(4)

日毬の胸中に、かつて覚えた愉悦の残滓が微かに揺らぐ。家族と呼ばれる繭の中へ、一人また一人と音もなく潜り込み、その糸を、絆の根元から腐らせる。時間をかけ、丁寧に緩慢に人間関係を蝕んで崩壊させてゆく。その緩慢な過程が、彼女の孤独を深く満たした。

壊れてゆく音を聞くたび、日毬の心は凍てつくような充足感に浸った。じわじわはと心を燻り、笑がこぼれてくるのだ。


だが今は、その工程への価値観が変質していた。あの頃の悠長な愉悦は、もどかしさへ変わっていた。復讐の炎は、あまりに長い時間を燻りすぎたのだ。死までは、一年ほどかかる。三人同時に新しい家族にしていても、ペースは遅く、その前に街から出てゆくものもいた。今までは、殺された地、深夜列車に乗るものの家族となっていた。全員この街に住む者なため、そんなに遠くは無いが、同じマンション内という訳では無い。緋音も肖美も住宅街の方にある一軒家に住んでいた。

瑤、紅葉、瑠璃、毬子の時はおなじマンションであったため、効率も良く満足度も高かった。ここを狩場にするのも良いのかもしれない。毬子への恨みが凝縮されたこの場所は、今でも許せない。


ふと、考えが途切れ、意識は周囲に向けられた。

何かを待つような、凍り付いた沈黙が、廊下────いや、マンション全体を満たしている。日毬は、自分の予期せぬ出来事が、この薄暗い建物のあちらこちらで起こり始めたことに気づく。それは、彼女の計画にはなかった音、予期せぬ訃報、唐突な消失────。都合の良い事実ではあるがなぜなのだろう。瑠璃の仕業か。

いや、瑠璃はもう、日毬の手のひらで踊っているも同じだ。では誰の行為なのか。

考えにつくものはいなかった。思えばひまりに知り合いなどいない────。

疑問を抱いている中も、変異は起こり続ける。

下の階の独り暮らしの女が、朝方、部屋の中で冷たくなっているのが発見される。みつけた住人は、腐敗臭が隣の部屋からしたため、通報したと記者に語った。マンションには記者や警察が訪れ、一度大事になったが死因は突発性の心臓発作と特定され、すぐに人波は引いていった。遺体はすぐに親族が引き取り、マンションは静寂を取り戻す。

いつの間にか、見つけた住人も気にしなくなっていた。彼女は死体を見なかったのであろう。毬子の死体を見た時の姿が、鮮烈に蘇った。喜びの成果であったが、同時に彼女が死んだ時のことが思い出される。もう、まりこに復讐は出来ない────。

肩をぽんと叩かれたようにふと物思いから醒める。最近起こる変異は何なのか。

ここ数日は一週間に三日程のペースで死体が見つかっている。明らかに異常な事態だが死因はあまりに普通で、偶然と言わざるを得ない。

偶然のようで、偶然では無いかもしれない。

この感覚は何なのだろうか。


※※※


数日後、向かいの棟に住む若い夫婦が、些細な口論から激しい喧嘩に発展し、夫が妻を突き飛ばして階段から転落させるという事件が起きた。幸い、命に別状はなかったものの、妻は即座に離婚を突きつけ、その日のうちにマンションを出て行った。夫婦の絆が、一瞬にして砕け散る様は、日毬の計算を超えた速度で進行している。

それだけでは終わらず、数日も経たぬうちに、マンションの裏手にある小さな公園で、いつも楽しそうに遊んでいた少女が、突如として姿を消す。捜索届けが出され、警察の捜査も行われたが、何の痕跡も見つからないまま、時間だけが虚しく過ぎてゆく。その少女の母親は、憔悴しきり、夜な夜な公園で娘の名前を呼び続けるようになった。彼女の叫び声は、夜の闇に吸い込まれるばかりで、誰にも届かない。

日毬には届くがあまりに不可思議で喜びよりも疑問をよびおこす。気がつけば、思考は、その予期せぬ出来事の連鎖を辿っていた。

いつの間にかそれは、マンション内だけの事ではない。近隣の商店街の店主が、突然店を閉め、夜逃げしたという噂が流れた。普段は活気のある通りが、一つ、また一つとシャッターを下ろし、まるで生命力を吸い取られたかのように静まり返ってゆく。町全体が、徐々に死の気配に覆われ始めた。


普段は冷静であった日毬は、これらの出来事の全てを、異様な昂ぶりを伴って観察する。

まるで、自身が監督する舞台の幕が、意図せぬ形で開かれ、演者が勝手に動き出したかのように、呆然とする。しかし、彼女は、その狂演の背後に、ある共通の糸が張られているのではないかと思うようになった。それは、彼女の復讐の意志に呼応する、別の何かの存在であるような気がする。そして、その「何か」が、瑠璃であると、彼女は勝手に思い込んでゆく。

瑠璃は、日毬が操る傀儡だ。しかし、その傀儡が、日毬の予想を超えて動き出している。彼女は、まるで、自分の手足が、意志とは別に、勝手に踊り出すような、奇妙な感覚を覚え始めていた。

やがて日毬は、自身の復讐の炎が、瑠璃という器を通じて、周囲の人間へと燃え広がっていることに、確信を抱き始める。瑠璃の内に宿る日毬の意志が、マンション全体にだけではなく近隣へと、伝播している。まるで伝染病のように、不和と絶望が、人から人へと感染してゆく。

けれど今や日毬の脳裏には、瑠璃の姿が鮮明に浮かぶ。瑠璃が、日毬の復讐の道具として、その役割を完璧に果たしているのだろう。そう考えると、日毬の胸には、奇妙な満足感が満ちてくる。予期せぬ展開ではあったが、結果として、より広範囲に、より深く、人間関係の崩壊と死が広がっている。それは、日毬が当初計画していた「緩慢な侵食」とは異なる。しかし、その加速された破壊は、日毬の復讐への飢えを、より強く刺激した。


マンションの屋上から見下ろす街は、以前と変わらず、光を放っている。しかし、その一つ一つの光の下で、人間関係が蝕まれ、生命が消え去ってゆくことを日毬は知っている。

少しだけ、昨日より暗い夜空が拡がっているように見えた。その瞬間、彼女の目に入っている家屋の電灯が突如消え去り、夜闇が深くなる。何かが起こったのだ。ここ数週間の空気を見るに、そう思うしかない。

ふと、えみが口の横からこぼれおち、あまりに静かな、マンションに、街に、響いた。

狂気の笑み。満足の笑み。そして、復讐が決して終わらないと決意した笑み。

一人屋上で、日毬は嘲笑した。

屋上からの階段は、マンションの中に直接繋がらない。外階段で降りていき、エントランスから中に入らなくてはならない。

階段室のドアを押し上げ、パタパタと駆け下りてゆく。

ギィーっと音を立てて再び扉が空いた時、日毬の耳には喧騒が飛び込んできた。

変異が始まる前の夜の喧騒とは異なり、ひとりが音源になっているようだ。

そちらを除き混むと、マンションの玄関から、一人顔色の悪い住人が出てきた。彼は、足元がおぼつかない様子で、茫然自失といった風に、よろめきながら去ってゆく。

今度は何が起きたのか。少し疑問が浮かぶが直ぐに消え去り、日毬の視線は、その背中を追う。だが、疑問は直ぐに移り変り、彼の存在はひまりの中で打ち捨てられた。

次に誰が消えるのか。

誰の絆が砕けるのか。

誰の生活が暗闇に沈むのか。


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