10
七月四日、午後一時。
『角茜さんへ 水無瀬先生の死因に納得できないのなら、死因変換屋を訪ねてください。 場所:◆◆通り、コインランドリーとスナック「ベルベット」のビルの隙間』
手紙をぎゅっと握りしめ、茜は学校の正門から歩き出した。見慣れた静かな通りを抜けると、徐々に賑やかな街並みへと変わっていく。
しばらくすると、大通りのざわめきが耳に届いた。歩道沿いにはカフェやファストフード店、スマホショップのカラフルな看板が並び、会社員や学生、買い物客が忙しなく行き交っている。
さらに進むうちに、空気は徐々に重苦しくなり、行き交う人々の数も増えてきた。
いつの間にか茜の周囲は、まるで別の街へ入り込んだようだった。昼間でも薄暗い路地がいくつも枝わかれし、狭い道沿いには雑居ビルがひしめき合っている。
ビルの壁を埋める看板は、夜になれば鮮やかに光るのだろうが、今は色あせて沈んで見えた。
通り沿いには呼び込みらしい人たちが立ち、通り過ぎる人を静かに眺めている。派手なドレスや肌の露出が目立つ女性たちの写真が目に飛び込んできて、茜は視線を泳がせた。
甘ったるい化粧品の香りやスパイスの混じった食べ物の匂いがどこからともなく漂い、肌にまとわりついて離れなかった。
息がうまく吸えなくなる。人波を縫って進むうちに、自分の制服姿だけがこの場所で浮いているように感じられた。
帰りたい。このまま足を止めれば、きっと引き返してしまう。それでも茜は、コインランドリーとスナック『ベルベット』を探して足を動かし続ける。
地図アプリを確認して、通る道を間違えたことに気づく。
最悪だ。何やってるんだろう、わたし……。
「ねぇ、ちょっと」
不意に通りの脇から呼ばれ、茜は立ち止まった。
振り返ると、
「小遣い稼ぎ、興味ない? 簡単なやつ。話すだけでいいし、制服でも平気だからさ」
茜はすぐには反応できなかった。警戒しながら、小さく首を振るだけにとどめる。
男が一歩距離を詰め、声を落とした。
「そんなに怖がらなくていいって。こんなとこふらふらしてさ、君、そういう子なんでしょ? 多いんだよ、君くらいの子。すぐ稼げるし、誰にもバレないから」
息が詰まって、うまく言い返せない。とっさに体を反らして背を向け、その場から逃げ出そうとした。
「……は? さっきから何無視してんだよ。逃げんじゃねえよ」
背後から鋭い声が突き刺さり、茜の足がすくむ。さっきまでの馴れ馴れしい態度とは違う。底の見えない怒りが背中に張りつくようだった。
茜はとっさに息を呑んで走り出した。周りの景色も足元も、視界からこぼれていく。ただひたすら逃げなければ、という焦りだけが全身を押し動かしていた。
追われているかどうかもわからない。ただ足を動かし続ける。通りを曲がり、さらにまた曲がり、どこを走っているのか自分でもわからなくなっていった。
立ち止まれば捕まるような気がして、止まることができなかった。
怖い。怖い。怖い。
その感覚だけが、繰り返し頭の中を巡っている。
息ができなくて、喉の奥が焼けつくように痛む。どれくらい走ったのかもわからないまま、ようやく背後の気配が消えたことに気づいた。
逃げ込んだのは、見覚えのない狭い通りだった。喧騒とは無縁の静けさが辺りを包んでいる。古びた商店が軒を連ねていたが、そのほとんどがシャッターを下ろしていた。人影も見当たらない。
茜は壁際に体を寄せ、両腕を抱きしめるようにして立ち尽くした。肩が震えている。
込み上げてきたものを抑えることはできなかった。
――先生がいてくれたら、よかったのに。
少しだらしなくても、頼りなくても、あの人ならきっと助けてくれた。
なのに、どうしていなくなってしまったのだろう。
茜はその場にしゃがみ込み、うつむいた。涙が地面に落ちて、ぽつぽつと染みを作っていく。
止めようとしても、どうにもならない。喉の奥が震えて、唇を噛みしめる。
声に出してしまったら、そのまま崩れ落ちてしまいそうで怖かった。それでも、涙だけはどうしても止まらない。
「こっちです」
突然、少女の静かな声が聞こえた。どこかで耳にした覚えのある声だった。
「え……?」
顔を上げるより先に、手首をつかまれる。
肩に届く黒髪がふわりと揺れ、黒いリブTシャツが体に沿ってやわらかく伸びていた。黒いプリーツスカートが動きに合わせてしなやかに広がり、大人びた装いなのにどこか幼い。
涙で視界がにじんで、相手の顔はぼやけてしまっている。それでも、手を握る温もりが、不安を静かに和らげてくれた。
茜は少女に導かれるように歩き出す。ほどなくすると、「コインランドリー」と書かれた看板が見え、そのすぐ隣にスナック『ベルベット』の色褪せた表示があった。
二軒の店の間には狭い通路があり、少女は迷うことなくそこへ入っていく。茜もあとに続いた。
通路を抜けると、周囲から取り残されたような場所に、小さな建物がぽつりと立っていた。少女は古びた扉に手をかけ、そのまま茜を店の中へと導いていく。
扉が閉まったとたん、湿った木の香りがふわりと漂った。
狭くて薄暗い店内には、古びた本や骨董品のような物が雑然と並べられ、まるで別の世界に迷い込んでしまったかのようだった。
少女は静かに茜の手を離すと、そのままくるりと振り返り、正面に立った。茜は思わず息を呑んだ。
「ユメ……ちゃん?」
「はい。同じクラスの
茜は目の前の少女を見つめたまま、言葉を探す。
「え……ここって……死因、変換……屋さん?」
「はい。私はここでアルバイトをしています。あの手紙を入れたのも、私です」
頭の中が追いつかなかった。ユメが、ここで働いている?
