第12話

 庭の片隅、小さな小川が流れている横にある木陰のベンチに、アナとアマルは並んで座っていた。はたから見れば年の離れた兄妹に見えるような風景である。風が吹くたび、2人の金と銀の髪がなびいてきらきらと輝いた。


「アマルさんは、勇者様になるの?」


 焼き菓子をちみちみ齧りながら、アナは問いかけた。膝の上にぼろぼろ食べかすが落ちるけれど、今日はそれを叱る人は誰もいない。


「うん――そうだね、そういう手筈になっている」

「てはず」

「生まれた時からずっと、勇者になるように言い聞かされてきたからね。今更どうってことはないさ」

「ふーん」


 アナに難しい言葉はわからなかったけれど、どこか遠いところを見ているようなアマルの横顔を見上げていると何も聞けないように思えて黙っていた。


 彼は存外寂しい人なのかもしれない、とアナは子ども心に思っていた。

 ベンチに座ってすぐは、周囲をヒラヒラ飛ぶ蝶のことや、逃げてしまった猫についての話をポツポツとしていた。アナにとって面白くもなんともない会話だったけれど、彼は目に映るすべてが珍しいらしく少しだけ声色が明るくなっていた、ように思う。

 ――しばらくして、彼は聖女について話し始めた。大枠は昨日、リーコスと共に司祭から聞いた内容と同じだった。しかし、彼は言う。


「勇者と聖女はともに旅立って、仲間と共に魔王を討伐するんだ」とうばつ、という言葉の意味は分からなかったけれど、仲間と何かをするらしいことはアナにもわかった。「旅を通して、仲間を集める必要がある」

「聖女さまがいなかったら、アマルさんはひとり?」

「……うん。もし君が聖女にならないというなら、私は1人で旅に出ないといけないね」

「そっかあ……」


 ぽきん、と軽い音がして、クッキーは真っ二つに割れた。アナは慌てて手皿でそれを受け止め、しばし迷った後、のろのろとアマルにそれを差し出した。アマルはひどく驚いたような顔をして、そしてすぐ後、少し照れたようにはにかんで見せた。骨ばった、決して細くはない指でクッキーのかけらをつまみあげ、彼は一口で食べてしまう。おいしい? とアナが聞くと、彼は口を開くことなく頷いた。


「聖女には誰でもなれるわけじゃない」

「そうなの?」

「うん」

「じゃあ、マガはなれないの?」

「マガ……ああ、あの女の子」

「なれないの?」


 アナは念を押すようにアマルへ問いかけた。アナの目はヘンにぎらぎら光っているようにみえて、アマルはなぜだか背中がぞわぞわするのを感じた。


「なれないよ。……聖女は、「かみさま」に選ばれた人しか、なれない」

「……そうなんだ……」

「アナは選ばれたんだ。すごいことだ」

「ふーん……」


 アナは自分の前髪をこちょこちょいじって、恥ずかしそうに目を伏せた。金髪の隙間からのぞく小さく白い、形の良い耳は真っ赤に染まっている。

 アマルは、アナに聖女にまつわる様々な話を聞かせた。かつて、大昔、アナの想像できないくらい前におきた冒険譚。千年もまえ、最初の勇者と共に冒険に出た聖女は、そのかみさまへの信仰や生まれ持った魔力で、様々な危機を脱したのだという。おとぎ話でも聞かされているような心地で、アナはじっとその伝説を聞いていた。 

 海の魔物との知恵比べをした話だとか、森の中で勇者一行が迷ってしまったときにかみさまへお祈りをして助けてもらった話だとか、冒険の果てで魔王を倒したはなしだとか。

 一般的な昔話だと前置きしてから話される冒険譚は、しかしアナにとって聞いたことがないもので、夢のようだと思った。心躍る古代の冒険譚は、いつだって子どもの心をつかんで離さない。アマルもいつかの、まだ幼いころの自分がこうやってきらきらした目で話を聞いていたことを思い出してひそかに笑った。

 一通り話し終わった後、アマルはアナに問いかけた。


「アナは、どこかに旅をしたことはあるかい?」

「ううん。……あ、でも、生まれてからここにくるまでは、お母さんと一緒にしてたみたい、です。旅」

「へえ。故郷があるんだね」

「行ってみたい、です」

「生まれた場所に?」

「うん」

「いい夢だね。……私もこの国しか知らないから、どこか違う場所には行ってみたい」

「一緒、ですね?」

「そうだね。一緒だ」


 アナはクスクス笑う。ふいに見上げると、優しいまなざしでこちらを見ていたアマルと視線がかち合い、なんとなく恥ずかしくて次はアナが前を向いた。

 塀を超えた先、丘の下には森があり、その少し向こう側には町が広がっている。街のそのもっとさき、もはや見えないようなところには、何が広がっているのだろう――アナは、もはやかすかな霧のようにしか見えない、街を挟んで向こう側に見える深緑の森を眺めていた。


「ねえ、アナ」

「?」

「私と、旅に出てくれないか」

「……」


 アマルはアナの前にひざまずき、静かに言葉を重ねた。赤い瞳が、まっすぐ射るようにアナを見つめている。燃えるような、強い意志を宿した鋭い瞳。アナは、この目をどこかで見たような気がした。

