コールドブリュー

石楠花

001 パリの出会い

Bar Tuileriesバー・チュイルリから自室へ帰る道のなか,私は昔のことを思い出していた.

 通っていたスイミングクラブで私を目にかけていた,学年にして二個上のスイマー.小学校5年生の当時,しなやかな筋肉の周りにまとった薄い脂肪,変声期の甘やかなかすれた声.私は粘度の高い欲情を抱いていた.

「何かお手伝いできることはございませんしょうか」

 馴染みとなった副支配人の女性が顔をのぞかせてきた.中庭を見ながら歩いていると決まって声をかけてくる.

「ありがとうございます.この2週間ちょっと,本当によくしていただいて」

「とんでもないことでございます.ご滞在が快いものでございましたことを願っております」

「では」

 二日後の便で羽田に帰る.CDGシャルル・ド・ゴール空港でポールのクロワッサンを最後に食べ,私はこの国に二度と戻らない.今回の旅は忘れてきたものを回収しに来たに過ぎない.

 かつて貴族の屋敷の一部であった一室,軽くないドアを自ら開けると,応接机に腰かけた.

「あと数日か」

 私がこの街にきた目的,結果的にある男に会うことであった.目的の男はこの部屋のベッドに腰かけている.麗しい自室を放置して.

「えもいえぬ高揚感だろう」

 男.Escherエッシャー.鼻の高い白人青年は,嫌味に囁く.

「・・・」

 机上の生ぬるいほうじ茶を含むと,男に噴霧した.

 男は白銀の胸毛を伝う雫を掬い,飲む.

「救いようがないね」

 むろん彼に救いようもない特殊性癖があるわけでもない.私のはかないレジスタンスを無意味としているだけだろう.

「考えてくれたかな」

 この都を発つまでに,この男の事実上の妻にならなくてはならない.崇高なる意思を承知の上で,侮蔑的な笑みを浮かべている目の前の男と.

 ペン.切迫感.窓の外の庭園.彼が近づくたびにえもいえぬに満たされる.

「そうするしか,なさそうねぇ」

 私がこの街に辿り着いた理由が目の前にいるのに,空港から今に至るまでの全てを見透かしているような気がして,気味が悪いのである.

「仕事を始めよう」

 エッシャーがそのように口火を切る.何を恐れてか遮光した.

「君の親を責めるようで申し訳ないが,まず田村一代で間違いないだろう」

「そのようね.あの女が」

 前々から気づいていた,だから田村一代が匿う本床グループの脱税を白日の元に晒してやろうと思った.奴らは少なくとも400億円以上やっている.

「根拠は十分だ.だがもう少し調査を進める必要がある.だが君はなぜ首を突っ込む」

「...」

「まあいい.いずれにしても私はこの事実を明らかにしなくてはならない」

「どうして」

「それを君に話すには,もう少し君は心を開くべきだ」

 彼は湯呑みに残ったほうじ茶を口に含み,左肩を撫でた.自己をひけらかすようで,うまく誘導されたような感覚.

「馬鹿馬鹿しいわ」

「じゃあこの堅苦しい喋りもやめよう」

 灯火管制の解除.街の音.揺れるベッドスロー.どうやら彼には,何がなんでも私を日本に連れて帰らなければならない事情がある.

「新婚旅行は京都でどう?」

「ありきたりだわ.今すぐジェットを飛ばしなさい」

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