第7話
「おまえだな」
少年は、アナを見下ろして静かに呟いた。
だだっ広い、眩しいほどに白い光が差し込む小さな庭の中である。
周囲には見たこともない黒い花が咲いていて、さらにその周囲を見たこともない蝶が金の鱗粉を振りまきながら飛んでいる。アナの鼻の頭に蝶が止まり、そして飛び立った。果実のような甘いにおいに、思わずくしゃみをする。
光を背に立っている少年は、何の温度も感じられない顔でアナを見る。ひょろりと背が高く、まるで日陰で育てられた若木のようだった。このまるでモノクロの天国のような光景の中、彼の亜麻色の髪だけがちぐはぐである。風化して色の抜け落ちた石像だといわれても信じてしまうほどだった。
低い声が空気を揺らす。
「会いたかった。ずっと――待っていた」
「待ってた?」
「ああ。おまえが、俺に気づくのを」
「……?」
四つん這いになって茂みから顔を出したアナは、お返しというように少年の顔をじっと見つめている。
緑の目と、金の目が交差する。
二人の間に、奇妙な沈黙が流れていた。甲高い鳥の囀りが聞こえる。
「……あなた、だれ?」
はじめに口火を切ったのはアナだった。四つん這いのまま、短く声を発する。
少年は何も言わず、ただ黙っていた。その口唇の端には、うっすらと微笑みが浮かんでいる。何かを懐かしむような、それとも儚むような、思い出の中を探るような微笑みである。
――たっぷりと沈黙を続けて、少年は漸く口を開いた。白い歯が、薄くひび割れた唇の隙間からのぞく。そのさらに奥、くらい口内では深紅の舌がうごめいていた。
「俺が誰かは、いえない」
「なんで?」
「まだ、その時ではない――し、俺は「そういう役割」じゃない」
少年は一歩、アナに向かって進む。
足元に生えた短い草を踏みしめて。彼は靴を履いていなかった。生白い骨ばった足が新緑に沈んではまた浮上する。藻の生えた池の上を滑る一隻の船のようだった。
彼はアナの前に仁王立ちになり、遥か頭上からアナを見下ろす。完全に影になってしまった顔の中で、金色の目だけが不思議と光っていた。髪に覆いかぶさるようにして、丸い輪が見えた気がした。
「ねえ、おまえ。ここから帰ったら言ってごらんよ。先生に」
「?」
しゃがみ込んだ少年は、アナの髪を一束手に取りもてあそぶ。骨ばった手がくるくるとうごめいている。耳に触れた体温の一切がないそれに、恐怖を感じることは不思議となかった。
「言うんだぞ。絶対……「ママに会いたい」って」
「ママ?」
「ああ。先生に言え。あのお方なら、一切承知のはずだ……」
「……? 先生が?」
少年は喉の奥でくつくつと笑っている。そうして、どこからかナイフを取り出しアナに向けた。その白くぎらついた刃を向けられてもなお、彼女は恐怖を感じることはなかった。まるで柔らかな羽でも向けられているかのような顔をしていた。
少年はもてあそんでいた髪をつまみ、指の関節一つ分程度切り取る。絹糸のような細い髪が、彼の手の中でくたりと力をなくす。
「さ、もう帰れ。俺の用は済んだから」
少年はアナの頭を一度撫で、そうして踵を返し歩きはじめる。草を踏むさくさくという音が遠ざかっていくにつれ、アナは強烈な眠気の波に襲われ始めた。視界がぐらぐらと揺れ始める。まるで、嵐の中を進む船のように。
アナは手を伸ばした。しかし陽光の中に溶けるようにおぼろになっていく少年の姿に届くことはない。
――遠くで、名前を呼ばれている。
アナの意識は、ほとんど暴力的に消え去った。
〇
「――ナ、アナ!」
「ン……」
ゆっくり、目を開ける。
目の前にはマガの顔が大写しになっていて、アナは目をぱちくりと瞬かせた。マガのきれいに編んであったはずのみつあみはところどころ崩れかかって、木の葉や細い小枝が絡みついている。
辺りはすでに薄暗く、マガの頭越しにランプを手にしたリーコスが立っているのが見えた。その顔に刻まれた眉間の皴は深い。
頬を撫でる草の感覚と、吹き付ける冷え切った風に思わず身震いする。夜に一歩足を踏み入れた世界は、容赦なく体温を奪う。
「! アナ、起きた? 大丈夫?」
マガの手がぺたぺたと顔じゅうを撫でまわす。もみくちゃにされながら、アナはか細く大丈夫ぅ、と答えた。その返事に、空気が緩むのがわかる。
「ちょっと目を離したらいなくなってたんだよ、あんた」
「え?」
「どこ行ってたのさ、こっちは大騒ぎだったんだから……」
「んー……わかんない」
「はあ?」
「わかんない」
「わかんないってことはないだろうよ」
「だってわかんないんだもん」
マガは吊り上がった眉毛をさらに吊り上げて、アナの頬をむにゅりとつねり上げた。
「心配かけさせたのになんだいそれ! こっちはあんたがいなくなったから礼拝終わってから大捜索したんだからね!」
「ごめんなひゃあ……」
「ったく……ああちょいと、髪まで切っちまって」
「え? ああ」
顔のすぐ横に垂れる髪の一束は、まるで鋭利な刃物で切り取られたかのように短くなっている。マガは大きなため息をついてから手を放し、アナをひょいと抱え上げると後ろに控えていたリーコスに引き渡す。そうしてようやく、アナは青ざめた。眉間にありったけの皴を寄せて、それ以外はないだ湖面のように穏やかなリーコスの顔――ブチギレである――を見たからである。アナは振り返り、今にも泣き出しそうな声でマガを呼んだ。いつもならなんやかんやで割って入ってくれる彼女でも、今回ばかりは肩をすくめ首を振るばかりであった。
「マガ」
「はいはい。じゃあ、あたし先生に話してくるから。司祭と話し終わったら広間にいるって言ってただろ?」
「そうだな」
「了解。……あと頼んだよ、リーコス」
「ああ」
「マ、マガ……」
「自業自得。あたしもこってり絞られたんだからね。あんたも絞られといで」
「うう……」
「……行くぞ」
――まるで小麦粉の袋が運ばれるように聖堂へ連行されていくアナを、マガは呆れたように眺めていた。この後へちょへちょになって孤児院に帰ってくるのだろう妹分を思い、苦笑して頭を掻いた。何か、甘いものでも用意しておいてやろうか、とつい思ってしまうのだった。ついでに、絡まっていた尖った枝を引き抜く。ざらりとした質感が、やけに鋭敏に感じられた。
枝を手の中でもてあそびながら、何やらぼそぼそと話しているらしい二人の背中をしばし見送った後
――不意にマガは、自身の背後に広がる植木に目を向ける。
「……」
何の変哲もない、ただの緑に生い茂った茂みである――一般人の目から見れば。
植木の端、少しだけ背の高い木と重なり合っている部分。そこが一瞬、蜃気楼のようにほころんだ。
マガは何を言うでもなく、小枝を逆手に握り自分の手首に突き立てた。細くも鋭く尖った枝の先端は、マガの薄い皮膚を突き破り太い血管に到達する。表層に滲んだ血液は、まるで意志を持つかのように枝に絡みついていく。時折沸騰するようにその表面をうねらせながら、何の変哲もなかったはずの小枝に一枚の赤黒い膜を形成した。
マガはその枝を、ほころんでは閉じる不安定な隙間に向かって投擲する。ダーツの矢のようにまっすぐ飛んでいった枝は、正確にほころびの中心を捉え、刺さる。赤い火花が散る。火花は次第に勢いを増し、雷のような激しさへと変わっていく。マガは全身のどの筋肉も動かすことなく、じっとその反応を注視していた。
――ばちり、とひときわ大きな火花が上がった、その瞬間。
「ごぇ、ぁ」
マガの顔に、一閃の大きな切創が形成される。額から左目、頬にかけてをずぱりと切り裂く巨大な傷は、一瞬で膿んだかのように熱を持ち、赤黒いを通り越してほとんど黒い血をぼたぼた垂れ流した。衝撃によろけ、思わず顔を伏せる。しかしマガは右目をぐりんと動かし茂みに向ける。
――そこに植木はすでになく、白いレンガ造りにツタの生い茂った塀があるのみだった。
傷をおさえながらのろのろとそこに近づく。顔から滴る血が、新緑の地面に点々と後を残す。
半分血で赤い視界の中、地面に落ちて色濃い染みを残す枝と、闇に紛れるような黒い花びらを見た。
「……ハハ」
乾いた笑いを放つ。
花びらを拾い上げると、それはまるで灰のように手の中で崩れ風に乗り飛んでいった。
「そんな歳かね、あいつは……」
マガは自身の手首からあふれる血を顔に塗りたくる。顔を洗うように、傷を中心に念入りに刷り込むと、傷から白い光があふれ次第に端から閉じていく。熱を出した時のような呼吸は、次第に落ち着いていった。
生傷が薄い傷跡になったころ、ゆっくりと瞼をあげる。左の眼球は瞳孔が開いたまましばらく見当違いの方を向いていたが、何度か瞬きをすると正常に機能し始めた。
頭を振る。乾ききらなかった血がパタパタと辺りに振りまかれたが、それらはあとを残すことなく消えていった。
マガの薄いくちびるから、呼吸とも声ともつかない音が漏れ出る。ああ、と吐き出されたそれは、誰にも届かない。
「どうしたもんかねえ」
マガはその場にうずくまり、自身を強く抱きしめた。
すすり泣く声が、狭い世界にこだまする。――
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