(4)

看護師が病室にいる間だけが、緋音の唯一の安息の時間だ。その時間だけは父が“普通”でいてくれるため、気が休まる。


看護師が居ない時間も父の奇妙な状態を隠蔽すべく、あらゆる手を尽くしている。だが、それは無下にも蹴り倒され、父の奇行は悪化するばかりである。その状態を見ていると、緋音まで滅入ってしまうような気がした。

だが、それは今にも崩れ落ちそうな砂の城を手で堰き止めているだけのようなもので、看護師が去れば直ぐに崩壊する。


緋音はその状態を保つことでしか、精神の安定を保つしかない。しかし看護師がいる時間は一日のうち、多くても二時間ほどで、彼女は限界に達しようとしていた。


父の体調や些細な変化を看護師に報告し、薬の効能について尋ね、食事の摂取量や睡眠時間について細かく質問した。

そうすれば、看護師は嫌な顔ひとつせずに答えてくれる。それで時間を引き延ばそうとするが、あまりに長くすると、忙しいからと去ってしまう。

やはり、これだけでは父が退院した時に、介護ノイローゼになってしまう。看護師が滞在する時間を確保しながら、緋音は必死にこの異常な状況を打破する方法を探すことにした。本当はそんな余裕が無いが、仕方がないだろう。病室を抜け出し、病院の図書室にいき、医療専門書を漁った。目を皿のようにしてあらゆるページをめくり、父の症状に合致するものを探す。しかし、そこに記載されているどの症状も、父の奇妙な状態とは一致しない。

看護師がいる時だけ正気になるという症例など、どこにも記述されていなかった。


自宅に戻っても、インターネットで膨大な医療情報を検索し続けた。論文、症例報告など夜を徹して調べたが、やはり父の症状に類似する記述は見当たらない。得られるのは、疲労と絶望だけだった。


緋音は、藁にもすがる思いで、国内有数の大学病院を訪れることを決意した。

父がなにかしてしまうのでは無いかと不安になりつつも看護師に報告すると、病室を出る。病院前のバス停からバスに乗り、何本ものバスや電車を乗り継ぎ、都市にある大学病院を尋ねた。

事前に電話をかけると、検査結果を持参するように言われ、疑われるのでは無いかと心配になった。

そのため緋音は仕方なく正常、とばかり表示された検査結果を手に持ち、バスに乗っている。

三時間程度たち都心の病院に着いた。


大学病院の医師は、緋音の憔悴しきった様子と、彼女が持参した正常と書かれた検査結果を前に、訝しげな表情を浮かべる。相対する要素に、戸惑いを覚えたのか。あるいは彼女に嘘を感じたのだろう。

茜音は医師の様子に、眉を顰めた。

なぜ信じてくれないのだろうか。

切羽の詰まった様子になぜ嘘を感じたのだろうか。苛立ちを覚えつつも、落ち着いて説明することにした。父の症状を細かく話すが、終始話がわかっていない様子で、頷いているだけであった。

信じているのか、居ないのか分からない様子で医師は重い口を開く。

診察室は、無機質な白い壁と、薬品の匂いに満たされていた。向かいに座る医師の顔は、真偽不明な話をきいて疲労の色を帯びている。聞き終えた後、カルテに何かを書き込みながら、難しい顔をして首を傾げた。

「睦月さんのお父様の症状は、極めて稀なケースとしか言いようがありませんね。私たちが知る限りの医学的知識では、このような症状を説明することは困難です。退院が近いらしいですから、退院しましたら1度検査を受けられてはどうでしょう。まあ、考えられるのといえばまだ特定されていない脳の障害でしょうね」

軽くあしらうような口調に、苛立ちを覚えた。たとえ検査をしても、無駄であろう。正常と言われ、病院を追い出されるだけだ。

何を言っても無駄なのかもしれないと思いつつも、ため息混じりに口を開く。

「解決法はありますか?」

「看護師の存在が、何らかの心理的な影響を与えている可能性もゼロではありませんが、それだけでここまで劇的な変化が起こることは、通常は考えにくいですね。現時点では、対症両方しかないですよ。だけど看護師がいる前だと様子が普通なら、対症療法も難しいですね。病院にいる間は看護師に常にいてもらえば良いじゃないですか」

ため息が出てしまった。それが出来ればそうしている。

医師の言葉は、完全に緋音の心を打ち砕いた。つまり、父の異常な状態は、医学の範疇はんちゅうを超えていると、そう宣告されたも同然であった。

「そう出来ていればそうしてます!でも、看護師さんも長時間居られないから────」

少し声を荒らげ言い放つと、医師はなおも分からぬ様子でいいかける。

「じゃああなたが……」

「もう辛いです!無理です。そんな無責任に言わないでください!」

途中の言葉をさえぎり半ば叫ぶように言うと音を立ててドアを閉めた。続きの言葉はわかっていた。

診察室を出ると、廊下は、灰色に染まっている。行き交う人々も、彼らの平穏そうな顔も、全てが遠く、非現実的なものに感じられる。緋音は、重い足取りで病院を後にした。手に残るのは、重い正常値が並ぶ診断結果と、解決の糸口さえ見つからない絶望だけだった。

この異常な状況は、いつまで続くのであろうか。父は、このまま正気を失ったまま、あの奇妙な状態を繰り返すのだろうかか。そして、この絶望の連鎖は、いつ、どのようにして終わるのだろうか。緋音の心に、答えのない問いだけが、虚しく響き渡った。看病というよりも、父の異常な言動が露見しないよう、ひたすら時間を稼ぐための、虚しい芝居であった。看護師は、緋音の憔悴しきった様子を気遣い、通常よりも長く病室に留まることが多い。その間、父は、まるで何事もなかったかのように穏やかな表情で緋音に語りかけ、看護師との短い会話にも淀みなく応じた。しかし、看護師が部屋を出た途端、父の瞳は虚ろになり、意味不明な言葉が口から流れ出す。その繰り返される異常な光景は、緋音の心をじりじりと蝕んでいった。

ふと、脳裏に破滅的な考えが浮かんだ。父がこの世を去れば────。直ぐにその考えを振り払う。治るかもしれない。そう思うしか自分を取り繕うすべはない。

だが、目の前にあるのは、確実に迫り来る退院の日だけであった。

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