瘡蓋
楽天アイヒマン
瘡蓋
僕はMだ。ドがつくほどのMだ。いつからこの性癖が芽生えたのかはわからないが、自覚した時のことは鮮明に覚えている。
高校生の頃、僕の学校では3、4、5分間走というものがあった。体育館の中に引かれたトラックを3分走って3分休憩、4分走って4分休憩…というふうにインターバルで走る持久走だ。僕は高校生の時、ひどい虚弱体質だったのでこの授業が苦痛で仕方なかった。本気で走っても女子に抜かされる始末で、ギリギリ笑えないくらいのタイムを出しては体育教師から茶化されていた。
しかし唯一と言っていいほど楽しみにしていたのが、女子の襟足から香るシャンプーと汗の匂いだった。先ほど言った通り、僕が走るスピードは女子と大差ない。そうなると必然的に男子集団から離れ、女子集団の中走ることになる。息を切らせながら走る僕を、活発な女子バスケ部の集団が追い抜いていった。
規則正しく上下するポニーテールから、母親にねだって買ってもらったのであろう高級なシャンプーの残り香がする。しかしそれは清潔な香りではなく、汗の持つ酸味を纏っており、ゆっくりと失っていく若さと成熟した大人の色気を感じさせた。
僕が息を荒くした理由は、決して走っていただけではないことは確かだ。
ブザーがなり、全員が足を止めた。次に備えて、ほんの少しの休憩を挟む。僕は少し走っただけで息も絶え絶えだった。視界も白んでいき、脳みそは酸素を求めて必死に騒いでいる。僕はうるさい脳みそを無理やり黙らせて、努めて冷静に前を走っていた女子に話しかけた。
「めっちゃいい匂いするね、シャンプー何使ってるの?」
彼女はこちらをジロリと睨むと、軽蔑半分、照れ半分が混ざり合った複雑な笑顔でこう言った。
「君キモいね」
この時僕の脊髄に走った感覚は痺れだった。空気は透明さを失い、白濁した時間の中で、僕はその瞬間の甘さを噛み続けていた。
そう言葉を吐いた後、彼女はくるりと背を向け女子の集団に混ざっていった。女子の集団に混ざる彼女には、先ほど僕に見せた蠱惑的な表情は消え失せており、「普通」の女子として青春を味わっていた。
僕の膝は震えた。それが酸欠からくるものか、軽蔑される喜びを知ったからなのかは、今でもわからない。
僕が生きてきた中で一番「性」を感じた瞬間はここだろう。匂いと軽蔑と羞恥心、これらの要素は後の恋愛においても度々顔を出して、僕を困らせた。
数少ない経験から言わせて貰えば、僕のことを好きになってくれた女の子がいたとしても、異常に優しかったりする女の子は、大体柔軟剤や香水の匂いが気に入らなかったりするものだった。
逆に僕のことを歯牙にも掛けない女の子達は、すごくいい匂いがした。温かくて、どこか冷たくて、まるで思い出の中にいる母親の匂いみたいだった。
そんな女の子達は、決して僕のことを好きになることはなかった。
最も、彼女達が僕のことを好きと言った瞬間、僕は彼女達のことを嫌いになるだろう。
なぜなら、僕は僕のことが世界で一番好きだからだ。愛していると言っても過言ではない。僕自身への愛と比べたら、彼女達への愛なんてハナクソに混ざった産毛のようなものだ。
例えば駄菓子屋に行って、10円で美味しいガムと、100円の気取っていて尚且つ美味しくないウエハースどちらを買うだろうか。答えは言わなくてもわかるだろう。
あまりに手近な自分を愛しすぎるがあまり、僕は人に好きと言えなくなった。愛という言葉を辞書に載っている意味としてしか感じ取れなくなってしまったのだ。それは人を愛せないという劣等感へつながり、さらに自分を愛するようになってしまった。
毎朝鏡に向かって自分の思う最高の自分を作り上げた。ヘアワックスで髪の毛を整え、日焼け止めを塗った。おかげで歳の割には若々しい見た目をしている。鏡の中にいる僕はもう僕の手から離れてしまった僕なのだ。街中を歩く僕を、暗い六畳間から僕が眺めている。自意識も肥大化しすぎると一人の人間として生まれるらしい。ハッピーバースデイ。
見た目を整えるというのはいいことばかりではない。変な女も寄ってくるようになってしまった。
彼女達は当たり前のように好きという言葉を使う。僕の気持ちや葛藤も知らず。僕は彼女達を妬んだ。
自分を好きになる人を妬むという体験は中々に気持ちが良かった。自尊心はますます肥え太り、僕は自分の醜さにさえプライドを持つようになった。
言葉にこだわり、教養を身につけようともがく姿勢は、その全てが僕の醜さを引き立たせるためのスパイスだ。その刺激的な香りはどこかで嗅いだことはあるのだが、どこだったかは思い出せない。
僕にさえ僕のことがわからないのだ。そこら辺の変な女達に僕のことがわかるわけがない。わかったようなことを言うなバカめ。今日はそれだけ言って筆を置こう。
瘡蓋 楽天アイヒマン @rakuten-Eichmann
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