(3)
深夜二時を過ぎ、│
ドアを開けると、微かな生活音が風に乗り漂ってきた。
「みんな寝てるはずなのになぁー」
緋音の声が、小さく漏れ、生活音に解けてゆく。誰かが水を飲みにおりてきたのかと、ぼんやり思った。
だが、しばらくしてふと、脳裏に恐ろしい考えがよぎる。もしかしたら、泥棒や強盗ではないだろうか。気がつけば、心臓が波打っている。荒くなる息を潜めながら、中に進んでゆく。
音を立てないように、慎重に扉を開くと中を覗いた。
テレビが、暗闇に波紋を広げている。テレビの周辺の家具だけ、くっきりと浮かんでいる。だが、数秒見ていると、家具以外の何かが影を刻んでいた。人影だ。
テレビの前のソファーに座り、時折動く。水色のなにかが翻っている。
妹がまだ起きているのだ。そう思い、不安が解けてゆくのを感じる。
なぜおきているのかと疑問には思ったが、そこまで気に止めることはなく、パチリとでん気をつけた。少女の姿が、はっきりと現れる。やはり妹であったと思い、緋音は寝る支度をすることにした。
冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、二つのコップに継いで行く。セットのコップが、三つしかないことにすこし苛立ちながら、少女に出す。彼女が飲む様子を見ながら、緋音も一口飲んだ。
着替えを済ませると、緋音は少女を連れて部屋に戻る。暫くは二人で話していたが、やがて返事が緩慢になり、言葉も減ってゆく。
数分たつと、静寂が部屋を包み込んだ。それでも眠れずにいたが、寝息に耳を傾けていると、気がつけば意識は消えていた。
鉛色の空が、ひび割れた鏡のように、世界を映し出していた。足元はどこまでも続く見えない泥濘のようで、一歩踏み出すたびに、重く冷たい感触がまとわりつく。空気は鉛のように重く、肺を満たすたびに、息苦しさが喉の奥を締め付けた。
見慣れたはずの風景は歪み、ねじれ、悪意のあるオブジェのように聳え立っている。かつて温かい光を灯していた家々は、口を開けた骸骨のように暗い窓を見せ、風が吹くたびに、悲鳴のような軋みを上げた。愛していたはずの家族の顔はぼやけ、輪郭を失い、嘲笑うかのような歪んだ笑みを浮かべている。彼らの声は遠く、届くのは意味不明な囁きばかりだ。
逃げようとしても、足は泥のような空気に深く沈み込み、思うように動かない。背後からは、何か得体の知れないものが迫ってくる気配がする。振り返ろうとしても首は固まり、ただ、その冷たい存在感が肌を粟立たせる。具体的な形を持たない恐怖が、どろりとした液体のようにまとわりつき、精神をじわじわと蝕んでゆく。
声を出そうとしても、喉は乾ききって音にならない。助けを求めようとする意志は、無力な泡のように弾けて消える。見渡す限りは沈黙し、聞こえるのは心臓が不気味なほど大きく脈打つ音だけだ。破滅への行進音のように、絶望感を増幅させる。
時折、目の前の景色が激しく明滅する。閃光の中に浮かび上がるのは、形を持たない恐怖だ。
鋭利な刃物のように心を抉り、鮮明な痛みを作ってゆく。だが、光が消えても、それと同時に、それらは再び曖昧な風景の中に溶け込み、逃れることを許さない。
重力は増し、沼に引きずり込まれるような気がした。意識は混濁し、現実と虚構の境界線は曖昧になる。自分が何者なのか、どこにいるのかさえ分からなくなる。ただ、言いようのない不安と焦燥感だけが、容赦なく緋音の心を締め付ける。
そして、最後に訪れるのは、逃れられない終焉の予感であった。抗う術もなく、ただ、その冷たい抱擁に身を委ねるしかない。意識が完全に途絶える瞬間、かすかに聞こえるのは、安堵とも絶望ともつかない、乾いた嘲笑のような音だった。
じっとりと、肌に冷や汗がまとわりついている。