 ひく、とアナの喉が小さく上下する。喉の内側が張り付いてしまったかのように、うまく言葉が吐き出せなかった。ようやっと吐き出した声は、みっともなく震えている。

 

「わたし、は――……」




 アマルが帰っていったのは、日が落ちる少し前だった。彼が丘を降りていくのを追いかけるように太陽は沈み、辺りは一気に夜の雰囲気をまとう。彼は森を抜けた先に馬をつないでいると言っていた。アナは見えるはずもないのに、街を駆ける彼と馬を見たくて、長い間門の前に立っていた。


「アナ」呼びに来たのはマガだった。「ご飯だよ。入ろう」

「うん」


 アナはマガの元へ駆けて行き、手をぎゅっと握る。決して余ることのないサイズの手が、随分久しぶりなように思えた。門から孤児院まで、緩やかな坂道を登りながら他愛もない話をつづける。隣り合って、普通に立って歩いている――あの彼のように、かがむこともなく歩いている――マガが、なぜだか急に幼い子供のように見えて、アナは1人首をかしげた。そんなそぶりに気がつくこともなく、穏やかな声でマガは話していた。


「王子さまと何話したの」

「うーん……いろんなこと!」

「そう」

「アマルさん、かわいそうだったよ」

「かわいそう?」

「1人なんだって」

「……」


 マガは返事をしなかった。アナは建物に向かって歩いているのを途中で手を引かれ立ち止まる。3歩後ろに立っているマガが立ち止まり、つないだ手が橋のように伸びているのに気がついた。


「どうしたい? あんたは」

「マガ?」


 うつむいた彼女の顔がわずかに光っているように見えて、アナは目をごしごし擦った。


「あんた、聖女になりたい?」

「……うん」

「!」

「だって、アマルさんかわいそうだよ。ずっと1人なんだよ? それにね、マガ。聖女さまになれば、かみさまだってきっとお喜びに……」

「あいつは喜ばない!」

「!」


 アナは、マガが怒鳴るのを初めて耳にした。

 彼女はうつむいたまま肩で息をしている。まるで、体の奥底から湧くどうしようもない感情をそのままアナにぶつけまいとしているかのようだった。つないだ手が冷たい。まるで氷のようだった。


「マガ……?」

「聖女になったら、あんたが1人になる」

「え?」

「みんな勇者にしか興味がない。誰もあんたを見ちゃくれない。かわいそうなのはアンタだよ」

「なんで……? ねえマガ、マガはついてきてくれるんでしょ?」

「行けない。誰もついていけないんだよ。わかるだろ? アタシたちは――そういう役割じゃない」

「!」


 マガはアナの顔を見る。マガは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。夜の闇を背負った彼女は、親に置いていかれる子どものように顔をゆがませて、駄々っ子みたいに両手を握って、肩を怒らせている。歳の離れた頼りになる姉のような存在のマガが、言ってしまえば「年相応」な感情をむき出しにしているところを、アナは初めて目にしていた。アナの頭のどこか、解離したような意識が、「最近は初めてのことをよくみるなあ」、とのんきなことを思っていた。


「ねえ、もう一回考えなよ。だって……だってあんたは、《――》の」

「ふたり、とも」


 呼び声がして、アナはふりかえる。丘を這う道の上、カンテラを手にしたカロンが立っていた。鉄製のマスクが橙の光にぬらぬらと照り輝いて、その奥に見える影の中にも灰色じみた目が光って浮かんでいた。

 冷たい風が通り過ぎる。カロンは、アナを飛び越えてマガを見ているように思えた。――カロンは、彼女に対して、怒っている? と、アナはぼんやり考える。答え合わせはできない。


「晩ごはん、だよ。帰ろう」


 声の揺らぎを面に出さないまま、カロンは何でもないようにそう静かに呟いた。ともすれば独り言にも聞こえるような声量で放たれた言葉は、しかしそっと差し出された手に意味を付与され、2人を手招いていることがわかる。

 アナはカロンの年長者らしく整えられてはいるものの、日常生活でついた薄い傷が走る武骨な手が、誰かに似ている、と思った。アナは駆け出し、カロンの手を握る。小さな手には余る大きさで、人差し指から薬指までをぎゅっと握る。カロンはマガとちがって、握り返してくれることはない。今はそれが、心地よかった。


「マガ」

「……うん」


 とぼとぼ、重い足取りでマガは坂を上って来る。それを見とどけると、カロンは背を向けて歩き始めた。彼女の履く重い革靴に砂利がすりつぶされて軋む。アナはそっと振り返り、あとに続くマガの顔を盗み見た――やはり、彼女の顔が光っただなんて、幻覚だったのだ! とか思いながら、彼女が叱られた犬みたいにおとなしくついてくるのを、珍しい気持ちで眺めていた。


「アナ」

「?」


 ふいに呼ばれ、アナはカロンを見上げる。彼女は視線をよこすことなく言葉をつづけた。


「ごはんの、あと。先生のお部屋に、行って」

「先生のお部屋?」

「今日の、お話。聞きたいん、だって」

「わかった」


 アナは自分の手のひらを見つめながら答えた。なんだか急に、大きなことを任されたような気がしていた。……

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