5
「こっちこっちぃー!」
明るい声が、公園の遊歩道に響いた。小さな背中が弾むように駆けていく。陽射しの中で、ふわふわと揺れる髪がきらきらと光っていた。
「美湖、走っちゃダメだぞ」
翔也は思わず声をかけ、足を速める。
「ええー、はぁ……平気」
立ち止まった美湖は、両腕を広げてバランスを取りながら呼吸を整えていた。肩が上下し、額には細かな汗がにじんでいる。
「美湖ちゃん、パパの言うこと聞いて。手術したら、走れるようになるから」
由希がそっと背を撫で、やわらかい声で言い聞かせる。美湖は不満そうな顔で、翔也と由希を交互に見上げた。
「うん……けど、こわい」
さっきまで弾んでいた声とは違い、小さくかすれていた。
「ママもパパも付いてる。美湖なら大丈夫」
翔也はしゃがみ込んで、美湖と目線を合わせた。小さな手を包み込むように握り、笑みを向ける。
「そうそう。美湖ちゃんががんばったら、パパ、動物園に連れてってくれるよ? パンダさんとゾウさん、見たいでしょ?」
由希が明るい声をかけると、美湖はわずかに表情をゆるめた。けれど、不安そうに唇をかみ、視線は地面を向いたままだった。
「……みこだけがんばるのやだ」
握った手に、ぎゅっと力がこもる。
「パパもがんばって、マンゴージュース、お店に置いて」
翔也は驚きながらも、くすりと笑った。
「……ああ。絶対約束する」
翔也は美湖の頭を軽く撫でた。美湖はにっと笑い、翔也の指をぎゅっと握り返した。
――あのときの感触が、今でも手のひらに残っている気がした。
美湖は、生まれたときわずか九百グラムしかなかった。予定よりずっと早く生まれ、小さな体にいくつもの管をつけられたまま、NICUで過ごした。泣き声は頼りなく、抱くことすら許されない日々が続いたが、それでも懸命に生きようとしていた。
最初は体が小さく、発育もゆっくりだった。けれど、少しずつ力をつけ、驚くほど元気になっていった。
よく飲み、よく食べ、よく眠る子になり、定期健診でも順調だと伝えられた。あんなに小さく生まれたとは思えないほど、ほかの子と変わらない姿に育っていった。
そんな矢先だった。三歳を過ぎたころから、変化があらわれ始めた。
走るとすぐに「つかれた」としゃがみ込み、風邪をひくと長引くようになっていった。
五歳になると、症状はさらに目立ち始めた。ときおり「ドキドキする」と訴え、遊んでいても途中で疲れて座り込むことが増えた。顔色が優れない日も多く、無理をさせられない場面が増えていった。
ある日、由希が言った。
「一度、大きな病院で診てもらおうよ」
翔也は、成長すれば自然に整うこともあると考えていたが、由希の真剣な表情に、それ以上の反論は飲み込んだ。
総合病院の小児科で、医師が聴診器を美湖の胸に当てる。音を確かめるように、じっと耳を傾けた。しばらくしてカルテに何かを書き込み、眉をひそめる。
「念のため、心エコーを撮りましょう」
翔也と由希は、顔を見合わせた。 美湖は状況が呑み込めず、診察台の上で足をぷらぷらと揺らしていた。
検査のあと、美湖を院内の保育スペースに預け、翔也と由希は再び診察室に呼ばれた。 医師はカルテに視線を落としたまま、慎重に口を開く。
「検査の結果ですが——」
一拍置いて、続きを口にした。
「美湖ちゃんは、心房中隔欠損症です」
翔也の鼓動が、ひとつ遅れたような感覚になった。
由希が医師の顔を見つめたまま、かすれた声を出す。
「それって……どんな病気なんでしょうか……」
由希の声が細く響いた。丸椅子に浅く座ったまま、指先を握りしめる仕草が視界の端に映る。
医師はうなずき、説明を続けた。
「心臓の壁に穴が開いていて、その影響で血液の流れが通常と異なっています。年齢が上がるにつれて心臓にかかる負担が増え、最近の疲れやすさとして出てきたのでしょう」
