葉を選んで、声をかけた。
「そろそろ起きたらどうだ? それじゃ、余計に汚れるだろ?」
「ふん。あはもうずいぶん汚れておるわ。今更少し汚れたとて、何の問題があるのじゃ?」
妖艶なる白鷺王の姿だったら、実に淫靡な科白になるだろうが、今の状況では文字通りの意味でしかない。
やれやれと溜息をつきつつ、バルはミラの小さな身体をそっと抱き上げた。ミラもそうされることを望んでいたようで、おとなしくバルの胸元に収まった。
「頭についた汚れとかは自分で落とせよ。おれがやると、虐待にしかならないからな」
ミラは素直にバルの言葉に従い、髪や服についた汚れや木の葉などを手で払いのける。一通りすんだところで、その頭をバルの胸へと押しつける。
「……バルはまだ怒っておるか?」
バルからはミラの顔は見えないが、声調から察するに、相当落ち込んでいる様子だ。さすがにこれ以上傷を広げる必要はどこにもない。バルは努めて平静な声を出すよう心がけた。
「怒ってねえよ。怒るのもめんどくせえ」
「それはあに飽いたということか?」
「飽きたんなら、とっくに逃げてる」
どうも言葉が足りていないようだ。ミラは相変わらず顔を伏せ、バルを見ようとはしない。なので、もう少し語を継ぐことにした。
「あのとき、おれは確かに誓ったはずだぜ。最後までつきあうって。
バルは言い終わってから、なぜこのような恥ずかしい科白を吐いてしまったのだろうかと己の行動に深甚な疑問を抱いた。
その自問を自答してみようと試みたが、本能がしきりに危険だと警報を発するので、やめることにした。バルがしようとしたことはおそらく自傷行為に他ならないのだろうから。
だが、口に出してしまった以上、後悔しても遅かった。下から視線を感じて、ふと見やると、ミラがにやにやといやらしい笑みを浮かべているではないか。
「何というか、背中がこそばゆくなってきたわ。しかし、これもあの宿命じゃろうなあ。関わるものすべてに絶対の忠誠を誓わせるあの美しさはもはや罪に等しい」
「ぐっ……て、てめえ……嘘泣きだったってのか?」
「ふん。最初から泣いてなんておらぬわ。ばーかばーか」
小憎たらしいミラの表情に、バルのこめかみには太い血管が盛り上がり、瞳孔は限界まで開く。頬は本人の意志とは無関係に痙攣し、その都度つり上がる口の端からは太い牙が見え隠れした。
この状況を遠くから第三者が見れば、十中八九、人食い鬼がいたいけな少女を食おうとしている瞬間だと思っただろう。
しかし、バルの感情が危険水位に達しようとしたその直前、まるで見計らったかのようにミラは親愛なる従者の胸元を軽く平手で叩いた。先ほどとは打って変わって、涼しげな笑顔を浮かべ、バルを宥め賺す。
「ま、落ち着くがよい。あは思うのじゃが、ここに道があるということはやはりどこかに通じているということじゃろ? ならば、このまま進んでもよいのではないかと思うのじゃ。あとその旅は目的があってなきがごとしのようなものじゃ。せめて『その時』が来るまで、今の状況を楽しんでもよかろ?」
なるほど一理あると、バルは頷きかけてから、先ほどまで抱いていた理不尽への怒りを忘れていることに気づき、まんまと丸め込まれた自分自身の単純さが実に恨めしかった。
敗北感が否応なしにのしかかってくるが、不思議と嫌な気はしない。たぶん慣れたからなのだろう。正面から喧嘩してもぼろ負けする公算が高いし、逃げることも許されないとなればもう腹をくくって、諦めるしかないではないか。
バルの嘆息をよそに、ミラはこの道の先を指さし、高らかに号令した。
「よし! ならば、このまま進むのじゃ! あが愛しの重戦車よ!」
誰が重戦車かと面憎く思いながら、バルは不意にとっておきの仕返しがあることに気づいた。今度はバルがしたりと笑みを浮かべる。
「それじゃ、久しぶりに本気でも出すかな。ちゃんと掴まっておけよ。落ちたら大変なことになるからな」
ミラの返答を待たず、バルは足に力を込めると、思い切り地を蹴る。次の瞬間には、大きな荷物を背負っているにもかかわらず、バルの身体は宙高くにあった。
眼下はまるで地図のような風景が広がる。跳躍の最高点に達したとき、バルは彼方に集落と思しき家々の屋根を見いだした。
「お、村発見。この調子なら日暮れ前には何とかなりそうか?」
「ちょ、ちょっとバル! あはこのふわっとした感触が嫌なのじゃ! って……ぎゃああああああああ」
優雅さとは無縁の悲鳴をミラは上げ、そのまま白目を剥いて、失神してしまう。その間にもバルの身体は重力に引かれて、落ちていき、轟音とともに大地に降り立った。
着地と同時に目標に向かい、土埃を巻き上げながら、疾駆するその姿はまさしく古の重戦車さながらだったが、その腕に抱えられたミラは涎を垂らしながら気絶していたので、せっかくのバルの勇姿を拝むことはできなかった。
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