第一章 自由を満喫するかつての魔王と不自由極まる従者の巨鬼の旅

自由とは野垂れ死ぬ権利を与えられたということ

「自由とは実にすばらしいものじゃ! そうであろう、バル?」


 この科白をこの十年、何度聞いたことであろうか。おそらく千や二千ではないだろう。万単位で聞いたはずだ。最低でも一日三回はこの科白を吐いている計算になる。


 よくも飽きないものだ。バルことバルトロマイオス=ベニゼロス=バシレイオスという長い名を持つ巨鬼族の青年は前を行く少女を見下ろし、半ば感心し、半ば辟易しながらそう思った。


 声の主が春告鳥のように玲瓏な響きがあればこそ我慢し、多少の余裕をもって接することができるが、自分と同じ声だったら、おそらく三日と経たずに殴りかかったかもしれない。あまりにも聞き過ぎたために耳に胼胝たこができるだけではなく、外耳道を塞ぎかねん勢いで育とうとしている。


 殴れない理由は多々あるが、いくら何でも幼女の姿をしているものに暴力をふるうわけにはいかない。どんなに正当な事情があろうとも、非難と糾弾はすべて自分に向けられるだろう。それがわかるだけに、バルのストレスはただただ上がっていくばかりである。


 そんなバルの心労を知ってか知らずか、少女は灰色の髪を春風に靡かせ、楽しげな藍色の瞳は温かな陽光を受け、ひときわ輝く。幼女趣味がなければ、未完の美を目の当たりにしたすべてのものが彼女の十年後に期待を抱くことであろう。


 ただ、バルだけがそんな日は永遠に来ないことを知っている。少なくとも、亜種よりも寿命の短い人間たちが数世代を経なければ、彼女はその真の姿を現すことはないだろう。なぜなら、彼女こそ、エレミア王国最後の王となった白鷺王ミラ=ダクリュオンその人だったからだ。


 誰も知らない真相を知っているのは優越感を伴うものだが、バルに限れば、優越感どころか、気苦労だけが増すだけだ。


 さらに性質の悪いことにこの真実を誰かに話そうものなら、憐憫の視線を向けられた後、優しく背中を叩かれながら、医師の許へと連行されることだろう。しかも、医師も匙を投げ、隔離された病棟で一生を過ごすことになるかもしれない。


 バルはそこまで読めた。なので、白鷺王が死を装って生きていたなどと誰にも話せないし、話せないから心的疲労は右肩上がりにどこまでも蓄積されていく。


 先の見えないこの状況で、バルはいっそすべてぶちまけてしまおうかと何度考えたか、ちょうど十回数えたところでばからしくなってやめた。


 そんな空しく敗北主義的なことを思い煩うより、いかにストレスとつきあうか、あるいは発散できる術を見つけるか、第三者から見れば、ひどくどうでもいい悩みだったに違いないが、それだけにバルは真剣に悩んでいた。


 ただでさえ敬遠されるいかめしい顔をしかめ、考え込むさまは泣く子を号泣させることになりかねなかったかもしれない。


 幸い、周囲には他に誰もいなかったが、バルは鼓膜を叩く餌を取り合う鼠のような雑音に気づき、思考作業を中断した。音のしたほうを見れば、ミラが形のよい眉を逆立たせ、何やら喚いている。無視すると面倒なことになるのは経験上からわかっていたので、やむなく対応してやることにした。


「何すか?」


 声に力も気も入らないのはもうどうしようもない。興味をそそらない話題を振ったミラが全面的に悪い。それでも応じた自分を褒めてほしいくらいだ。


 しかし、ミラの様子はバルの態度を称揚するどころか、誰がどう見ても怒っているようにしか見えない。生返事をされたあげく、面倒くさそうな視線をあからさまに向けられれば、ミラでなくても腹を立てるだろう。癇癪を起こして、この辺り一帯を火の海に変えてしまっても困るが、どうやらすんでのところで堪えているらしく、バルを指弾する人差し指は激しく震えている。


「何じゃ、その気のない返事は! だいたい『あ』がせっかく話しているというのに、『そ』はなぜ聞いておらんのじゃ! あの話をありがたく拝聴するのがその役割じゃろが!」


 けったいな人称がミラの口から出てきたが、「あ」は一人称で、「そ」は二人称である。


 なぜこんな話し方をするのかといえば、自身が白鷺王とわからぬように振る舞っているということらしい。


 ミラにいわせれば、「涙ぐましい努力」なのだそうだが、つきあわされるほうはたまったものではない。次の日には話法や挙措を変えているなんてこともあるからで、いまだ試行錯誤の毎日である。それでもこの話し方が三か月くらい続いているところを見ると、案外気に入っているのかもしれない。


 バルは放射状に伸びる針金のような白い髪を人間の子供の腕ほどもありそうな指で掻き回した。溜息をつきたいのを堪えて、どう穏便に始末をつけようかと考えあぐねた。とりあえず謝っておこう。これでどうにかならなかったら、別の手を考えるまでだ。


「はあ、すいません。で、何の話でしたっけ?