それに、手紙まで——?
考えがいくつも浮かんでは消えていくのに、どれも形にならなかった。
ユメは服装こそ違っていたが、それ以外はいつも通りだった。
「このお店は、誰でも入れるわけではありません。でも、あなたは水無瀬先生の死に納得できず、苦しんでいました。だから、ここに入れたんです」
茜は息を詰めた。
「もちろん、亡くなったことを取り消すことはできません。ただ、死因を変えられる可能性はあります」
現実とは思えない話だった。理解が追いつかない。そんなこと、起こるはずがない。
それでも、ユメが嘘をついているようには見えなかった。
「どうして、ユメちゃんは……そんなふうに、親切にしてくれるの?」
問いかけると、ユメは少しだけ目線を落とした。
「そうですね。みんなが水無瀬先生の死を、噂話にしたり、ふざけて笑っているのが、気に入らなかったのかもしれません」
すぐに顔を上げ、茜をまっすぐに見つめる。
「本当は、あなたをここへ案内することは禁じられています。今回は例外です」
濁さずに伝えてくれたユメの言葉を、茜はまっすぐに受け止めた。今だけは、心に浮かんだ想いをごまかさず、素直に信じたい。
「ありがとう、ユメちゃん。わたし……先生の死因、変えたい」
ユメは静かにうなずく。
「わかりました。それでは、まずこちらを読んでください」
そう言ってカウンターの奥へまわり、一冊の冊子を手にして戻ってくる。表紙には、黒い文字が整然と並んでいた。
『死因変換ルールブック』
「……それが、ルールなんだね」
「はい。読んでいただいたうえで、角さんのお話を伺います」
「うん……わかった」
茜は冊子を受け取り、ぱらりと最初のページをめくった。予想していたよりも現実味のある規則が並んでいた。
どこかの物語に出てくるような不確かな仕組みではない。きちんとした手順があり、条件が明記され、いくつもの決まりが
視線がある一文に吸い寄せられた。
「これ……わたしが、先生と直接会って話せるってことなの?」
ユメは黙ったままうなずき、「其の七」と書かれた箇所を指でなぞる。
「交渉の範囲を超えるやり取りは、認められていません。この項目は、必ず守ってください」
「そっか……」
気持ちがざわつき、全身が熱くなる。伝えたいことを、うまく伝えられるだろうか。
どうにか落ち着いたふりをして「じゃあ、お願いします」と言いかけたところで、茜はふと気になった。
「あ……でも今、お金ないんだ。依頼料って、いくらかかるの……?」
不安で声がかすれる。それに対してユメは、いつもと同じ淡々とした口調で返した。
「最低十万円からですが、平均は三十万円ほどです。昨年の依頼では、百万円頂戴したこともありました」
「ひゃ……ひゃくまん……」
そんな大金を用意できるわけがない。
「角さんの場合、私が特別にご案内したという事情がありますから、最低の十万円でお引き受けします」
「……ありがと。それなら、貯金からなんとか出せそう」
ほっと安堵の息をついて、茜は少しだけ肩の力をゆるめた。
「何か質問はありますか?」
「ううん。人に話したら罰があるとか少し怖いけど、絶対に言わないから」
「わかりました。では、理由をお聞きします。まず、水無瀬先生の新たな死因を教えてください」
その問いに、茜はすぐに返事をすることができなかった。
どんなものを選んでも、あの人が帰ってくることはない。
どの結末だって悲しいことに変わりはない。それでも、「自殺」という現実だけは、絶対に認めたくなかった。
もしそれを認めてしまえば、先生は噂の通り、罪から逃げて終わった人になってしまう。
茜は静かに目を伏せ、ゆっくり息を吸い込んだ。
「……いちばん、先生がしんどくない死因……さっきまで元気だったけど、ぱたっと死んじゃう……突然死っていうのかな……それが、しんどくないのかとか、わかんないけど……。それでも、自殺だけは嫌なんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます