10

 そのとき、毛並みがふわりと揺れた。誰かの影が近づいてくる。

 顔を上げると、目の前にユメがしゃがんでいた。にゃあ太を優しく抱き上げ、両腕の中にそっと収める。

 そして、ほのかに笑った。それは、無表情が常だった彼女から届いた、小さな……大きな、スマイルだった。

「タキさん。お疲れ様でした」

「ユメ……ちゃん」

 オババが「茜ちゃんは?」と尋ねると、ユメはすぐに答えた。

「喫茶店で待ってもらってます」

 そのまま、タキへと向き直る。揺れのない視線だった。

「ギターの音、私にはちゃんと届いていました。だからこそ、私も歌えました」

「……ユメ、ちゃ」

「タキさんは、伝説のギタリストです。最高に熱いセッションでした。ありがとうございました」

 ぺこりと、頭を下げてくる。

 礼儀正しすぎて、涙腺が限界を迎えかけた。

 顔を上げたユメが、ふわりと笑う。太陽が差し込んだかと思うほど、明るくて、まっすぐだった。


 何も返せなかった。泣くつもりなんてなかったのに、どうしようもなく込み上げてくる。


 そんな顔は見せたくなかったから、笑った。ごまかすように、無理やり笑った。
 

 涙を、鼻水で押し流しながら――全力で、バカみたいに笑った。

「あはははははっ! マジで伝説だろ、今日! 人生でいちばんイケてたぞ、俺! ユメっちも! ありがとなっ!」

 もう、どこにも引っかかりはなかった。これ以上、望むものなんてなかった。


 自分の人生に、「よかった」と言える日があった。それだけで、もう十分だった。


 たとえ、それが死んでから訪れたものだったとしても――必死に生きてきたからこそ、感じられたのだ。


「じゃあな、ユメっち」

「はい。どうか、お元気で。でも、うるさくしすぎるのには注意してください」

「うっす。ほどほどにやってくよ!」

 ふわりと風に乗って、タキの体が浮かび上がる。商店街が、じわじわと遠ざかっていく。


 それでも視線は、まだ下にあった。夕焼けに染まった通り。見慣れた看板。
のんびり構える猫たち。すべてが、ちゃんと胸に刻まれていた。

 しがみつくというよりも、エンドロールを眺めているような心地だった。


 まだ終わってほしくない。けれど、きちんと終わってほしい。そんな塩梅だった。


 ユメが喫茶店の方へ歩いていく。ほどなくして、茜が出てきて、その隣に並んだ。
 肩の力が抜けていて、ふたりともどこか安堵したような足取りだった。

「ユメって、歌うんだね」


「たまにです」

 たぶん、そんな会話をしている。口元がふわりと動き、視線が合ったあと、肩を揺らして笑い合っていた。


 その光景を、タキは上空からじっと見下ろしていた。知らないうちに、にやけていた。

 ああ、これだ。控えめに言って、マジてえてえ。なんだか、胸の奥まであったかくなる。

 視線をずらすと、にゃあ太がオババの腕にすっぽり収まっていた。
 

 ……なるほど、そういう演出か。粋がすぎるぜ、ばあちゃん。完敗っス。


「じゃ、そろそろ次のステージ、行きますか。祝・宇宙デビュー。伝説のギタリスト・タキ、ここに見参!」

 ギターケースを背負い、背筋をピンと伸ばす。重さはなかった。


 風がひょいと背中を押してくれて、タキはその勢いのまま、笑いながら空の向こうへ飛んでいった。

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