「そこからか? あはまた最初から話さねばならぬのか?」


「ええ、まあ、できれば……」


 あまり気乗りはしないが、ミラが怒り狂って大規模な環境破壊をするのを止めるという名分があるからには、おとなしく耳を傾けてやらないこともない。


 あくまでも消極的賛成ではあるのだが、ミラはバルが乗ってきたと思い込んで、自身の高説を披露しようと息巻いている。


 咳払いの後に発声練習を繰り返し、喉の調子が整ったとみるや、性格とは裏腹に慎ましやかな胸を反らした。かつて白鷺王の立ち姿は凜然として、妖艶などと謳われたものだが、「これ」が同一人物かと思うと、寂寥感がバルの胸を刺す。


「よいか! ならば、その耳かっぽじって聞くがよい!」


 ここで一拍置き、ミラは大きく息を吸って、吐くと同時に高らかに宣った。


「自由は素晴らしい! そもそう思うじゃろ、バル?」


 振り出しに戻る。バルに襲いかかる徒労感と虚脱感は想像を絶するものがあり、ともすれば膝から崩れ落ちそうになる。いちいち同意を求める必要がどこにあろうか。


「左様デゴジャイマスルナ」


 バルの言語機能が一時的に麻痺したのも無理からぬことであっただろう。そもそも最も自由から遠いバルに自由の何たるかを説くのはひどい皮肉としか思えないが、当のミラに悪意がないからさらに性質が悪い。彼女は王という重責から解放され、本当に自由な立場を楽しんでいるに過ぎないのだから。


 かつてミラとバルは王と宮廷騎士という関係で結ばれていた。王国は滅亡し、忠誠を誓うはずの相手は同時に消え失せたはずなのに、どういうわけか、主従関係という奴隷契約はいまだ効力を失っていないもののようだ。


 バルが今日のようになったのはもちろん原因があり、それは幼い頃、ミラに交わした約束が基になっている。当時のことを思い返すだけで地面をのたうち回りたくなる衝動に駆られるが、すべては自業自得であり、誰を責めようはずもない。


 そんなことくらい、バルにも重々わかってはいるのだが、黒歴史を受け入れよという残酷な正論には今しばらく向き合えそうにない。


 かつての臣下が世の不条理を嘆いている一方で、ミラはバルの賛意を得たことで、先ほどの怒りはどこかへと飛んでしまったらしく、一転して上機嫌となる。鼻歌交じりで回れ右すると、意気揚々と歩き始める。


 しかし、数歩進んだところで、突然足を止めた。重大な問題が発覚したかのように眉間に皺を寄せ、小さな顎に手を添えた。


「ところで、バルよ」


 ミラが急に話題を変えるのは凶兆である。この後にろくでもない展開が待ち構えていることが非常に多い。統計を取ったわけではないが、バルが感じる限り、確率というものがばからしくなるくらいには多い。わざとやっている風ではないのだが、そもそも世界を相手に自身の死を演出してみせたのだから、それすらも演技なのではないかと勘ぐりたくもなる。


 ゆえにバルは身構えた。一通りの不幸には慣れたつもりではあるが、この十年というもの、次々と手を変え、品を変えた不幸がやってくる。


 さあ、来い。どんな理不尽な要求でも叶えてやろうじゃないか。バルの口の端にやけくそじみた笑みが浮かんだ。そう強がってみても、訊ね返すその声はかすかに揺らいだ。


「こ、今度は何です?」


「ふむ……」


 ミラは一旦考え込むように珊瑚色の唇を閉ざした。あまりにも真剣な面持ちだったので、バルはつい息を呑んだ。すぐ訪れるであろうひどい未来に対応するためにバルの鼓動が早くなっていく。再び開いたミラの口から飛び出てきた言葉は耳を疑うようなものだった。


「ここはどこじゃ?」

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