第五章 新たな犠牲者────────
(1)
霊安室の冷気は、日毬の肌には何の影響も与えない。白いシーツに覆われた三つの隆起は、かつて彼女を取り巻いていた存在の最後の痕跡だ。しかし、その死が、彼女の内に何ら感情の波を立てることはない。彼女の空白の視線は、虚空を捉えたまま、ただ静かに佇んでいた────。
やがて、夜の帳が降り、街に灯が点り始めた。その光は、日毬を呼ぶかのように瞬き、彼女の歪んだ心を刺激する。過去の者に別れを告げ、新しい喜びを見つけなくてはならない。過去の余韻に浸っていても、彼女の心は満たされない。
病院の自動ドアが、無機質な音を立てて開く。日毬は、水色のワンピースを揺らしながら、夜の街へと足を踏み出した。アスファルトの冷たさが、擦れた靴を履いた足裏に伝わるが、彼女はそれを感じることもない。ただ、前方へと、吸い寄せられるように歩いてゆく。日毬の心は、新たな犠牲者の存在で満ち溢れていた。
歩きゆく人々の顔は、彼女の目には、感情の影を宿さない、ぼやけた点のように映る。彼らは日毬の眼中に無い。犠牲者のひとりは決まっているのだ。だが、今回いなければ、次回になるかもしれない。
そのほかの三人は、たまたま深夜列車に乗り合わせた不運な人間だ。
前回は三人、前々回は二人、その前は一人と、一人ずつ一度に犠牲にする人数を増やしてゆく。その瞬間が、彼女に取って最大の至福の時なのだ。
路地裏の暗がり、ネオンの光が乱反射する雑踏、高層ビル群の影。日毬は、その全てを、まるで平坦な絵画のように眺めながら、とぼとぼと歩く。喜びを前にしても彼女の顔には、何の表情も浮かばない。ただ、ガラス玉のような目だけが、暗闇の中で、微かに光を放っている。
歩を進める度、足音は響く。だが治安の悪い夜の道の喧騒に溶けてゆき、誰の耳にも届かない。周囲の人々は、自分の周りしか見ず彼女の存在に気づかない。気づいたとしても、興味の欠片もなく、彼らは目をそらす。日毬は、彼らの間をすり抜け、四人しか人もいないホームへと、まっすぐに進んでゆく。
ホームの電気は消えかかり、暗闇の中、頼りなく揺らめいている。
夜の闇が、光を吸い込んでしまい日毬の体を見えないほどに包み込む。しかし、彼女の存在感だけは、闇の中に溶け込まず、その存在を際立たせる。
新たな犠牲者を見つけることは、彼女にとって、呼吸をするのと同じほど、自然な行為である。
電光掲示板には、最終便と書かれた電車の後、空白が広がっている。最後まで乗り過ごした彼女たちは、日毬の犠牲者になることが決まっている。逃れることは出来ない。
最終便を待つ四人の女性は、疲れと諦めをその背中に滲ませていた。しかし彼女たちの目の奥には、日毬には理解できない、微かな光が揺らめいている。
許せない。僅かにでも幸せを感じている人間を許せない。絶望させたい。平然とした彼らの姿が、日毬の目を、顔を、心を、歪ませてゆく。
列車が、けたたましい轟音を立ててホームに滑り込んできた。日毬は、その黒い鉄の塊に、吸い込まれるように乗り込んだ。車内には、ひとりもひとがのっていない。選びとることなく、四人全員が日毬の犠牲者になる。
日毬は、座席の間を、音もなくすり抜けてゆく。まだ見られていない一人の女性の顔を覗き込んだとたん、日毬は喜びで染った。毬子だ。過去に深い恨みを抱いた女と、呼び寄せることも無く再会を果たしたのだ。
まさかこんなに上手くゆくとはおもっていなかった。
四人がそれぞれ最後の一人の時間に浸っている。不幸なものから、幸せなものまで────だが全て、刹那的なものでしかない。
毬子の日常は、あの腐敗臭が蔓延する部屋の記憶に囚われていた。靖人の死体、その周囲を舞う蝿の羽音。耳の奥にこびりついたその残響が、彼女の精神をじりじりと焼く。マンションの廊下を歩くたびに、隣の靖人の部屋から、あの異臭が漂ってくるような錯覚に陥る。それは、幻覚であると理解しながらも、拭い去ることのできない粘着質な不快感となって、彼女の精神を蝕んでいた。
睡眠は、悪夢と現実の境界を曖昧にする断続的なものと化した。暗闇の中で、蝿の羽音が耳元で鳴り響き、腐敗した肉の感触が肌を這いずる。目覚めても、その感覚は消えず、彼女の皮膚にへばりつく。日中の業務も手につかず、住民との会話も上の空だった。彼女の目は常に虚ろで、視線は常に、あの部屋のドアに引き寄せられていた。
どうやら不幸なようだと、日毬は零れ落ちそうな笑みを必死で押える。
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