「……大変な病気なんでしょうか……手術、しなきゃいけませんか?」
由希の声は震えていた。
「はい。穴が小さい場合は経過を見守ることもありますが、美湖ちゃんは中等度の欠損があり、このまま放置すると心不全や肺高血圧症を引き起こす可能性があります。手術は、できるだけ早い段階で行うのが望ましいです」
翔也は、無意識に拳に力を込めていた。
「手術の時期は……?」
「美湖ちゃんやご家族の準備もあるでしょうが、できれば数週間以内には決めていただきたいです」
由希が小さく息を吸う気配が、隣から伝わってくる。翔也も、喉の奥がつまるような感覚にとらわれた。
「……わかりました。手術をすれば、治るんですよね」
翔也の声は、自分でも気づかぬうちに低くなっていた。
医師はわずかに姿勢を正し、落ち着いた声で続けた。
「はい。手術によって心臓の穴を閉じれば、血流の異常は改善されます。成功すれば、今後の生活に支障が出ることはほとんどありません。体の成長とともに、運動も日常生活も、制限なく送れるようになるでしょう」
ひと息置いて、ゆっくりと付け加える。
「もちろん、手術には一定のリスクが伴います。ただ、年齢や状態から見ても、美湖ちゃんは十分に回復が見込めます」
医師は少し声を落としながら、続けた。
「術後に合併症が出る可能性もゼロではありませんが、今回のようなケースでは非常にまれです。術式も確立されていて、経過が順調であれば問題なく日常生活に戻れますよ」
由希が、ふっと肩の力を抜くように息を吐いた。翔也が隣を見ると、その目がわずかに潤んでいた。 きっと、最悪のことを想像していたのだろう。
「よろしくお願いします」
ふたりは立ち上がり、そろって頭を下げた。翔也は深く頭を下げながら、隣から伝わる気配に耳を澄ませた。
診察室を出ると、まっすぐ伸びた廊下の奥で、美湖がプレイルームの中にいるのが見えた。積み木をきれいに並べながら、ぽこぽこと体を揺らしている。
翔也と由希の姿に気づいた美湖が、ぱっと顔を上げた。笑顔を浮かべて、両手を振ってくる。
「パパ! ママ!」
翔也はしゃがみ込み、美湖の頭に手を置いて目線を合わせた。
「大事なお話があるんだ」
「だいじ?」
美湖は首をかしげる。
隣に立つ由希と目が合った。こういう話は、母親のほうが伝えやすいかもしれないと判断し、翔也は由希に任せた。
由希は美湖の前にしゃがみ、両手を包み込むようにして握った。
「最近、すぐ疲れちゃうことあったよね?」
「……ちょっとだけ」
「それはね、美湖ちゃんの心臓ががんばりすぎてるからなんだよ」
美湖の目が揺れた。
「お医者さんが言ってたの。手術をすれば、もっと元気になれるって」
「……しゅじゅつ?」
その言葉を口にしたとたん、美湖の表情がこわばった。
「大丈夫。手術をすれば、治るんだよ。もっと元気に遊べるし、パパもママもずっとそばにいるから」
「やだ……やだよ……!」
美湖の声がかすれ、目のふちに涙があふれた。
「ちゅうしゃもやなのに……しゅじゅつなんて、もっとやだ……!」
翔也はそっと頬に手を添え、やわらかく笑った。
「美湖、かけっこしたいって言ってたよな? がんばれば、またたくさん走れるよ」
「……こわい」
「大丈夫。美湖ちゃんは、ひとりじゃないよ」
由希が美湖の肩に腕を回し、優しく抱き寄せる。
美湖はしばらく唇をかみながら黙っていたが、やがて、小さくうなずいた。
翔也はこの子の強さを信じた。その思いは、やがて現実になった。
手術は無事に終わり、美湖は日常生活を送れるほどに回復した。
疲れやすさに悩まされることもなくなり、走り回る姿が自然に見られるようになった。
風邪をひいても、すぐに元気を取り戻すようになっていた。
なのに——。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます