第十章:女王の間 (前)

女王の間


城の廊下を、逃げる音もなく駆け抜けてきた猫は、壁に空いた小窓のひとつに身を滑らせると、まるで計算された舞のように着地した。足音ひとつ立てず、そこはすでに"誰かの"領域だった。


――静謐。


空気の重さが違う。古い石壁から染み出す幾世紀もの歴史、窓から差し込む夕陽の光が描く幾何学模様、そして控えめに漂う高貴な香り。華やかさと厳粛さが絶妙に交わる空間。そこは貴婦人の間、上品に磨かれた床と、風の音さえ遠慮するような深い絨毯。白と金の繊細な装飾が施された家具たち。壁には気品ある肖像画がいくつか掛けられ、それぞれが物言わぬ観客のように部屋を見守っている。そして部屋の中央に、天蓋付きの寝台。桜色の絹のカーテンが優雅に垂れ下がり、周囲を仄かな光で包んでいる。窓際の細工の施された丸テーブルには紅茶の香りが漂うティーセット、銀の茶器に映る光が瞬き、華やかな小さな花々が活けられたポーセリンの花瓶。そして、その中心に――


『……この部屋、明らかに格が違う……』


猫は床の香りをかぐ。ローズウッドの光沢、熟成された家具の香り、壁から漂う古書の匂い。だが、それらを超える「何か」がそこにいた。


高い寝台の上。

ゆるやかな毛並み。

半眼でこちらを見下ろすような、気怠げな視線。


その存在はあまりにも静かで、あまりにも堂々としていて。


『……あれは、女王……?』


ふわり、と寝台から降り立ったそれは、まるで羽のように軽やかに、けれど威厳そのものを揺らしながら、近づいてくる。白銀の毛並みは城の最高級の絹布にも引けを取らず、一本一本が光を帯びているかのよう。その歩みは波のように流れるリズムを刻み、床を踏む足音すら音楽のように調和している。金色の瞳には、何世代にも渡って受け継がれてきた高貴さが宿っている。尻尾は優美な曲線を描き、まるで王笏のように威厳を表していた。


「まぁ……見慣れない顔ね。随分と、野性味のある香りだこと」


その声は、聞こえた気がした。言葉ではなく、風のように流れる空気の波動として。

猫の耳がぴくりと揺れる。目の前に立つその猫――絹のような白銀の毛並み、金の瞳、首元に宝石を繋いだリボン。サファイアとダイヤモンドが交互に並ぶネックレスは、その白銀の毛並みをいっそう引き立てている。華奢な首筋を飾るそのジュエリーは、城の王族も羨むほどの品格を漂わせ、まさしくこの城の"女王"だった。


『……ただの猫じゃない……』


「それ、誰にいただいたの? ドワーフの細工……少し粗いけど、悪くはないわ」


女王猫が見つめるのは、首にかけられた装飾の首輪。古びた革に小さな金細工。旅のはじまりに、とあるドワーフの爺が着けてくれたものだった。白銀の女王の視線に見つめられ、粗野な細工も一瞬だけ価値あるものに見えた。


猫は何も答えず、ただじっとその女王を見返す。外から聞こえる物音も、この静謐な空間には入り込めない。二匹の間に流れる沈黙だけが、部屋を支配していた。


「ふふ……なるほど。あなた、面白いわ」


次の瞬間、女王は寝台へと舞い戻り、長く巻いた尻尾をふわりと揺らして、ひとつの言葉を投げたように感じられた。その動きは水面を渡る風のように優雅で、寝台の上の絹の布地に触れる様子はまるで絵画の一場面のように美しい。白銀の毛並みが夕陽に照らされ、室内の金色の装飾と呼応するように輝いていた。


「気が向いたら、また来なさい。……次は、逃げなくてもいいようにね?」


その言葉を背に、猫はゆっくりと部屋を後にする。出入り口で一度だけ振り返ると、女王は既に目を閉じ、高貴な静寂の中で、まるで彫像のように動かなくなっていた。金色の夕陽が女王の輪郭を縁取り、美しい影を床に落としている。


扉の向こうでは、まだ追跡の気配が残っている。石造りの冷たい廊下、壁に掛けられた肖像画の眼差し、遠くで揺れるトーチの火影。だが、たった今交わした視線と言葉のような沈黙が、どこかで猫の歩みを変えた。


迷宮のような城の廊下へと消えていく猫の姿は、もはや逃げるものではなく、新たな物語の始まりを予感させるものだった。

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