重たい瞼を押し上げても、夢の残滓はなお、ねっとりとした霧のように緋音の意識にこびりついている。鉛色の空、足元の泥濘、背後に迫る得体の知れない気配。それらは、目を開けた現実にも、色褪せることなく、ざらついた感触を残している。
カーテンの隙間から射し込む朝の光は、本来なら安堵をもたらすはずなのに、今はどこか冷たく、心許ない。部屋の隅々まで明るくなるにつれて、夢の中の歪んだ風景が、現実の輪郭と重なり合い、ぞっとするような錯覚を覚えた。
心臓は、まだ激しく脈打っている。夢の中で聞いた、破滅へのカウントダウンのような音は、耳の奥で反響し、静寂を不安で満たす。呼吸は浅く、肺に取り込む空気さえも、どこか冷たく感じられる。
夢から抜け出さなければと強く思うのに、意識は依然として悪夢の淵を彷徨っている。あの得体の知れないものの冷たい感触が、まだ肌に残っているような気がして、何度も自分の腕を擦った。だが、そこに実体はない。それなのに、確かに感じた恐怖は、鮮明な爪痕のように、心に深く刻まれている。
家族の顔も、夢の中では歪んでいた。嘲笑うような表情、意味不明な囁きが脳裏にへばりつき、彼らの本来の声や顔が思い出せない。万が一、夢の中の姿が、彼らの真の姿であったら────。そんなありえない考えが頭をよぎり、不覚にも背筋が凍り付く。
布団を握りしめ、必死に現実に繋ぎ止めようとする。壁の質感、シーツの感触、部屋に漂う微かな生活臭など、確かな現実の気配がどこか遠く、実体のない幻のように感じられる。夢があまりにも強烈で、現実の世界を薄いベールの向こう側のように感じさせてしまう。
恐怖は、じわじわと全身を這い上がってくる。夢の中の得体の知れない何かが、まだ自分のすぐそばにいるような気がして、何度も周囲を振り返った。だが、そこにあるのは、いつもの静かな寝室だけである。その事実が、逆に一層の不安を掻き立てる。姿が見えないからこそ、どこに潜んでいるか分からない。
夜明けの光も、夢を振り払う力を持たない。夢と現実の曖昧な境界線を露わにし、どちらの世界に自分がいるのか、分からなくさせる。夢の中で感じた絶望感、無力感は、現実の身体にまで深く浸透し、鉛のように重く、緋音をベッドに縫い付けている。
抜け出せない。この悪夢は、まだ終わっていないのかもしれない。夜明けの光の中で、緋音はただ一人、目に見えない恐怖に囚われ、震える。現実の世界は、悪夢の残滓によって歪み、安全な場所ではなく、新たな恐怖の舞台へと変貌していた。
暫く動けずにいると、気づけば寝ている妹の姿はない。
リビングへ行くと、朝食の準備をする母親の姿があった。
食卓には、父親が新聞を広げている。そして少女は、父親の広げる新聞に目をやっている。両親は、少女が妹として存在していることに何の疑問も抱かず、当たり前のように会話をしていた。
「日毬、これも食べなさい」
母親は、元から知っているかのように自然な様子で少女の名前を呼ぶ。するりと、名前が口から解け出たような様子だ。緋音も、その名前に何の違和感も覚えない。ただ襲い来る夢の残滓に苦しめられながら、平静を装う。
朝食の間、家族は他愛ない会話を交わした。父親は新聞記事について話し、母親は今日の天気について言及した。少女も、時折相槌を打ち会話を交わす。
普段と同じように一日が始まり、やがて終わってゆく。緋音にとって、妹の存在は、空気や光と同じように、当たり前のものである。昨夜の深夜列車のことなど、彼女の記憶の片隅に僅かに漂うだけだ。家族全員が、少女を、最初からそこにいた妹だと信じ、何の疑問も抱くことなく、日常を繰り返す。現実の歪みが生み出した、奇妙で静謐な日常が、あとどれくらい繰り返されるのか。
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